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フーリの色

『ソウはさ、何色が好き?』

 たずねられ、俺は答えを探して空を見た。
 窓の外には灰色の夕焼け空が広がっていた。ゆっくりと沈んでいく白に近い太陽。空は薄墨色(はくぼくしょく)から黒へ移ろい、くすんだ灰色の校舎をじわりじわりと飲み込んでいく。
 俺は濃いグレーの(ほうき)鈍色(にびいろ)の机に立てかけた。
 視界の端で、さらりと黄金色の髪が揺れる。
 小さく息を呑み、俺は導かれるようにゆっくりと顔を向ける。

 そこには、机に腰かけた少女がいた。

 鮮やかな金色の狐耳をピンと立て、彼女は大きな狐の尾をのんびりと揺らして、再び問いかけてくる。

『ね、何色が好き?』

 いつもの何を考えているか分かりづらい顔で、いつものように何の脈絡もなく問いかけてくる。

『俺は──』

 モノクロの世界の中で、灰色の俺はそのときいったい、なんと答えたのだろう?

 ………
 ……
 …

「──(そう)。おい、湊! ちゃんと聞いてるのか?」
「うるさいな、聞いてるよ。で、なに?」

 少し怒った声の父さんに呼びかけられ、俺はスマホの画面から渋々目を離す。すると、呆れたように父さんはため息をついた。

「やっぱり聞いてないじゃないか。……スマホの機種変するけど、湊は何色にする?」

 問われ、俺は特に考えることもなく「なんでもいい」と答えて、解凍されたばかりのハンバーグを机に並べる。

「じゃあ、白な」
「わかった」

 サラダとご飯、味噌汁をそれぞれ食卓に並べ、どちらからともなく食べ始める。
 リビングにはカチャカチャと食器がこすれる音と誰に見られることもなく騒ぎ続けるテレビの音だけが響く。他に音といえば、ときおり「そういえば」と話しかけてくる父親に俺が短く返事を返すくらいだ。

「最近はここらへんも寂しくなったよな」
「うん」

「そういえば今年も、慰霊祭に行かなくてよかったのか? おきつねさまを拝めるチャンスなんだぞ。それに──」
「いいよ、行かなくて」

 そっけなく返した俺は味噌汁を飲み干し、箸を置いて、食器を重ねた。そのまま席を立とうと椅子を引いて。

「そうか。ああ、そうだ。そういえば中学校が取り壊されるらしいって聞いたか?」
「……え?」

 静かに、目を見開いた。



 俺の住む町は狐信仰が根強く残っているところだ。緑豊かな山々に囲まれ、自然と現代文化が絶妙なバランスで共存している、神秘と現実が奇妙に調和した土地だった。
 しかし、そのぶん外からの変化を受け入れられなくなった住民たちは「入るものを拒み、出るもの追わず」を続けた。その結果が今だ。

「久しぶりに来たな、ここ」

 俺はすっかり無人となった廃校舎を見上げ、ポツリとつぶやく。
 都市部の高校に通うようになってもう三年がたつ。人によっては「たった」かもしれないが、俺にとっては「もう」だ。特に何をするでもなくただただ無為に三年が過ぎた。
 小中と九年過ごした級友たちとはもうほとんど連絡をとっていない。あれだけ長く共に過ごした日々ももはや過去だ。
 でも、そんなものだろう。たとえ幼馴染で小さい頃は仲が良くても、成長するにつれて次第に距離が離れ、別々の道を歩めば疎遠になる。だからきっとそんなものなんだ。
 少しの間、そうしてじっとフェンスの外から灰色の校舎を眺めていた俺はふと、中で動く影に気づいた。

「あれって」

 本当は最後に一目見るだけだった。ちょっと見て、満足して帰る。そのはずだったのに、一瞬チラリと見えたその影がどうしても気になって俺は敷地に足を踏み入れた。
 雑草が目立つ校庭を歩き、靴のまま薄暗い校内を歩く。くすんだ灰色の壁を手のひらでなぞり、教室の扉の前に立った。
 ガラリと開けた先は、めまいがするほどに異世界だった。

「うっ……」

 思わず鼻を抑えるほどの強烈なペンキの匂いで満ち、アトリエ、あるいはキャンバスと化した教室は原型を思い出せないほど極彩色で塗りたくられている。

「誰がこ、んな……」

 こんなことを、と続く言葉は出なかった。だって俺は目の前にいる人物を見て、ただぽかんと口を開けて立ち尽くしてしまったのだから。

 目を奪われるような黄金色の髪の人物だった。
 その人物は体中あちこちペンキまみれで、バケツをわきに置き、筆を持って立っていた。満足げに揺れる尻尾にあおられ、鮮やかな髪がふわりとなびく。
 その頭に生えた狐の耳がピクッと震え、そして振り返った彼女と目が合った。

