この子と一緒に、淵に立つ
「ねえ、ほら、いくよ」
「いやだよ、やっぱり怖い」
「一緒にいてくれるって言ったでしょ。友達だよね?」
「うん、でも……」
熱い。暑くはないが、熱い。胸が熱い。テレビやなんかで耳にする『熱い胸騒ぎ』とかいうものとは全然違う。それが迫ると、人は胸が熱くなるのだろうか。少なくとも、わたしはそうらしい。
今日のわたしたちはブレザー姿だが、道ゆく人々にはコートをたなびかせる人たちが多かった。レザージャケットをかっこよく羽織る人も。わたしもこの子も冬はたいてい、ダボついたダッフルコートやマウンテンパーカ、もしくは学校指定のPコートだから、ロングのトレンチコートやレザーに袖を通したことなどなかった。この先もそんな経験はもう訪れないのだろうか。
「さっきより寒くない? ねえ、寒いよね?」
「え、ああ……うん。そうだね、屋内だけど周りはコンクリートだらけだから、外より冷えるんじゃないかな」
「なんか、特に胸が冷たい。もうすぐ屋上に着くからかなあ。死刑になる人の気持ちがわかったよ」
「……うん」
わたしとは真逆のことを言う、この子。動機が違うからだろうか。気持ちが違う、だとしたら、わたしはこの子を理解していない。それはそうだ、だって、わたしは死にたくないんだから。でも、友達とは一緒にいないと……。
「やっぱりさ、あたしが悪いんだよね。好きだからって勝手に突っ走っちゃって、迷惑かけて。嫌われるのも当然。マジでゴミだあ」
この子は両腕をぶんぶん振り回す。何度も何度も何度も、繰り返し目にした仕草。親に叱られたとき、スマホを落としたとき、彼氏に約束をすっぽかされたとき、推しのイベントが中止になったとき、描いた漫画を読んだわたしが微妙な顔をしたとき。そして、いま……。
「死ぬしかないのです、コンちゃんは」
この子はスマホに向かってしゃべる。配信のときのキャラクター〈コンちゃん〉として。
「でも、怖いから、できそうになくて。だから、フレンドーが一緒に死んでくれることになりました」
配信では、わたしは<フレンドー>と呼ばれている。あらためて、わたしも、死ぬんだな、と思った。不思議な気持ちだ。ああ、胸がさらに熱い。
「今日もフレンドーはかわいいな! みんなにあいさつして!」
スマホを向けられたわたしは、髪に手をやり、身だしなみを気にする。いまから死ぬというのに。
「えーっと、こんにちは、じゃなくて、こんばんは。コンちゃんのフレンドーです」
棒読みで無愛想に応える。
「今日も塩だね、お塩。そこがまたかわいい!」
目立つのは好きじゃないけれど、この子の配信にはもう何度も登場させられている。ほぼ仲間うちしか見ないし、配信頻度もたまにだから、まあいいかと思って出ている。だけど、見ようと思えば、全世界の人たちが覗けるわけで、ちょっと怖いなと感じることもある。
「スマホのバッテリーが少ないから、一旦配信止めますね。屋上に着いたら、また再開します。待っててね!」
配信が止まると、この子のつくり笑顔は消え失せ、素の状態に戻る。
「死ぬ瞬間が流れたら、すっごく話題になるのかな。そうしたら、きっと、あの人も見てくれるよね?」
「あの人のことはもういいんじゃない。あの、さ……ごめん、えっと。わたし、死にたくないよ」
その言葉がこの子の動きを止めた。階段の二段上にいるわたしは彼女を見下ろす。
「ううん、ううん、なんで? 死んでよ、死んでよ。一緒に飛び降りるから、来てくれたんでしょ。ねえ、一緒にやろうよ。いこうってば、いこうってばあ」
この子が目を細める。サインだ。薬をがぶ飲みしたとき、カッターで太ももをずたずたに切り裂いたとき、壁に頭を何度も打ちつけたとき、それらをする前の彼女はいつも目を細めていた。わたしはいつも止めなかった。一緒にはやらなかったけど、見届けた。そして、危なくなった彼女を助けた。今日もその延長の意識でここに来たのかもしれない。だが、今日は違う。このマンションの高さから飛び降りたら確実に死ぬ。それにわたしも一緒だ。
