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第四話 ティーロワイヤル

 マリルはいつも通りシェイルの自室で仕事の近況を説明している。シェイルは頬杖をついてそれを聞いていた。さして急な仕事になりそうな状況はなさそうである。
 外はすでに暗く森の夜独特の気配が室内にまでにじんできているようだ。
 他の部屋と違ってこの部屋の本はきちんと分類され書棚におさめられている。広い部屋ではないが書き物ができる机や椅子など必要最低限のものはそろっていた。ここまで部屋を整えるのにだいぶ時間がかかったが、以前の無駄に広く資料ひとつ取ってくるにも時間がかかる部屋よりは居心地がいい。
 シェイルはマリルが淹れてくれた紅茶を一口すする。
「また上等な紅茶を持ってきたものですね」
 色は薄いのに花のような香りとしっかりとした風味が主張している。
「ラヴォート殿下からの贈り物ね」
 言いながらマリルは自分のカップにブランデーをどばどばと注ぎ込んでいる。せっかくの紅茶の風味もあれでは台無しだ。
「あ、殿下といえば、伝言を忘れるとこだった」
 そのたっぷりブランデーが入った紅茶を少し口に含むとうっとりと目をつぶる。その童顔のせいでチョコレートを口に放ってもらった子供のような顔だ。
「『話がややこしくなるからデルゴヴァ卿に近づくな』とか言ってたね。ほら、今日――」
 そのとき外から「なあ」という猫の声が聞こえマリルは話途中で「猫だ!」と椅子を蹴飛ばす勢いで立ち上がる。
 窓の外で猫が鼻先を見せながら「入れてくれ」と言わんばかりに窓をなでているようだった。猫は濃密な森の闇から抜け出そうとしているように見える。
 マリルがいそいそと窓を開けると、猫は闇の中からにゅるりとやわらかく体をくねらせて侵入してくる。
「『今日』、どうしたんですか」
 シェイルが話を促してもマリルは猫に夢中になっている。
 無邪気で微笑ましい友人の姿といえなくもないが、裏の顔もよく知っているシェイルはまったく笑いを誘われない。マリルが猫に飽きるか、猫がマリルに飽きるまで紅茶を飲みながら辛抱強く待つしかない。
「あ!」
 唐突にマリルが声をあげ、おとなしく撫でられていた猫は驚いたようにぱっと逃げ去った。今度は何かと見守っていると帆布の肩掛け鞄からもったいぶったように何かの包みを取り出してテーブルにごとりと置いた。
「頼まれていたブツですよ」
 子供のような顔に悪徳な高官のようなニヤニヤ笑いを貼り付けてバリバリと包みを破り捨てる。
「ああ、すっかり忘れていました」
 それはダウレの盤と駒だった。
「ほかのボードゲームも手に入れようと思えば手に入れられたんだけど重いからまた今度ね」
 シェイルは木製のすべすべとした盤に指を這わせる。別段思い入れの深いゲームでもなかったが、久々にやったら意外と面白かった。先日のエリッツとのゲームを思い出してシェイルは少しだけ微笑んだ。
 序盤は定石をまじめになぞるような打ち方をするのでつまらない勝負になると思っていたが、エリッツの手筋はそれだけではなかった。微妙なひねり方をしてくる。それでも少し心得た素人のレベルであり簡単に勝てると思っていたが、中盤は一番嫌なタイミングで一番嫌なところへ打ち込んできた。観客は悪手と見たようだったが、それは違う。本人もあまり意図してはいなかったようだがこれはセンスの問題だ。仕込めば面白い遊び相手になる。
 街の外に放り出すとまではいかなくともエリッツを連れてくるつもりなどなかった。食事をさせたら役所にでも押しつけてくればよいと思っていたのだ。
 留守番がいれば仕事がはかどると思ったのも嘘ではないが、空いた時間にボードゲームをする相手がいれば気晴らしになると考えついたら思わず連れ帰ってしまっていた。
「何をニヤニヤしてるの。気持ち悪い」
 マリルは包み紙を手でもて遊びながら椅子の上で足を組む。
「しかしめずらしいね。私物を増やすなんて。弟子がかわいくて仕方ない?」
 マリルは「弟子」のところに変なアクセントをつけて言う。エリッツを保護したいきさつは以前に説明してあった。この家においておくなど怒られるかと思ったが案外普通に受け入れている。
 マリルはすぐにまた何かを思いついたように手を叩いた。あいかわらずせわしない。
「それからお耳に入れておいた方がいいかなって話がありまーす」
 芝居がかった仕草でマリルはまた肩掛け鞄に手を突っ込んで十数枚の書類の束をぐしゃぐしゃと取り出す。むらっ気のある友人の相手は慣れていても疲れる。
