「一歩踏み出す勇気」
僕は嫌だと思ったことを嫌だと言うことが苦手だ。
「おーい、チビ太! 早く来いよ!」
小学校の廊下でクラスメイトのタクミ君が言う。彼は背が高くて運動も得意な人気者だ。今もその周りには何人も取り巻きがいる。
“チビ太”は僕のあだ名。学年で背が一番低いから。でも、そう呼ばれるのは好きじゃない。
「う、うん!」
僕は胸の中にもやっと生まれる嫌な気持ちを押さえ込んで駆け寄った。
だって、そんなことを言ったら怒らせてしまうかもしれない。仲間外れにされてしまうかもしれない。それが怖い。他に僕を仲間に入れてくれる人はいないから。
あだ名以外にもそういうことはよくあった。だけど、僕は我慢することしか出来ない。いつかはこの痛みにも慣れるのかな。
とある日曜日、僕はお母さんと一緒に『ナックルキックボクシングジム』の前に来ていた。三角屋根で一階だけの建物だ。
きっかけは数日前のお母さんのこんな言葉だった。
『ねぇ、コウジ。こういうの近くでやってるみたいだけど、興味ある?』
スマホで兵庫県三田市──僕達が住む市の観光サイトを見ていたらしく、そこにあった紹介ページを見せてきた。子供教室として毎週日曜日に二時間行っているらしい。
多分、家でゲームばかりしている僕を見かねてだと思う。初めは断るつもりだったけど、サンドバッグとかでパンチやキックの練習をしている画像を見て少し興味が湧いた。
僕自身が強くなれば、タクミ君や他の人にも言い返せるようになるかもしれない。そう思ったのだ。もちろん、お母さんやお父さんにそんなことを言えるはずもないけど。
そういうわけで、今日は体験だった。まだ入ると決めたわけじゃない。
「よろしく、コウジ君」
初めての僕には先生が付いてくれて、まずはサンドバッグで練習することになった。がむしゃらに殴ったり蹴ったりするんじゃなくて、正しいフォームを教えてもらいながらだ。見本として見せてくれる先生の動きはどれも綺麗だった。
しばらくして部屋の端で小休憩に入ると、先生はこんなことを聞いてきた。
「コウジ君はどうしてこのジムに興味を持ってくれたのかな」
「それは、その……」
僕が言いにくそうにしていると、先生は更に問いを重ねた。
「もしかして、強くなって何とかしたい相手でもいるのかな」
図星だった。僕は俯くしかない。
先生は笑いながら言う。
「どんな理由があっても、暴力は駄目だよ。じゃあ何でこうやって格闘技を教えるのかって思うかもしれない。それはね、君達に芯のある人間になって欲しいからさ」
「芯のある人間?」
僕がその意味が分からずに首を傾げると、頷いた先生は急に高い部分を蹴るような動きをした。それもゆっくりと。
片足の状態でも天井からピンと糸で引っ張られているように姿勢が保たれていて、崩れる気配はない。
「すごい……」
「コウジ君も練習を続けていれば出来るようになるよ。格闘技やスポーツではこんな風に身体に芯が通ったような体幹、バランスが大事なんだ」
先生は足をそっと地面に下ろしてから言葉を重ねる。
「でも、この世の中を生きていく上では身体だけじゃなくて、心にもその芯が必要だって僕は思っている。芯のある人間は揺らがなくて強い。だから、どんな壁も乗り越えていける、暴力なんかに頼らなくてもね。僕はこのジムがそういうものを磨けるような場所になれば良いと願っているんだ」
それから練習を再開して今日の分の時間が終わった。
帰り道で僕はお母さんにジムに入りたいと伝えた。先生の言葉を聞いて、今の心が弱くて芯のない自分から変わりたいと思ったから。
『ナックルキックボクシングジム』に通うようになって、三か月が過ぎた。
初めの頃に比べれば一つ一つの動きが少しずつ上手く出来るようになってきた。先生の言う体幹も良くなっていった。
そのお陰か、体育の授業も前より憂鬱じゃなくなっていた。身体が思うように動くようになっている気がする。
ジムにも友達が出来た。学校で仲間外れにされてしまうのは怖いけど、彼らがいると思えば少しマシだった。
「よ、チビ太」
廊下でタクミ君にいつものようにそう声を掛けられる。僕は今日こそ言うのだと決めていた。
両手は震えていて、緊張で何度かパクパクと口を動かした後、ようやく言葉を発する。
「チビ太って言うの、やめて欲しい。嫌なんだ」
タクミ君はキョトンとしていた。怒り出したらどうしよう。そんな不安がよぎった。
けれど少しの間の後、彼は気まずそうな様子で言う。
「何だ、そうだったのか。今まで悪かったな」
「ううん、僕もちゃんと言えなくて、ごめん」
僕が反射的にそう言って頭を下げると、タクミ君は吹き出した。
「何でお前が謝るんだよ……コウジ」
「な、何となく」
そう言うと、僕も何だかおかしくなって笑った。
ひとしきり落ち着いたところで、僕達は廊下を歩きながら話す。
「最近、何かちょっと変わったよな?」
「そうかな? もしそうならそれはきっと──」
一歩踏み出すことが出来たから。その勇気を持つことが出来たから。
ジムがそのきっかけになってくれた。そう思う。