思えば、今までこの子がやっちまったとき(わたしは彼女のそういった行動を『やっちまった』と表現している。といっても、心の中だけで、口に出したことはない)、動揺することはあっても、胸が冷たくなったり熱くなったりすることはなかった。つまり、ひと事だったんだ。『死』を感じてはいなかったんだ。ようやく、自分がこれから死ぬという段になって、実感した。それでも、彼女の言う『冷たい』じゃない。死にたいという、その気持ちはいまもわからない。
「友達だけどさ、死にたいのはコンちゃんじゃん。わたしじゃないよ」
冷たく言い放った。言ってから、何かフォローできそうな言葉を探したけれど、見つからなかった。
「いまは配信止めてるから、<コンちゃん>じゃなくていいよ」
「ねえ、なんで、死にたいの? 今日は本当に死んじゃう……」
「わかってるよ。だから、死ぬしかないって言ってるじゃない」
「もう帰ろう……やだよ」
わたしは急に泣きたくなった。お腹がごろごろしだし、頭もくらくらしてきた。
「ダメだよ。わたし独りじゃ、死ねない。誰かと手をつないでないと。友達だよね?」
「……うん」
・・・
そのあとの記憶は曖昧だった。お腹がごろごろしたときは確かまだ、五階あたりだったと思ったのに、いまでは風の音が聞こえてくる。ここまでの数フロアを上がってくるまでのあいだ、何度か会話があったはずだけど、覚えていない。めまいはひどくなり、胸の熱さは全身に広がっている。こんな状態は初めてだ。もうおかしいのかもしれない。死にたくないのに、なんで、死のうとしてるんだろう。わたしは死にたくない、それをこの子にも伝えたのに、返ってきた言葉は『友達だよね?』。友達。この魔法の言葉はいつもわたしをおかしくさせる。今日はおかしくなっちゃいけないのに、魔法には逆らえないんだ。
「着いたね」
この子が手を差し出す。わたしはその蒼白い小さな手をそっと握る。そして、わたしたちは屋上への扉を開いた。
その風はまるで意志を持っているかのようだった。目には見えない小さな虫みたいな集まりが、わたしとこの子めがけて一直線に突っ込んでくる。透明の群れはわたしたちの顔にバチバチぶつかりながら左右に割れ、耳を体当たりの連弾で打ちつけ、わたしのダークグリーンのミディアムヘアと、この子の真っ黒なボブを一瞬ふわりと浮き上がらせ、そして夜空へ消えていった。わたしが振り返った際、夜空のある一点がぐにゃりとひしゃげたように見えた。
「やばっ。コートも着てくればよかった。屋上は寒いね」
「うん」
突風が吹き抜けたあとは風もやんで穏やかだったが、零時近くのこの時間、屋上は当然ながら寒くてしかたがない。全身の表面はガチガチに冷えているが、胸の熱さは相変わらずだ。
「ちょっと、ぎゅっとしよ」
この子が優しく抱きついてくる。わたしたちのブレザーの金属のボタン同士がかちゃりと触れ合う。わたしもこの子の背中に手を回し、しばらくのあいだ、抱きあっていた。彼女の体が冷えているせいか、ぬくもりは感じない。
この子が「暖かいね。少しだけ、胸が暖まる」とかすれるような声で言う。わたしの胸の熱さが伝わっているのだろうか。
わたしは口を開こうとしたが、唇が接着剤でくっつけられたように動かない。抵抗する唇に脳からの指令を必死になって届かせる。そして、やっとのことで、上の唇と下の唇は離れた。
「あの……さ、話が――」
機械の震えがわたしの話をさえぎる。彼女はバッとうしろに飛びのいた。そして、ブレザーの袖ポケットからスマホを取り出す。誰かからメッセージが届いたようだ。この子は食い入るように画面を見つめる。
「やっぱり、ゴミゴミ! さあ、もういこう!」
「え、どうしたの? あの人から連絡が来たの? なんて言ってるの?」
