第一話 魔王、お嬢様と呼ばれる
――ああまったく、理解し難い、度し難い。
魔王エリスはたった今、胸を刺し貫いてやった男の様子を眺めていた。
黒爪を伝う鮮血の勢いと量は、これが致命の一撃であったことを克明に示している。
かすかに届く振動から、まだこの男の心臓が役目を全うせんと奮闘していることが分かる。だが、それが最初で最後の眠りにつくのも時間の問題だろう。
男の肩越しに見えるのは、息も絶え絶えの、男の仲間たち。
極大魔法を幾度も浴び、もはや立つことすらままならない様子だ。
だが彼らの眼の輝きは、この魔王城に乗り込んできた時からまるで衰えることがない。
その姿が、エリスには不思議で仕方がなかった。
――人間とは、傲慢で、自分勝手で、怠惰で……他人を裏切り傷つける。実に愚かな生き物。……そうだったはずじゃ。
だから、魔王である自分が生まれた。人間を滅ぼし、この大地を浄化するために。
いや、生み出された、が正しいだろう。
人間に絶望する人間たちの慟哭。それがエリスの胎教であり、子守唄だったのだから。
――だが……こやつらはなんじゃ?
目の前で血を吐きながら力無く俯く男……『勇者』と呼ばれる人間最強の戦士、アデル・クライフォード。そして彼の、仲間たち。
彼らにはどうにも、エリスの思い描く人間像がぴたりと当てはまらない。
エリスは眉を顰めながら、少し過去のことを思い出していた。
一年ほど前、勇者が魔王討伐の準備を始めたことは、すぐにエリスの元へと伝わった。
愚かな人間たちへの分かりやすい見せしめとして、エリスは勇者たちを徹底的になぶり倒すことを計画する。
最初の町の周辺にS級モンスターをズラリと並べる鬼畜采配を手始めとして、
腹心である四天王を「くくく、奴は四天王の中で……なんと最強!!」となる順番で配置してみたり、
闇竜を倒せる唯一の剣を、闇竜を倒すと手に入る宝箱に入れてしまう、という悪魔の所業も、なんらためらうことなく実行した。
まったくもって極悪非道、絵に描いたような真の魔王である。
しかし……勇者一行は、どんなに極悪で絶望的な試練にも耐え、乗り越えてきた。
そして一歩一歩確実に、エリスへの距離を縮めてきた。
――なんのために?
人間に、救う価値があるのか。
あれほど凄惨な戦争を引き起こし、大陸全土を焦土に変えてもなお、争い続けていた人間に。
何故命を賭けてまで、そんな者たちを守ろうとするのか。エリスにはどうしても分からなかった。
――同じ人間だから?だが人間は、他者のことなど顧みないはずで。……矛盾ではないか。
だが確実なことは一つ。
勇者一行は、どんな苦痛も絶望も踏み越えて、ここ魔王城に到達し……
――その剣は、最後にわらわに届いた……。
エリスは、自分の胸を深々と貫いている聖剣に目を落とした。
「へ……へへ、相討ちか……まぁ、上出来だな」
勇者アデルが、血を吐きながら呟いた。
俯くその表情はエリスからは見えないが、笑っているようだった。
エリスは、勇者に突き立てている方とは反対の手を見つめた。
魔力が停滞し、身体の崩壊が始まっていた。指先から、溶けるように。
――わらわは、死ぬのか。
だが、自らに迫る消滅には、それほど感慨が湧かなかった。
目の前の者たちへの興味が、遥かに勝っていたからだ。
「勇者よ……一つ尋ねる」
「……なんだい?」
アデルは顔を上げることなく、囁くような声で返す。その声音からは、魔王への憎悪も、死への恐怖も、感じられなかった。