「やほ。見つかっちゃった」

 あの頃のまま何を考えているか分かりづらい顔で、あの頃と何一つ変わらない口調で、四年ぶりに再会した幼馴染──フーリはそう言った。




「なっ、え? おま……」

 パクパクと開閉する俺の口から言葉未満の音が漏れる。思考が止まった脳をたたき起こそうと、心臓がせわしなく早鐘を打った。
 そんな俺のことなどお構いなしにフーリはぐっと背伸びをして、筆を突っ込んだバケツを掲げた。

「ソウ、行くよ」
「は?」

 ずいっとバケツを押し付けられ思わず受け取る。ねとっとしたペンキの感触を存分に味わい頬がひきつるが、フーリはもう教室の外だ。あいかわらず、ほんとになんというか……。

「はぁ、とりあえず付き合うしかないか」

 俺は肩を落として廊下で待っている少女の後を追った。
 並んで歩きながら、俺はぼんやりと当時を想う。
 フーリとは物心ついた時から一緒にいる仲だった。山が近いことや親の事情なんかが重なって俺の家族が「亜人」である彼女を支える役目を任されたのが理由だが、誰もそんなこと気にせず普通に暮らしていた気がする。
 実際、フーリも俺たち家族も特別扱いを望まず、彼女が「神秘」を扱えることも容姿が周りと違うこともただの個性としてしか見ていなかった。

「ソウ、バケツ」
「ん」

 美術室の前で立ち止まったフーリに言われ、俺は呆れ気味にバケツを差し出す。この感じもずいぶん懐かしい。
 フーリは昔からマイペースで我が道を行くやつだった。
 「おきつねさま」が必ずしなくてはならない修行をすっぽかして町探検に行ったり、お小遣いをちょろまかして当てのないバスの旅に出かけたり、急にどっかの商店街のマスコットキャラクターを描いて直接渡しに行ったり……。
 俺はフーリのそんな突拍子もない行動に散々振り回され、巻き込まれて、ついでとばかりに彼女とセットでめちゃくちゃ説教されてきた。完全にとばっちりである。

「今度は何描くんだ?」

 壁に大きく筆を走らせる後ろ姿に俺は問いかけた。本当はいろいろ聞きたいことがあった。
 なんでこんなことを、とか。今までなにをしてたんだ、とか。……身体は辛くないか、とか。まぁ、聞いたところで答えないから言わないが。
 俺の質問に、彼女は少しばかりうなってから答えた。

「んー、ソウも知ってる何か。ん、やっぱり知らない何かかも?」
「なんで自信なさげなんだよ」
「へへ……でも、アタシ以外にも知ってほしい。そんな何か」

 変わらない調子で、何気なくつぶやいた(それ)は、ひときわ重たいペンキのにおいがした。俺は思わず息を詰め、そっと目をそらす。なんとなく、言いたいことがわかってしまったから。

「あの、さ。やっぱり俺の」
「できた。次行くよ」

 俺の言葉を遮り、フーリはまた筆をバケツに戻して学校の奥へゆっくり歩いていく。美術室の壁は弾けるような(だいだい)色で塗られ、元気に跳ねる狐のマスコットが描かれていた。



 ゆっくりと歩調を合わせて進んだ先は、当時何度も訪れた視聴覚室だった。
 昔からフーリは「おきつねさま」の修行をサボりがちだったが、中学に入ってからは輪をかけて嫌がり、逃げるようになった。
 そのたびに俺が探す羽目になり、そして最後は決まってここに来た。
 確か、フーリが毎回不貞腐れて真っ黒な遮光カーテンにくるまって出てこないから、機嫌が直るまでこっそり持ってきたビデオを一緒に見たっけ。
 ペシペシと腕を叩かれ、彼女を見る。フーリはガタガタと何度か試し、諦めて「開けて」と扉を指差した。

「はいはい」
「『はい』は一回」
「うい」

 こちらをじとっと見つめる誰かさんを意識から追い出し、なかなか開かない扉をなんとかこじ開ける。すると、粉っぽい風が口に入ってきた。

「げほっ、ぺっぺっ! ホコリやば」

 手で顔の前を払う俺とは対照的に、フーリは何食わぬ顔で中に入り、黒い遮光カーテンにペタリと筆を乗せた。俺もハンカチを口に当て邪魔にならないように少し離れて立つ。「ハンカチ、まだあるぞ」と声をかけてみたが、聞こえていないのか彼女は何も言ってこなかった。しばらくそうして筆を走らせて、それから何の前触れもなくフーリは言った。

