夜鳴き箱(1)
見慣れないものがある。
ウイルドはあわてて走り寄った。寝不足の体には正直つらいが、店先が汚れていれば叱られるのはウイルドである。幸いこの時間に起きているのは店回りなどの掃除を担当するウイルドだけだ。
近づくとそれが人間であることに気づく。捨てられていったのかここで倒れたのかはわからない。
ここはかなり有名な薬屋であるため、ほどこしを期待して病人を置いていく、もしくは金があるだろうとここで物乞いをする者がいることはそうめずらしくない。しかし残念ながらこの店の店主はそこまで善人ではなかった。それどころか下働きのウイルドが見てもあまりきれいな商売をしている様子ではない。こういうのを「処理」するのもウイルドの仕事だった。
気の毒だが店主に気づかれる前にどこか別の場所に移動させなければならないだろう。ウイルドはその人物を観察した。細身だがわりと身長がありそうだ。やせっぽちでまだ十五ほどのウイルドに運べるかどうかはきわどい。
汚れているがかなり派手で裾の長い服を着ている。布地の多い服は高い。金銀の糸で縁取られており祭事の神官の長衣を思い起こすが、ウイルドの知っているどこの神官の衣装とも違っていた。もとはさぞ立派なものであっただろう。きれいに洗って売れば金になるかもしれない。
ウイルドは一瞬浮かんだ浅ましい考えにあわてて首をふる。どんな境遇に置かれても母に恥じることをしてはならない。
砂やほこりで汚れてもとは何色だったのかもわからない髪により目元が隠れているが、呼吸はしているようだ。しかし、もし神に仕える者であったら寝覚めが悪い。罰が当たったらどうしよう。
「あの……」
声をかけるが反応がない。
よく見るとかなりの大荷物である。その人物の隣にウイルドには見慣れている大きな背負い箱が置いてあった。これは行商用の薬箱である。薬箱があるということは病気で捨てられたわけではないのかもしれない。行商の行き倒れだろうか。さらにその横には細長い何かが布で包んで立てかけてある。ウイルドが何だろうかと手を伸ばしたところ、手首をぐいとつかまれた。
「あ、すみません。盗ろうとしたわけではなくて……」
ウイルドはしどろもどろになり手首をつかんだ人物の顔を見る。不思議なことにまだ眠っているように見えた。小さく寝息まで聞こえる。ウイルドは首をかしげて、もう一度その細長い何かに手を伸ばしてみる。
「触れない方がいいみたいですよ」
まるで他人事のような言いようである。見ると汚れた髪の間から赤みがかった琥珀色の目がのぞいている。朝日がさす角度が変わるとそれは金色に輝いた。
「これは……何ですか」
その人物はそれには答えず「また勝手なことを」とぶつぶつ言っている。しかしそれはウイルドに言っている様子ではない。変な人だなと少し身を引いて様子をうかがっていると、急に切実な顔をしてウイルドをじっと見つめる。前髪の間から白い額が見えた。赤い不思議な紋様が入っている。それは楕円の下が欠けているような形だ。
「申し訳ありません。食べ物を恵んでいただけませんか」
しかも物乞いだった。
ウイルドも常に空腹だ。住み込みの生活で一応食べ物は出してもらえるが、一日に二度、必要最低限である。とても人に分け与えられる境遇ではない。
「薬屋さんですよね。薬を売ればいいのではないですか」
ウイルドはかたわらの大きな薬箱を指さす。薬は貴重品だ。この店も困っている人の足元を見るような価格で売りさばき大儲けしている。ウイルドは薬の値段を聞き肩を落として帰ってゆく人々を苦い思いで何度も見送った。母は決してそんなことをするような人ではなかったから、迎えに来た時にこんな店でウイルドが長年働かされていたと知ったら心を痛めるかもしれない。
「これですか? 売れないと思いますけど」
