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(四)機国マヌーゲルにて

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 この旅がはじまって半月がすぎるころには、森のようすがずいぶんと変わった。歩いている地面には下草がはえはじめ、あれだけ毎日見ていた夕方の驟雨も見られなくなった。

 初めての旅は、慣れないことだらけ。おどろくことも、知らないこともたくさんある。わからないことはひとつひとつナギさんに教えてもらう毎日で、退屈はしないけど、毎日くたくた。

 ナギさんはものしりだ。けれど、ちょっと忘れっぽいみたいで、訊きかえすとその前の話も、ナギさんが話したことも思い出せないことがあるみたい。
 いつも朗らかに笑っていて、愛嬌のある人だな、と思う。ナギさんがいなかったら、俺たちがこうして旅をするのに、ずっと手間取っていたと思う。
不思議な人だけど、たぶん、悪い人じゃない、と思うんだ。

 黒影は、あいかわらずつっけんどんで、あんまり話してはくれない。強いんだけど、まわりを見ようとしていないというか……。
 けれど、ときどき気が向いたら話しかけてくれることがある。だいたいは文句のような言いまわしだけど、黒影なりの人づきあいなのかな、なんて前向きに思っておくことにした。

 魔幽大陸を抜けて水瑠地方に着いたら、最初に流国にたちよる予定。そこに魔狩協会の支部があるから、そこで一連の報告をして、上の判断を仰ぐつもり。
だから、この記録とは別に、地道に報告書はまとめているんだ。
 それから、ライへ手紙を書こうと思ってる。本当はライのことが気がかりでしょうがないんだけど、ライが協会と連絡をとったり、言伝を頼んだりするようには思えないし。
せめて、俺が帰るまで、元気でいてくれたらいいな、と思う。

――――


「起きろ」
 うっすらと目をあけると、朝のまばゆい室内にそぐわない不健康な顔面が、ソウを覗きこんでいた。
「寝起きに君の顔を見るのも、なんだか慣れてきたなぁ」
 こちらを不機嫌そうにのぞきこむ黒影を、ぼんやりと眺めたままぼやくと、一瞬のうちに室内へ殺意がはりつめる。
「二度寝してもかまわんぞ。次は目覚めないようにしてやろう」
 鯉口をならす音が響いて、ソウは慌ててとび起きた。そのときに、指先に紙のはしが触れる。昨晩まとめた報告書が、寝台に散らばっていた。どうやら、報告書に不備がないかを確認している途中で寝落ちてしまったらしい。
「ごめんごめん、殺気立たないで。寝ぼけてたんだ」
 ソウはころっと笑いながら、寝台から降りた。両手を合わせてかるく首をかしげてみせる。

 最初の街を出立してから、約一ヶ月。
 機国に到着したのは、昨日の昼前のことだ。検問所で記入する書類の文面は、言語がちがうからまるでわからず苦労した。人の出入りは多いらしく、検問をすませて宿につくころにはもうとっぷり日が暮れ、疲労もピークに。
 初めての長旅での移動生活に、続いた野宿。知らない土地に来た緊張感、道中ではやたらと魔種に出会い、黒影は特攻し、ナギは狙われ、ソウはどうにか攻撃をしのぎ……久々のちゃんとした寝床と、見張りをする必要のない夜は、とても快適な睡眠をもたらしてくれた。爆睡してしまった、といったほうが正しくはあるが。
 おかげで、多少疲れは残っているものの、ずいぶんと身体が楽になった。
「寝過ごしちゃったかな? 久々のベッドでつい。ごめんね」
「やかましい」
 黒影の声を右から左に流して、散らばった報告書をまとめて綴じる。
 一度身体を伸ばして、それから窓ぎわへ向かった。たてつけの悪い窓を開く。すると、今まで足元でわずかにふるえていただけの駆動音が、大きな圧迫感とともに室内をふるわせた。煙と油のにおいが充満する。黒影が眉間のシワをますます深くした。
 窓外に広がっているのは、この〈鉱山の街〉マヌーゲルだ。機国の主要都市であり、とりわけ魔鉱石の採掘地として有名だ、というのは、昨日、検問までの待ち時間にナギが解説してくれた。
 鉱山の街といっても、鉱山区域自体はもう少し奥まったところにあるらしい。ここから見えるのは、固い地盤の壁へはりつくように形成された鉄骨の宿場町で、人が歩くたびにカンカンと音が響く縞鋼板の狭い道と、それらを縦につなぐ魔鉱式の古い昇降機が特徴的だ。
 密林と比べればずいぶんと文明の気配が感じられるが、空気は油と煙のにおいでじっとりと重く、肌にまとわりつくようだった。
「窓をあけても、あんまり爽やかな感じはしないね」
「今日は街を歩くのだろう」
 眼下を睨むように、黒影が低く言った。
「うん。ここは魔鉱石の加工を担っている店もあるらしいから、魔導武具の調整ができたらいいかなって。すぐ支度するよ」
 すっかり乾いた洗濯物をとりこみながら、ソウは答えた。端と端を綺麗に合わせ、同じ形に手早く整える。こうして畳むのは、収納するのも、あとで使うときにも面倒がないからだ。ものはついでとナギの着替えも一緒に畳んで、それは寝台に置いた。姿が見えないのは、おそらく宿の一階に降りているからだろう。ナギはよく、朝方と夜に依頼掲示板を見に行っては、冒険者たちと話をしている。ソウも手が空いているときは同行したが、やはり何を話しているのかさっぱりで、ただひたすらナギが楽しそうにしていた、という印象だった。
 ソウは、部屋のすみにかかっていたハンガーを手にとってまとめると、クローゼットの中へ戻した。ソウの記憶になく動いているのは、きっと黒影が使ったからだ。意外にも黒影は、自分のことは自分でしたいらしく、昨晩も「ついでだから一緒に洗濯するよ」と声をかけたところ、とても嫌そうな顔をされた。ソウが寝落ちたあとにでも、洗って干し、片付けたのだろう。
「黒影はゆっくり休めた?」
 椅子に腰かけた黒影は、嫌厭としたようすで一度だけ視線をよこした。「問題ない」と一言。まぶたを閉じて、それから口をひらくことはなかった。

 黒影があまり眠らないことは、機国に到着するまでの一ヶ月を通してわかっていた。いつも大太刀を抱えこむようにして座り、壁に背をあずけてまぶたを閉じるだけで、横になって熟睡する姿は、今までに一度も見たことがない。
 昨晩、宿に到着してからも同じで、寝台の上に腰かけているだけだった。横にならないのかと訊ねると、眉間のシワがいっそう深くなり、返事はおろか舌打ちさえなく。案外まつげが長いな、と不躾にそのさまを見めていたら、今度は視線がうるさいと一蹴された。
 黒影から罵倒が返ってくると安心するていどには、その剣幕にもすっかり慣れてしまったものの、このことに対して、ソウは内心、釈然としないものを感じていた。
(罵倒されて安心するって、ちょっとなぁ……)
 ソウは洗面所に向かいながら、小さく息をついた。

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