「貴様、最初から命を捨てるつもりじゃったな。……何故、そこまでして人間を救おうとする?」
「……はは。ううん、そうだね」
僅かに間を置いて、アデルは返答する。
「俺、人が笑うのが大好きなんだ。女の子の笑顔なんか特にね。……今は、ちょっと笑ってる人たちが少ないな、と思ってさ」
「阿呆。それで人間の笑顔とやらが増えたとて、自分が死んだ後のことなどなんの価値も無かろう。死んだら全てが終わりではないか」
「うん、それならほら、生まれ変わりってあるだろう?どうせなら、皆が笑顔の未来に生まれ変わりたいから」
なんじゃ此奴、とエリスは拍子抜けした顔をする。
「生まれ変わる、など。人間のくだらぬ妄想じゃ。死ねば万物の行き着く先は一つ。ただの無じゃ。貴様も……わらわもな」
エリスの腕はすでに肘のあたりまで崩壊が始まっている。もう間も無く、全身が煙のように消え失せるだろう。
……まるで、最初から何も居なかったかのように。
「そう?そうかなぁ。……じゃあ、俺からも一つ聞いていい?」
「なんじゃ」
「キミの望みは、何?」
「望み、じゃと?知れたこと。今目の前でタワゴトをほざいている愚か者を捻り潰し、そしてこの世界から人間どもを駆逐することじゃ」
――まぁ、残念ながら後半は難しそうじゃがな。
崩れゆく自分の身体をチラリと見遣ってから、エリスはそう心の中で独りごちた。
死を目の前にして、少し達観した心持ちになっていたのかもしれない。
だが、勇者の次の言葉に、エリスはピクリと眉を歪めた。
「それ、本当にキミの望みなのかな?」
「……何が言いたい?」
「望んだことをやってる時って、もっとキラキラしてて、笑顔だと思うんだ。……キミはあの時からあんまり、笑ってないみたいだったから」
あの時、とはいつのことだろうか。
エリスには分からなかったし、どうでもよかった。
「抜かせ。誰もが貴様のようにヘラヘラしていると思うな」
エリスの辛辣な返しに、アデルがゆっくりと目線を上げ、そして端正なその顔に微かな笑みを浮かべる。
「残念だね。キミはとても美人だから、笑ったらもっと素敵だと思うんだけど」
「美っ……!阿呆かっ!そもそも宿敵たる貴様に笑いかけてやる道理などなかろうが!!」
――なんだ此奴は。ああ、イライラする。
心臓を引き抜いて、とっとと終わらせてしまおうか、と逡巡を始めたエリスに、アデルはなおも語りかける。
「じゃあもし、お互い立場が違ったら……もしキミが、世界の浄化なんて望まなくてもよかったら……俺に笑顔を見せてくれるかな?」
「有り得ぬ。我らは立場の違いで争ったのではない。根源的に相容れぬ存在だからこそ争ったのじゃ。闇と光は未来永劫、闇と光じゃ」
「よし、じゃあ賭けようよ」
「賭ける……じゃと?」
困惑半分、呆れ半分といった表情のエリスを見て、さも愉快そうに、アデルは目を細めた。
「さっきキミは生まれ変わりなんて無いと言ったけど、その通りに来世が無かったらキミの勝ち。もし俺たち二人、来世で会えたら……俺の勝ち」
「……阿呆か?それではわらわの勝ちを貴様は認識できぬではないか」
「じゃあ、俺が勝ったら……」
話を聞け、とエリスが言いかけた時。
「その時、俺たちが、勇者でも、魔王でもなかったら」
アデルは満面の笑みを浮かべ――
「俺と――」
言葉の最後は、魔王城が崩落を始めた音と重なって……
――なっ……!?
