尻毛無頼
俺を先頭にクロ、栗栖、妻殴り、糞平、榎本の順にサンデーサンへ入店する。
中年の女性店員が出てきて、俺達の人数を確認すると席へと誘導する。
その道すがら俺は栗栖へ手招きする。
栗栖は車椅子に座る俺の目線に合わせて屈む。
俺は栗栖に耳打ちをし、
「お前のお目当てはこの店員か?」
「シロタン、失礼だな。
僕が好きなのはこんなおばさんじゃないよ。」
俺が敢えて小さい声で耳打ちしたのに栗栖は普通の声量で返事した。
栗栖の一言はこの店員に聞こえたことだろう。
栗栖、お前こそ失礼な野郎だ。
こんな調子だからお前は年齢=童貞なのだ。と言いたいところだが、ここは我慢だ。
栗栖は元々こういった部分がある奴だ。
ここで事を荒立てることはない。
俺達は店内端の大きいテーブル席へ案内された。
早速、テーブルにあったメニューを見ているとクロが、
「今日はお目当ての店員は来てるの?」
と質問すると、
「うん 火曜日のこの時間はいつも出勤してるよ。」
と、栗栖は分かりきったことだとても言いたげに答えた。
こいつ、目当ての店員がいつ出勤なのか知っている。
何度もここに通い、出勤時間まで把握してるのか?
「そうなんだ。どの店員?」
クロのその言葉に栗栖は辺りを見もせず、
「まだいないけど、来たらすぐわかるよ。」
栗栖は軽くストーキングでもしてるのじゃないかと疑惑を感じ始めた。
まぁ、そんなことよりも腹が減ってきたからな、まずはコーラだ。
「榎本さん、コーラ宜しくお願いします。」
俺のその言葉に榎本は露骨に不満そうな表情を浮かべた。
俺は今、車椅子だ。
介助が必要なのだから、俺から指名を受けた人間は介助するのが当たり前のことだ。
榎本の目を見据えると、仕方ないとでも言いたげな表情を浮かべ、立ち上がりドリンクバーへと向かう。
その時だ。
店内に流れる陳腐なBGMが途中で止まると、店内の照明が辛うじて人の顔が認識出来るぐらいにまで落とされた。
店内はそれまで人の話し声や食器の音等で騒然としていたのだが、一気に静寂が訪れた。
まるで時間が止まったかのようだ。
「来るよ。」
栗栖が囁いた。
その囁きの一拍後、弦楽器の物悲しげでありならがも流麗な調べが聴こえ、店の奥にスポットライトが当った。
そこに浮かび上がったのは、ファミリーレストランであるサンデーサンの制服に身を包んだ女の姿だ。
何故わざわざ照明を落とし、女の店員にスポットライトを当てるのか意味がわからない。
しかし、一目でこの女の店員が只者じゃないことがわかる。
場違いなほど美しく……、妖艶なのだ。
そして妖艶でありながらも、異性どころか他者への媚びという姿勢を一切感じさせない凛とした佇まい。
こいつは只者じゃないと確信した。
今時のテレビでよく見る親しみ易さだけの連中とは格が違い過ぎる…
「黒薔薇婦人だよ。」
栗栖が呟いた。
黒薔薇婦人?