その人物はウイルドに薬箱の中を見せようと錠を外して箱の扉を開ける。ぎいいと薬箱独特の蝶番の軋む音がした。
「や、やめてください!」
ウイルドは途端に恐怖にかられ耳をふさいだ。全身が震え冷たい脂汗が流れる。
「――すみません」
今度は扉を閉めたようであの音が再度響く。ウイルドはまた叫んだ。この忌まわしい音。
「薬箱が怖いんですか?」
「いえ、薬箱の扉の音が……」
「扉の音?」
琥珀色の目が陰り、人さし指と中指であの赤い紋様を押すようにして考え込んでいる。
「すみません、おかしいですよね。忘れてください」
しばらく黙って考え込んでいたが、おもむろにウイルドを見る。また琥珀の目が金色に輝く。
「御覧の通り、多少呪術を扱います。もしかしたらお役に立てるかもしれません」
ウイルドは一歩後ろに下がった。
とても胡散臭い。
「薬箱の音を怖がる人はいません。心の病ではないですか」
首をかしげるようにしてウイルドの顔をのぞきこむ。
「そうではないと思います。薬箱の音が怖いのにはきちんと理由がありますから」
「理由?」
胡散臭いのには違いないが、妙に子供のような表情をする。確実に年上のはずだが、不思議と警戒心が薄れてしまう。ウイルドは薬箱の音について話をしてもいいような気がしていた。
「僕はウイルドといいます。少し事情があってここの薬屋で下働きをしています」
「私はシハルといいます。特に何者でもありませんが、お腹がすいています」
ウイルドは一度黙り、間をあけた。やはり少しおかしな人だ。
「――それで、先ほどの話ですが、夜中にこういう行商用の大きな薬箱が開く音がするんですよ」
シハルはまた首をかしげる。
「それはここが薬屋だからではないですか」
「違いますよ。真夜中に庭から音がするんです。おかしいでしょう。庭に薬箱なんてありませんから」
今度は逆側に首をかしげる。本当に子供みたいな反応をする人だ。
「薬箱がなければ薬箱の音はしないはずでは」
「でもするんです。もう三年くらいになります。はじめは気のせいとか、別の部屋の扉の音かなと思っていたんですが、だんだん音がする頻度が増えて、近づいてきている気がするんです。最近は毎晩。あれは絶対に薬箱の扉の音で間違いありません。それに……」
ウイルドは恐ろしさに思わず口をつぐんだ。口に出してしまえば気のせいだったと思い込むことがいよいよ不可能になる気がした。
カタ、と、何かが音をたてる。
シハルは何気ない様子で薬箱の持ち手に結び付けてあった何かを握りこんだ。
「庭はあちらですか」
薬屋の古い建物の向こう側を透かし見るように遠くを見る目をする。それからまた何かを考え込むようにしてうつむいた。
「この薬屋はいつからあるんでしょうか」
「四年前、僕が来た頃にはありましたが、できたばかりというかボロ小屋という感じで売り上げなんて全然ありませんでしたよ。かろうじて街道沿いとはいえますが、ここに来ようとしなければ店があることすらわからないでしょうし、ガクシュの町からもずいぶん外れていますよね。もともとまともに商売をする気があったのかどうか」
それが今や客の途絶えぬ大店である。薬の質が認められたと店主はいうがどうも不思議な話ではある。
「むしろ街道から隠れるように建ってますね。この立地で大繁盛とは、ウイルドは幸福の精霊のようです」
屈託なくそんなことを言う。もしも幸福の精霊がいるとして、このような最低限の生活で雇い主に幸福をもたらすとはえらく安上がりだ。ウイルドは自虐的に笑うと、「それで――」と切り出した。
「シハルさんの呪術でなんとかなるんですか。薬箱の件は」
シハルはしばし黙り込む。ぐうと腹の鳴る音がした。
「薬箱が――庭にあるんじゃないですか」
ウイルドは大きくため息をつく。やはりただの胡散臭い物乞いだ。