もううんざり
ブリジッタ・ヴェスタはうんざりしていた。
それもこれも、祖父がある人と取り交わしたある約束のせいで。
ジョフリー・ヴェスタ。
かつて祖父はある貴族の従者として仕えていた。
ライアン・ルクウェル伯爵。それが祖父が仕えていた主の名前。
祖父は彼の従者として共に戦地に赴き、それはそれは誠心誠意仕えた。
あるとき、祖父は敵の刃に傷つき倒れたルクウェル伯爵を守り、彼を背負って敵の包囲網を潜り、何日も山中をさ迷い、見事味方の陣地に辿り着いた。
一命を取り留めたルクウェル伯爵は、その後見事な戦績をあげて自国を勝利に導いた。
武勲を上げた伯爵は国王から多大な報償を得た。そのひとつにヴェスタへの準男爵叙爵があった。
通常は一代限りの準男爵位だったが、国王陛下の恩情により、二代までと認められた。
そしてルクウェル伯爵個人からは、互いの子ども同士の婚約が提案された。
だが、残念なことに互いの子どもは男ばかり。
約束は次の世代へと持ち越された。
それがルクウェル家のジルフリードとヴェスタ家のブリジッタだった。
互いの祖父との約束。
ただそれだけ。
二歳違いのジルフリードとブリジッタは、生まれた時から婚約者同士だった。
二人が初めて顔を合わせたのは、ジルフリードが七歳でブリジッタが五歳の時。
今でも憶えている。
最低最悪の日。
二人の顔合わせがここまで遅れた理由は二つある。
殺しても死なないようなブリジッタの祖父が、あっけなく心臓発作で亡くなり喪中だったことと、ジルフリードの母親のジュリアーナが二人の婚約に反対していたからだった。
救国の英雄と讃えられたルクウェル家なら、もっと上の身分の令嬢を迎えることができるのに、準男爵の娘となど、子爵家の彼女は許せなかったのだ。
しかし息子に家督を譲ったとは言え、まだまだ絶大な権力を持つ老伯爵に誰も逆らえない。
渋々執り行った初顔合わせのお茶会で、二人は初めて互いを知った。
黒髪に新緑の瞳のジルフリードは、美人と評判の母親に似た美少年で、七歳ながらもすでにその才能を開花させていた。
利発で習い始めたばかりの剣術でも師範の評価も高く、剣術はいまひとつで文官を勤めていた父親とは違い、祖父の才能を引き継いでいると言われ期待されていた。
一方ブリジッタは、くすみかがったブロンズ色の髪と赤褐色の瞳、食も細く痩せ細った貧相な少女だった。
顔立ちは可愛い方だったが、ジルフリードと並ぶと確実に見劣りした。
「ほら、ジルフリード、この子が将来お前の嫁になるブリジッタだ。ブリジッタ、この子がジルフリードだ。二人とも仲良くしなさい」
五歳のブリジッタには婚約者というものがどういうものなのか、友達とどう違うのかわからなかった。
「魔王?」
その時彼女が夢中になっていた物語に出てくる魔王にそっくりの髪色と瞳に驚いた。
「魔王だと、失礼なちんくしゃだ」
彼女にしてみれば、絶大な力を持つ魔王が好きで、褒めたつもりだった。しかし言葉が足りず彼を怒らせた。
すでに母親からブリジッタやその家族の悪口を吹き込まれていたジルフリードは、ブリジッタの呟きに腹を立て、彼女の容姿を馬鹿にしたのだった。
結果、ブリジッタは大泣きした。
泣き止まない彼女に困り果てた両親は、置いてきたブリジッタの三つ下の妹のリリアンのことが気がかりだからと言い訳をして、謝りながらルクウェル家を後にした。
「あなたはどうしてお母様達に恥をかかせるの! 恥ずかしいったら・・あのルクウェル伯爵夫人の馬鹿にしたような顔、ああ、悔しい。こっちの身分が下だからってあそこまで馬鹿にしなくてもいいのに」
ブリジッタの母のマリサは帰りの馬車で散々ブリジッタを責めた。
その後、ライアンが骨を折って何度か二人は顔を合わせたが、互いの仲は深まるどころか一向に親密になることはなかった。
「どうしてあの子に会わなくちゃいけないの。会いたくない」
などと駄々をこねたが聞き入れられず、月に一回の面会だけは続けられた。
そして月日は流れ、ジルフリードは士官学校へと入学した。
そのため面会は半年に一回となった。
顔を合わせてブリジッタが何とか会話をひねり出しても、「ああ」「そうか」「ふうん」しか言わない。そのうちブリジッタも話しかけるのをやめ、無言の時が流れるばかり。
この結婚に意味があるのか。
そう思っていた時、転機は訪れた。
ライアンが亡くなったのだった。
ジルフリード十八歳、ブリジッタ十六歳。
シトシトと小雨の降る中、二人はいつものように隣に立ったまま無言でライアンを見送った。
ライアンのお葬式で顔を合わせた後、ジルフリードは士官学校を卒業し、初任務は国境の警備だった。
それから二年。
ジルフリードが帰郷する際も、彼の母親の妨害で二人は会うことが叶わないまま時は過ぎた。
そして夜会に出る度に、ブリジッタは他の令嬢達から心ない言葉を掛けられた。
「貴女みたいな人がどうしてルクウェル伯爵令息の婚約者なの?」
「以前王宮で開かれた夜会で、王女様をエスコートされるルクウェル様をお見かけしましたけど、王女様と本当にお似合いでしたわ。あら、そう言えば貴女はいらっしゃらなかったのかしら」
王宮の宴など、準男爵でしかないヴェスタ家に来るはずもない。わかっていて彼女たちは言っているのだ。
そうして夜会で他の令嬢達から心ない言葉を掛けられ、家に帰ると、今度は家でも同じようなことを母と妹から言われる。
妹のリリアンは、雛には稀な、と言われるほどに美人だ。
ブリジッタより遙かに金髪に近い髪色、そして美しいサファイヤの瞳を持ち、目鼻立ちもくっきりとしてはっと目を引く華やかさがある。
本当に同じ親からの生まれたのかと疑いたくなるほどだ。
本人もそれをわかっていて、いつも「同じお祖父様の孫なのだから、ジルフリード様と婚約するのは私でもよくなくて?」と言っている。
母も「本当に、生まれたのが逆だったら良かったのに。リリアンが婚約者ならジルフリード様もきっともっと我が家に目を向けてくださったわ」と、ブリジッタを見る度にそう言っている。
外に出ても家にいても、ジルフリードの婚約者として相応しくないと言われ続け、ブリジッタは遂に決心した。
「もううんざり」
ブリジッタは何もかも嫌気がさしていた。