黒に薔薇に婦人という組み合わせに思わず笑いそうになるが、黒薔薇婦人とやらを見つめる栗栖の恍惚とした眼差しに本気を感じる。
栗栖が言うところの黒薔薇婦人が周囲を軽く見回した後、ゆっくりと優雅に右手に持っていたマイクを顎の辺りにまで掲げた。
左手には黒い薔薇を持っている。
だから黒薔薇婦人なのか…
「栗栖、これは何なんだ?」
「しっ、ちょっと黙ってて、聴こえないから。」
栗栖は黒薔薇婦人をじっと見つめたまま、人差し指を唇の前に立てた。
演奏はいつの間にか終わっていた。
店内に沈黙が流れ緊張感が満ちてくる。
それは長いのか短いのか、時間の感覚が麻痺してくるような間。
緊張感が膨張し、その緊張感で店が破裂するんじゃないかと錯覚し始めた時、黒薔薇婦人の歌声が沈黙を破る。
その歌声に弦楽器やフルート等が続く。
極限まで緊張感を高めておいた後、一気に押し寄せてくる安堵感、解放感に心地よい音楽を絡めてくる。
昔、「間は魔物だ。」みたいな事を誰かが言っていた。
黒薔薇婦人はこれを俺以上に理解し実践している。
黒薔薇婦人…、こいつはやはり只者じゃない…
この場の空気を完全に支配している。
黒薔薇婦人は外国語で歌っているようだ。
何て曲でジャンルもわからない、初めて聴いたような音楽なのだが、俺はいつの間にか黒薔薇婦人の世界に取り込まれていた。
それはこの場にいるブラックファミリーの面々も同様だ。
しかしだな、今日は黒薔薇婦人のリサイタルに来たわけではないのだ。
俺は栗栖の耳元で、
「栗栖よ。お前のお目当てはこの黒薔薇婦人なのか?」
囁くと、栗栖は頷き、
「そうだよ。」
何食わぬ顔で答えた。
俺の背中に冷や汗が流れた。
この恋愛経験さえもない、話したことがある異性は自分の母親だけというものを具現化したような男、栗栖が…
黒薔薇婦人みたいな女に恋をしただとか身の程知らずも甚だしい。
図々しいにも程がある。
栗栖の片思い遍歴の中で最大の無理だ。
高嶺の花なんてもんじゃない。
今世紀最後のプレイボーイと呼ばれる俺でさえも無理だ。
容姿から佇まい、歌声、全てが浮世離れしている。
俗臭芬芬な我々に黒薔薇婦人は手の届く存在ではない…
栗栖って奴は異性を見れば、恋愛のふりをした肉欲か無関心かの二者択一しかない。
刺激に反応してるだけの下半身脳が惚れた腫れたと一々騒ぐ。
男の本能剥き出しの醜悪さだ。
こんなことに付き合ってはいられない。
さっさと帰るべきだ。
さてどうやって帰るか等と思いを巡らす。
車椅子を押させるにもパリスはいない。
栗栖はあの調子だし、それならば榎本だな。
ドアが蹴破られたような音がした。
その音は店の入り口からのものだった。
店の入り口を見るとそこには一人の男が立っていた。
その男には見覚えがある。
俺が通う高校の教師である尻毛という男だ。
尻毛というのはこいつの苗字で異名ではないのだ。
笑ってしまうのだが本当に尻毛なのだ。
尻毛は身長約180センチぐらい、そこそこ肥満の冴えない中年男だ。
「婦人!何故なんだっ!」
尻毛はそう叫んだ。
その目は真っ赤に充血し、頬は涙で濡れて光っているように見える。
婦人と呼びかけていることからして、こいつも黒薔薇婦人目当てなのか?
「何故、僕じゃ駄目なんですか?
僕はあんなに尽くしたのに!」
黒薔薇婦人は歌うのをやめ、これ以上無いぐらいの冷たい眼差しを尻毛へ送る。
静まり返っていた聴衆が瞬く間に殺気立つ。
「尻の野郎っ!邪魔をしやがって!ぶっ殺してやる!」
栗栖が立ち上がり、今にも尻毛へ掴みかかりそうな勢いだ。
ここまで怒りを露わにする栗栖を見たことがない。
俺が知る栗栖は不細工小太りの半ケツ屑野郎だが温厚な奴だ。
これは一体どうしたことなのか。
黒薔薇婦人って女はここまで男を狂わせる魔性の女なのか?
そう尻毛もだ。
尻毛は常に背広をだらしなく着こなす、洒落なのか無精なのかわからない奴だが、授業や生徒に対する姿勢は真面目で誠実。
教師という立場を利用し、女学生に手を出すような下衆野郎ではない。
そんな尻毛がタキシードを着こなし、いつも寝癖の付いた髪を整髪料で撫で付け、しかも薔薇の花束まで持っているのだ。
尻毛までも狂わせるのか…
恐るべし、黒薔薇婦人…
今ここにいる客のほとんどが殺気立ち、今にも尻毛を捕まえ八つ裂きにでもしそうな雰囲気を漂わせ始める。
そんな中、乾いたような破裂音がした。
その直後、尻毛が仰向けにゆっくりと倒れていく。
その倒れゆく姿がまるでスローモーションでもかけたかのように見える。
これは俺の錯覚なのか?
この一瞬に等しい時の流れに、俺はまるで夢でも見ているかのような気分に陥った。