「……ソウはさ。『最高の一瞬』と『退屈な永遠』どっちが良かった?」

そう問いかける少女の声は微かに震えていて。俺は一度口を開け、言葉を探して、できるだけ明るく答えた。

「片方だけしか選べないなら『退屈な永遠』かな! そんなもんないだろうけどな」
「…………うん。じゃあ、できたから、次」

いつもの調子でそう言って、フーリは壁に手を当ててゆっくりとまた歩き出す。俺も後に続いて視聴覚室を出た。
──真っ暗だったカーテンには淡い色づかいで、鮮やかなツタとピンクのチューリップが描かれていた。



 訪れた体育館は湿気ったにおいがした。いつまでもいつまでも「あの日」がここには染みついていた。

「……できた」
「おつかれ。だいじょうぶか?」

 荒く肩で息をするフーリを支えて、ゆっくりとその場に座らせる。
 深い青で塗られた壁には、いくつものメチャクチャに流されるクラゲたちが描かれていた。
 ──彼女にはあの日がこんなふうに見えていたのだろうか。
 あれはひどい豪雨だった。激しい雨に打たれた屋根がガタンガタンと鳴って、吹き荒ぶ風が扉を強く叩いていた。テレビもラジオも雨のことばかりで、警報がやけに耳に響いてじんじん痛かった。
 あまりにもひどいから、と俺と母さんは珍しく落ち着かない様子のフーリを連れて体育館に避難することにした。
 レインコートをしっかり着た俺たちは気を抜けば飛ばされそうな風の中を前のめりになって歩いた。
 レインコートの裾がバタバタと揺れて、顔に痛いくらい雨粒がぶつかってくる。俺は少し歩くたびに後ろを振り返り、怪物の唸り声のような風に負けじと声を張り上げる。『だいじょうぶか!?、ちゃんとついてきてるか!?』と。
 そうやって歩いて、あれは何度目だっただろう。たしか用水路を迂回するために少し遠回りしようと提案した時のことだった。
 フーリが急にキョロキョロとしきりに辺りを見て、そして、大声で叫んだ。

『走って!』

 俺たちがその言葉に従った次の瞬間。凄まじい轟音と共に土石流が町を飲み込んでいた。

 ぐるぐると右も左も上も下もなくなって、みんな無我夢中だった。周りを気にかける余裕なんてなくて、ただ翻弄されるだけだった。だから、反応が遅れた。
 必死に走っていたとき、風に紛れて背後で何か、ドサッと音がした。
 俺は気づかなくてそのまま走り続けようとして、そんなだから目の前で急に方向転換したフーリには目を剥いた。
 慌てて後ろを振り返ってそこで初めて母さんが転んでいることに気づいたのだ。
 フーリはすぐさま駆けつけて母さんを助け起こして、それで、そのときそこへ。
 俺はすぐに走った。脇目も振らず全速力で。二人も気づいて顔を真っ青をにして走り出したけど、もう遅くて。
 二人が土砂に飲み込まれる直前、手が届いた。
 俺は、死に物狂いでフーリの手を引いて後ろに投げ飛ばした。でも、体勢が悪い状態でそんなことをすれば当然、俺の体は反動で前に出る。

『────、──!』

 最期、誰かが何かを叫んでいた。必死で、悲痛な声で叫んでいた。あぁ、せめてそれが風に飲まれて消えなければいいなと、そんなことを思いながら俺の意識は沈んで消えた。



「アタシ、一つだけソウに聞きたいことがある」

 クラゲたちの前で丸くなって座るフーリはポツリと言った。俺は静かにその横に座って続きを促す。ゆっくりと息を吸って吐く彼女の声は震えていた。

「アタシのこと、怒ってる……?」
「どうして?」

 静かに問い返すと彼女は「だって」と口を開く。いつか見た、いじけ虫がひょっこり顔を出していた。

「もしも、もしもさ。昔からちゃんとサボらず修行してさ、ちゃんと力を使えてたらさ。おばさんのことも救えてたかもしれない」
「うん」

「なのに今までやらなきゃいけないことから逃げたから、その罰であんなことになったんじゃないかってさ、ずっとさ、不安……でさ」
「うん」

「ソウの顔とか見れなくて、みんなの考えてることが怖くて、分からないから、だから、その」
「…………」

 押し殺すように啜り泣く声が体育館に響く。そう。「あの日」から数日後、突然フーリはいなくなった。
 ぱったりと連絡が取れなくなって、誰に聞いても居場所を知らない。すぐに必死になって探したが結局自分では見つけられなかった。
 それからずっと心配してたというのに、ほんとにこいつは……。