「もういいから、寒いし、やろう!」
「ちょっと……」
この子はわたしに顔を向けることなく、スマホをいじり続けた。
「はい、お待たせしました! コンちゃんの『実況!飛び降り大作戦』のはじまりです!」
この子は完全にひきつったつくり笑顔をスマホに向けてしゃべりだす。どうしよう、もうすぐ死んじゃう。わたしも。死にたくないし、死なせたくない。でも、なんでだろう、気持ちがふわふわして、言わないといけない言葉が出てこない。帰りたいのに、ここに居たくないのに。動けないんだ。お腹が痛いよ、頭がくらくらするよ、胸が熱いよ……。
「ねえ、そろそろだよ」
「よくないよ、やっぱり……」
わたしたちは淵に立っている。手すりがなく、簡単に飛び降りられる廃マンション。見つけたのはわたしだ。この子に頼まれて。
足を震わせながら、淵から地上を見下ろす。暗くてよく見えないけれども、この下はかつて駐輪場だった場所のはず。固いコンクリートの地面。
「……いや、いや。やっぱり、いやだよ。怖いよ、やめようよ」
「いこうよ、大丈夫だよ。みんなも見てくれてるよ」
目の前にスマホが出現する。記念写真を撮るような格好で、この子がスマホをわたしたちの顔の前に掲げる。
「ねえ、ほら、さあ、いこうよ、茜」
配信では絶対にわたしの名前を出さなかったこの子がわたしの名を呼ぶ。いまの彼女の顔は<コンちゃん>ではない。恵里だった。
「いやだよ、いやいや」
寒い、ああ、寒い。胸の熱さはいつの間にか冷えきっており、体の芯から凍えている。怖い。死にたくない、けど、この子を止められない。友達。死んでほしくない。死にたくない。助けて、逃げだしたい。どうすればいいの? 本当に死んじゃうのわたしたち? おかしいよ。なんだよ、もう、わかんないよ!
「じゃあ、いくよ……」
「ああ!」
・・・
目の前には夜空が広がっている。黒いスクリーンと光の点しか見えない。後頭部には冷たいコンクリートの感触。頭が痛い。じんじんする。隣を見やる。動かない恵里がいる。頬からしずくが垂れている。だけど、瞳は乾いている。またもしずくが増えた。今度はわたしの頬にもしずくを感じた。
「雨かあ」
恵里がかぼそくつぶやいた。ぽつぽつぽつぽつ雨が降ってくる。数分前、淵に立っていたわたしたちに向かって、またも風が襲いかかってきた。彼方からではなく、夜の闇の中から突如、出現した突風はわたしたちを淵から屋上の路面に吹き飛ばした。頭をごちんとぶつけたわたしたちは、しばらくそのままの姿勢でじっと夜空を見上げていた。
ぽつぽつぽつぽつ、さあああ、ざあざあざあざあ。瞬く間にどしゃ振りとなった雨粒の五月雨撃ちはわたしたちを屋上から追いやり、屋内に戻した。
「あれ、スマホ」
「どうしたの?」
「壊れちゃった」
「そう……配信できないね」
「茜のは?」
わたしは防水仕様のスマホを取り出す。このマンションに入る前から電源を切っていたそれの電源ボタンに軽く触れ、電源を入れるフリをする。
「わたしのもダメだね」
「天にも見放されるあたしは本当にゴミゴミだあ」
「とりあえず、今日は中止だよ。帰ろう」
「うん、でも、明日また」
「まずはスマホを修理しなきゃ」
「修理できたら――」
「修理が終わるまで遊ぼう!」
「茜……」
「遊ぼう!」
「うん……」
びしょ濡れのわたしたちはマンションを出て、滝のような雨に打たれながら、夜道を歩く。寒くて、寒くて、しかたがない。けれども、胸の奥は熱くも冷たくもない。暖かくて、温かいのだ。
雨が上がり、スマホが治り、そうしたら、またわたしたちの胸は冷たく、熱くなるのかもしれない。いや、なりそうだ。そのとき、わたしはどうするのだろう。何を言えるのだろう。わからない。だけど、とにかく、これだけは言える。いまからわたしはこの子を抱きしめることができるんだ。
「ねえ、ぎゅっとしよ」
あなたへ。生きてほしいです。