第1話 夢
竜女の下僕《ペット》をご希望ですか?
「勇者様……」
かすかに呼ぶ声が聞こえる。しかしその声は遠く、何と言っているのかよく分からない。分かるのは女の子の、頭の中に反響する優しくて柔らかい声だということだけだ。その声は悲しみと極度の不安で溢れかえっているように思えた。 どうして俺のことを呼んでいるんだ?
「お願い……助けて……」
依然として声は聞こえていたが、おおよそ普通の声色ではなく、かなり張り詰めた様子に感じられた。しかも何も見えず、辺りは真っ暗だ。靄がかかったような感じもする。夢でも見ているのだろうか。
何を助けてほしいっていうんだ?
「私の……」
私の……何だ?宝物か?ペットか?それとも家とかか?
その瞬間、眩い光が目の前に射し、何か白っぽくてふわふわしたもののシルエットがおぼろげに見えた。――白い翼?
そして、俺は夢から覚めた。
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今朝は快晴で、宮村啓史は並木道を歩きながら家に向かっていた。
「なあ啓史、どうしたんだ?浮かない顔して」
啓史は聞き慣れた声に返事をしようと振り返った。彼は啓史の同級生で、長いことたわいのない話をしていた。
「何でもないよ。ただ……」
何も変わったことはない。ごく普通の日だ。唯一おかしなことと言えば、ここ最近変な夢を見ていることぐらいだ。夢で天使が自分を呼んでいたように思う。もしかすると学校でのストレスのせいで調子が悪いのかもしれない。啓史はただ如何にしてテストをこなし、買ったばかりのゲームを楽しむ自由を手に入れるか、ということしか考えられなかった。
「はあ……あの子と今すぐ会えたらなあ……」
そう、啓史はごく普通の高校生である。しかし顔は端正で、今まで何人もの女の子に告白
されてきたが、すべて断ってきた。何故かって?
――なぜなら、彼にはこの世界の中でただ一人、心に決めた女の子がいるのである!彼は決して彼女を裏切ることはない。時折巷で聞くような二股男ではなく、とても誠実な男なのだ!日本で一番と言っても過言ではない!
「何をもごもご言ってるんだ、啓史?ああ分かった、アイナちゃんが恋しいんだろ!」
その通り、彼女の名前はアイナちゃんである!
「どうせ今日も一日中アイナちゃんのフィギュア持ち歩いてたんだろ。このクソオタクめ!」
彼の友人は彼のカバンを奪い取り、アイナちゃんの人形を探した。お察しの通り、アイナちゃんは三次元の女の子ではない。
「汚ねえ手でアイナちゃんを触んじゃねえ!」
啓史は友人を突き飛ばしたが、友人は何とかフィギュアをかっぱらった。
「分かった、分かったって。今日もまたこの人形とイチャイチャしてたんだろ。昨日この道でこいつにキスしてたの、見たぞ!」
「そんな恥ずいこと街中で言ってんじゃねえ!ぶっ殺すぞ!」
啓史はフィギュアを奪い返し、抱きしめた。このすさまじくオタクっぽい行動に気づき、怪訝なまなざしを送る人もいた。
「お前がどれだけオタクかなんて知ってるよ!みんな知ってる!隠す必要なんてないって――」
啓史は空手で鍛えた素早い蹴りを友人の腹にお見舞いした。
「ぐぉぉぉぉぉ……!」
蹴りの衝撃にうめき声が響いた。友人はしばらく息を整えて回復し、言った。
「啓史、全国レベルの空手家が人を蹴って回るのはやめとけよ……マジで死んじまうぞ」
啓史は昨年の空手の全国大会で優勝している。アイナちゃんのゲームのやりすぎで少し腕は落ちたものの、素手で一人二人殺すのに困らないぐらいにはまだ鈍っていない。
「余計なこと言うからだろ」
「悪かったって。じゃあ俺、部活こっちだから。じゃあな」
「了解。またな」
友人と別れた後、啓史はやっと家に着いた。アスリートのごとき速さで自分の部屋に駆け上がり、母親の「啓史!家で走らない!」という怒号も無視してゲームを立ち上げた。
ゲームのタイトルは――
『アイナ姫を救え』
しかし、啓史はあまりに急いでいたため、もうすぐ人生を変えることになる人の存在に気付いていなかった。ゲームが起動した瞬間、誰もいないはずの後ろベッドから唐突に声が聞こえた。
「勇者様…」
啓史はその優しく、やわらかい声がする方に吃驚をもって勢いよく振り返った。そこにはホワイトシアンの長く綺麗な髪と翠色の目が映える、手元のゲームのタイトル画面に映っている女の子と全く見分けがつかない女の子が座っていた。まるで双子のように瓜二つだった。
驚愕のあまり啓史の手から滑り落ちたアイナのフィギュアはフローリングに衝突し、硬い音が部屋中に鳴り響いた。