だが、エリスの耳にははっきりと届いていた。
その言葉に、エリスは未だかつてないほど驚愕し……そして、なんだか無性にイラッとして……
「ふざけるなド阿呆ーーーーー!!」
エリスは大声でそう叫び、跳ね起きた。
その声に驚いたのか、複数の鳥たちが一斉に空へと飛び立つのが視界に入る。
「ぬ……?ここは……?」
呼吸を整えながら、エリスは辺りを見渡した。
そこは自らの居城とは似ても似つかぬ、鬱蒼とした暗い森の中だった。
背後にある切り立った高い崖から、からからと小石が転がり落ちてくる。
少し離れたところには、人間の使う馬車と思しき人工物が、見るも無惨な姿でひっくり返っていた。
「なんじゃ?先ほどまでわらわは城で……そうじゃ、あのクソ勇者と相討ちになって、それで……」
記憶を辿るが、勇者との会話の後のことが思い出せない。
身体が崩壊する直前に、咄嗟に転移魔法でも使ったのだろうか。
「ふむ……何故か分からぬがわらわは無事のようじゃな。ふん、勇者め、ざまぁないわ。くだらぬ賭けは一人でやっておれ、ド阿呆が」
一通り悪態をついた後、エリスは立ち上がって再度周囲を見渡した。
そこは、まったく見覚えのない場所だった。
――おかしいのぅ。転移魔法なら行ったことのある場所にしか行けないはずじゃが。
まぁよいわ、と歩き出そうとするエリス。
途端、その耳が、自分に近づいてくる何者かの足音を聞き取った。
音のした方を見遣るとすぐに、その足音の主が木々の間から姿を現した。
「……マンティコアか?」
そこに居たのは、獅子の顔と胴体に、コウモリ様の巨大な翼を有し、サソリの尾を持つ魔法生物。
B級モンスターに分類される魔獣、マンティコアだった。
あくまで人間側の尺度であるが、モンスターはD級からS級まで、危険度によって分類されている。
B級は、一般の騎士が十人がかりでようやく勝てるかどうか、であり、人間にとっては相当の脅威と言えた。
目の前のマンティコアはこの森の主といったところだろう、とエリスは推測した。
魔獣は、エリスを見つめながらグルルと喉を鳴らしている。
「ふむ、道中の足には丁度いい。ほれ、そこのお主。近うよれ」
エリスが野良猫にでも話しかけるように声をかける。
モンスターは全て魔王たる自分のしもべ。そう考えて疑わないエリスがマンティコアへと歩を進めると……
突如マンティコアはその巨大な牙を剥き出しにし、威嚇するように低い吠え声を上げた。
そして、エリスを睨みつけながらゆっくりと、円を描くように横歩きを始めた。
それは明らかに、獲物を見定める獣の動きだった。
「なんじゃ?貴様、どういうつもりじゃ。わらわが誰か分からぬのか?魔王じゃぞ?魔王様じゃぞ?」
エリスの表情が険しくなる。
しもべは使い捨てるがしもべの反乱は許さない、まさに魔王の鑑と言っていいエリスである。
「消し炭にされたいか……?」
眉間にビキビキに皺を寄せ、凄むエリス。
だが、目の前の魔獣はまるで態度を変えず、エリスの様子を伺っている。
「面白い。ならば望み通り黒焦げにして……」
エリスがそこまで言いかけたところで、少し離れたところからなにやら叫び声が聞こえた。
声の方へと顔を向けると、鎧に身を包んだ三人の人間が、こちらへ駆けてくるのが見えた。
「人間の追っ手か?ふん、たかが騎士三人でわらわをどうこうしようなど、舐められたものじゃな」
それからエリスは臨戦態勢を崩さないマンティコアを一瞥する。
「よかろう。この愚か者もろとも、地獄の業火で焼き尽くしてくれよう」
エリスは大きく息を吸い込むと、ぶつぶつと詠唱を始めた。
周囲を、ドス黒い瘴気が覆う。
人間の魔導士なら詠唱することすらままならない、闇の極大魔法である。
発動したが最後、マンティコアも騎士も、それどころかこの周囲一帯から、全ての命が消えるだろう。
だが。
詠唱がサビを迎えたところで、ふとエリスの唇が止まる。
――はて?
エリスが見つめるのは、騎士の先頭を駆ける、一人の青年。
――あやつ、どこぞで会ったか?
整った顔立ち、それなりにしっかりした体つきだが、騎士にしてはやや頼りなさそうに見える黒髪の青年に、エリスはどこか見覚えがあった。
――思い出せぬ。人間に顔見知りなど、クソ勇者一行以外にはそれほどおらぬはずじゃったが……。
青年は、息を切らしながら走ってくる。
その表情は、魔王を追う正義感に燃えた騎士のそれではなく、なにか、とてつもない焦燥に駆られているように見えた。
青年がエリスを視認する。
そして。
「お嬢様!!お怪我はございませんか!!」
……その声は、間違いなくエリスに向かって投げかけられていた。
エリスの片眉が、ひゅっと上がる。
「お嬢様……じゃと?」