第三話 封書
エリッツはシェイルの家にすっかり居ついていた。
シェイルの家は街中にはない。レジスの街中で暮らして兄の家を探すというもくろみははずれたといわざるを得ないが妙に居心地がいい。
街の西スサリオ山の裾野に広がる森の中というずいぶん辺鄙な場所である。街道のある南側の大門に比べ勝手口のような印象の西門、そこから獣道に毛の生えたような細道を延々半刻ほども歩くのだ。道からは大きく育った木々に視界を阻まれてそこに家があることすらわからない。街からここへ一人で来ようと思っても迷ってしまいそうだ。
家の前には湧き水がたまる澄んだ泉があり、そこから細く流れてゆく小川のせせらぎが常に聞こえてきた。こぢんまりとした家の中も落ち着いていて必要なもののすべてが簡単に手に届く場所にあることにエリッツは安らいだ。
それに家中に様々な本が置いてあったので退屈しない。本といえばどんなものにせよかなり高価である。それが無造作に置いてある。テーブルや椅子の上に置いてあるならまだわかるが、床や棚の上、自由につかってよいと言われてあてがわれた部屋のベッドの上にまで置いてあった。
それは本当に様々な本だ。料理の本、草花の本、虫の本、古い物語、詩歌、なにやらいかがわしい本まであり、どこで手に入るのか異国の文字で書かれた本まである。なぜ育児の本まであるのかよくわからない。
よくわからないのはそれだけではなかった。
家の主とこの家が何かぴたりとあてはまらないような、いうなれば違和感である。別の誰かと住んでいるのか、住んでいたのか。家主の趣味とは思えないような奇妙な絵画、少女が好みそうな人形などが視界に入るたび居心地のよさに忘れていた違和感が首をもたげる。
この家はシェイルの家ではないのではないか。
それにボードゲームもなかった。少なくともエリッツが居ついてから一度も目にしていない。ボードゲームを教えてもらえないなら自分はここにいる理由がない。勝負で負けたのだから留守番はせざるをえないが、せっかく弟子にしてもらったのにゲームの腕はあがらない。
家の前の泉に張り出している岩場の上でエリッツは大きく伸びをした。日が高くなり、気温も上がってきたが、街道に比べて森の中は春先らしい気温である。
そこへ一匹の猫が音もたてずに岩場にやってきた。ぴんと立てた尾の先が軽く折れ曲がっている。
「猫だ」
いつからこの辺りに居ついているのか知らないがよく見かける。体は黒と白のまだら模様が牛のようだが、顔は白く金色の瞳が印象的でかなりの美形だ。街からずいぶん離れているのにこんなところで暮らしていけるのだろうか。
「猫、猫」
エリッツはなでようとするが、今はそんな気分ではないらしく猫はするりと身をかわしてエリッツとは離れたところにくるりと寝転んだ。
「あ、猫だ、猫だ」
聞き慣れた声がして、生い茂る草を踏み分けてやってきたのはマリルだった。相変わらず年齢不詳の笑顔で猫を見ている。
「あ、マリルだ、マリルだ」
「元気そうだね、エリッツ・オルティス」
マリルは自分が放り出そうとした「子供」が居ついていることにさして疑問がないようだ。はじめこそ「うわ! いる!」と目を丸くしていたが、そのあとはもうそこにいるものとしてぞんざいに扱ってくれる。そのぞんざいさがエリッツにはかえって心地よかった。
さっそくマリルも猫をなでようと手を伸ばすが、やはり今は触られたくないようでスッと立ち上がっていなくなってしまう。
「猫が触れない」マリルは心底悔しそうに猫が去った方向を見つめている。
「あ、もうすぐに行かなくちゃならなくて、これをお師匠さんに渡しておいて。今、出かけてるでしょう」
マリルは「お師匠さん」のところに変にアクセントをつける。
相変わらずまったく似合っていない濃紺の制服の胸元、ポケット、帆布の肩掛け鞄の中からそれぞれ大小さまざまな封筒や書類をかき集めるように取り出すとどさりとエリッツに手渡す。
「お師匠さんに用事があるから、また後で来るね」
一方的にそういうと猫と同じように軽い身のこなしで立ち去って行った。
マリルは何をやっているのかよくわからない。今も街とは逆方向、森の奥地へむかったように見えた。それも役人の仕事なのだろうか。
ボードゲームの師匠であるシェイルも何をやっている人なのかよくわからない。残されたたくさんの封書に目をおとす。エリッツはそれを一度岩場におろした。上等な紙を使ったものから反故紙のようなものまでいろいろある。しかしきちんと宛名と差出人の名前が書かれているものはあまりない。サインや何かのマークが走り書きされているものがほとんどだ。
運びやすいように大きさごとに分けていく。その中に一通、かなり上等な紙を使っている封書があった。
宛名に「シェイラリオ・カウラニー」とある。シェイルの名前なのだろうか。耳慣れないし発音しにくい。異国風だ。やはりレジスの生まれではないのだろう。あそこまで純粋な漆黒の髪や目をした人はこの国では見かけない。とても魅力的だとは思うが。
裏返して差出人を見ようとしたところで突然その手をぐいっと押される。「しまった」と思ったときにはすでに遅かった。封書はエリッツの手をはなれ音もなく水面に舞い落ちる。
「猫!」
猫はぐいぐいと鼻先をエリッツの手に押し付けて「なでてくれ」と言わんばかりにのどを鳴らしている。
「猫!」
猫を叱責したところでどうしようもない。エリッツは急いで上衣だけ脱ぎ捨てると岩場から泉に飛び込んだ。
「冷たっ!」
そこまで深さはないが湧き水はとにかく冷たい。
飛び込んだ衝撃で封書は少し離れたところにあったが遠目にもあまりよくない状態なのがわかる。インクがにじみ、せっかくの上質な紙はしっかり水を吸ってしまっていた。
「どうしよう」
エリッツは空を仰ぐ。ざわと森の木々がそよいだ。体が冷えてエリッツはひとつくしゃみをする。視界の端に見えた猫は小馬鹿にした様な表情でエリッツを見下ろしていた。