「ダグラス・グーデンバルドって、あの軍部の」
 シェイルは渡された書類の冒頭だけ確認する。
「そういえば、ちょっと前に結婚祝いのパーティに招待されましたね」
「それだよ!」
 マリルはうれしそうに指を鳴らす。
「どれですか」
「いいから早く読んでよ」
 読み進めるうちにシェイルは自身の眉間にしわが寄ってゆくのを感じていた。
「これは……なかなかエグい話ですね」
「でしょう」
 なぜかマリルは得意げだ。
「やたら妙な描写が多いですね。誰が書いたんですが。この報告書」
「いかがわしい小説みたいでしょ。ゼインがナースメイドの話を忠実に書き写した迫真の作品です」
「そういうのは端折ってもらってもかまわないんですが」
 ゼインというちょっと変わった青年は仕事よりも絵画や小説、音楽、建築などに興味を示し、その真似事をするのを好んでいた。この家にも何枚か彼が描いた不気味な絵が掛けられており、新作が仕上がるたびにあらゆる角度から不愉快な感情を喚起する絵に入れかわるので地味に神経に障るのである。
 書面にはレジス国軍部に所属しそこそこ地位がある一人の青年のかなりえげつない醜聞がつづられていた。最近結婚したばかりだ。こんなこと相手の家に知れたらどうなることやら、シェイルはいろいろな意味で気が重くなった。
 さらにこの書面によるとこのダグラス・グーデンバルドの兄、これは軍部で相当な発言力を持っている要人ジェルガス・グーデンバルドである、彼もまたその渦中にあるようだ。それどころか家全体か。グーデンバルド家といえば、軍部でも名門とされていたがどうもこれは――。
「これのどこがおもしろい話なんですか。ただのゴシップでしょう」
「そうかも」
 マリルはブランデー入りの紅茶をこくりと飲み干してから「念のため確認していただきたい」と言い放った。
「もしかして何かの時に使える駒になるかもしれない。でも人違いだったら――」
 たたみかけてくるマリルを手のひらだけで制する。それは重々承知しているが、「駒」と言われてなるほどと思う。そういう事情があったわけだ。
 もう一度書類に目を通す。
 するとマリルが身を乗り出すようにして書類をのぞきこむ。すでに空になった紅茶のカップがテーブルから落ちそうになりシェイルは慌てて受け止めた。
「これ。これでわかるんじゃないの。ここに書いてある『舌』」
 マリルは無邪気な子供の顔で濃いピンク色の舌を突き出した。ふわりと上等なブランデーの香りがする。
「舌、ですか。そもそもこれメイドの噂話でしょう。証拠にはならないと思いますが。」
「そうかも」
 マリルはからからと笑った。酔っぱらっているのではないか、シェイルは話を切り上げる合図として茶器を片づけ立ち上がった。マリルも素直にそれに倣う。
「あれ、今夜は弟子が出てこないね」
 シェイルの部屋を出たマリルはきょろきょろと家の中を見渡した。普段なら子犬のようにあれやこれやと話しかけてくる少年の気配がない。
「昼間に水遊びをしていたみたいで、裸でうろうろしていましたが、疲れたか……寒いんじゃないですか」
 二人の足元を猫がするりと抜けてゆく。
「水遊びか。やっぱり子供は無邪気でいいね」
 マリルは自身も子供のような顔でそんなことを言う。
「でも着替え、もってないの? 今度適当に古い服をとってこようか」
「わたしの服?」
「だってシェイルの弟子だよ」
 弟子といってもまだ何も教えていない。それに服も制服かそれに準ずるようなものしか置いてないだろう。それでも何もないよりはましだろうか。
「じゃあ、いつでもいいので適当に持ってきてください」
「はぁーい。じゃあまたね」と手を振るマリルの後ろを猫が見送るようについて行く。
 夜間の女性の一人歩き、とは思わなかった。彼女はただの見回りの町役人ではない。事情は複雑だがいわゆる軍部の人間である。彼女をどうにかしようとした側の人間がどうにかなってしまう。
 夜の森は案外騒がしい。虫や鳥、何らかの動物の声、風の音、せせらぎの音。
 自分がこんな場所にいるのが不思議だった。遠い昔、このような森を歩いていた。焚火の音、異国の弦楽器、あれはなんという名前だったか。
 もっとずっと寒い場所だ。夏は短く、冬は雪深い。この国の春はあの場所の夏と似た気配がする。
 いつのまにか猫が戻ってきていて足元でひと声鳴いた。

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