「はあぁぁぁ、蓋を開けてみれば結局、慣れないことして空回りしただけかよ!」

 盛大に気持ちを吐き出すと、フーリがビクッと震えた。怖がってる? でもそんなの関係ない。こうなったら俺も言いたいことを言わせてもらう。

「俺が怒ってるとか周りが悪く思ってるとか勝手に思い込んで確認もしないで逃げて、ほんっとに変わらないなお前は」
「う……」

「お前、昔からそういうところあるよな。マイペースで散々人を振り回すくせに寂しがりだし。自分の言いたいことだけ言ってこっちの話全然聞かないし。そのくせ心配かけないように痩せ我慢し続けるし。それに、一人で決断して取り返しのつかない無茶やらかすし!」
「…………ぅん」

 体育館中に俺の声が響き渡る。自分でびっくりするくらい言いたいことが溜まっていたらしい。すっかりしょげた様子のフーリに、俺は内心少し反省しつつ「だから」と続けた。

「一人にして、ごめん」
「……え?」

 俺はこの狐っ娘が一人が嫌いなやつだと知っていた。考える前に突飛な行動を平然とする奴だと知っていた。一人にしちゃいけないやつだったんだ、こいつは。なのに俺はこいつだけを助けた。そのせいで──

「寿命を与えるなんて選択をさせて、ごめん」

 助けたせいで、フーリが「自分で命を捨てる」結果になった。
 力の使い方が未熟だった。フーリは神秘を「使える」だけで「扱えなかった」んだ。
 0か100かの出力しかできなくて、その結果このバカの寿命は18年──つまり、今年までになってしまった。
 考えなしが、がむしゃらに動いた結果だ。俺とフーリが揃って仲良く間違えた結果だった。じゃあ、誰が悪いかと問われればそれは先に間違えた俺だろう。

「ずっと謝りたかったんだ。フーリ、ごめんな。それと、俺に時間をくれてありがとう」

 フーリはポカンとしていた。そうやってしばらく(ほう)けてから壁に背を預けて、空気が抜けるように笑った。「バカだなぁ、アタシ」と静かにつぶやいた少女は虚ろな瞳でそっと、こちらを見た。

「ソウはさ、何色が好き?」

 かすかに聞き取れるかどうかといった声で、いつかと同じ質問をした。何の脈絡もなく、唐突な問いだ。だが、今回は続きがあった。

「何色なら覚えていてくれる? どうやって塗ればずっとずっと忘れないでいてくれる?」
「それは──」

 空気に溶けるように、彼女の体が消え始めた。手足の先からまるでほつれた糸がほどけるように元の形を失っていく。
 あの灰色の記憶の中で、俺はあの時なんと答えただろう。なんと答えて、彼女を手放してしまったのだろう。なんにせよもう十分後悔した。だから、今度こそ間違えない。

「白と黒以外の全部、かな。ちゃんと今までの全部を『フーリの色』として覚えていたい」
「……ふふ。欲張り、だね」

 静かに笑い、彼女は目だけで問う。「なんで白と黒以外?」と。俺は冗談めかして、でも本気で答える。

「白と黒は自然界に存在しない色だろ? だから、いつかあっちに逝って、またフーリと会ったときの楽しみにするよ。だって、見れないものは好きになれないだろ?」

 フーリはそれを聞いてようやく。再会してからようやく昔みたいに、花開くようなとびっきりの笑顔を見せた。

 ──俺は今、笑えているだろうか。ちゃんと彼女の覚悟に報いられてるだろうか。マイペースで、寂しがり屋で、でもいざという時は周りがびっくりするような決断ができてしまう、この女の子に。

 
挿絵



『ありがとう。大好きだよ』

 目の前が滲んで何にも見えなくなった俺の耳に、その言葉は確かに、はっきりと聞こえたのだった。



 ✳︎✳︎✳︎



 ピンポーン、と軽快な電子音がリビングに響く。少し間を置き、もう一度。さらに少しして「宅配でーす」と呼ぶ声が。

「おい、湊! 宅配来たから──」
「わかってる、すぐ行く」

 俺はなんとか『廃校アート』関連の資料の山から抜け出し、急いで玄関ドアを押し開ける。少し驚いた表情を浮かべる配達員から手渡された紙にハンコを押してリビングに戻り、手早く箱を開けた。中に入っているのは最新のスマートフォンだ。

「お、来たな。けど、良かったのか? その色けっこう派手だろ」
「いや、これがいい。……これが、俺の一番好きな色なんだ」

 そう言って俺は、そっと『明るい狐色(こがねいろ)』を握りしめた。

しおり