俺といてもつまらないでしょ、男の台詞に彼女は内心、またかと思ってしまった、これで何度目だろう、会うたびに聞かれるのだ。
最初のうち男は結婚しているけど、子供はいない、奥さんとはそこそこに仲がいいといことを自慢するように言っていた、人生を楽しんでいるといわんばかりだ。
ところが、少し前から一緒になりたいと言い出したのだ、だが、女は返事はせず、目の前の珈琲に口をつけ、聞こえなかったわと男を見た。
その表情は男の期待したものではない、答えでないことに不満を感じたのかもしれない、真面目な顔で最初の言葉を、また口にしたのだ。
女は笑いたくなるのを堪えながら。
「つまらないのは最初からよ」
その言葉に男の顔が一瞬、強ばった。
「それは別れたいっていうことかな」
何を、とんちんかんな事を言ってるのか。
「それより付き合ってるの」
男の表情が強ばったものになったが、それは一瞬だ。、
「デートもした、それに夜だって」
一緒に過ごした、sexもしたという言葉を口にはしなかったが、自信があったのかもしれない。
スタイルも顔もそこそこ、社内では女性社員から熱い視線を送られてデートを申し込まれた事もある、何度もだ。
だが、それは少し前までのことだ、しかし、そんな事は微塵も感じさせないよう、女に笑顔を向けた。
「ああ、それで」
女はカップを置いた、そして口を開いた、勘違いしたのねと、まるで子供に言い聞かせるようにだ。
それは男のプライド、自尊心を、怒りに火をつけたのかもしれない。
「潮時よね、というか、あなたといてもつまらないから、返すわ」
鞄から札束を取り出しばらまいた、それは店の中の床に散乱した、周りの客達は驚いた、札だったからだ。
「今まで使ってくれたデート代、返すわ」
男の顔が歪んだのは屈辱のせいだろうか
拾えばいいんじゃないと言われて、床に視線を落とした男は唇を噛んだ。
「有名会社に務めてる斉藤一樹さん、拾ったらどうなの、お金が無くて困ってるんでしょ、浮気して奥さんに離婚をつきつけられているんでしょ」
女の声が店内に響く、そのとき、スマホを取り出して動画を撮り始めた人間がいた。
一人、だけではない、二人の近くにいた数人の客だ、男が叫んだ、だが、聞こえてきたのは笑い声だ。
「へえーっ、浮気男の末路って奴」
「有名会社って、おもしろ」
「愛想を尽かされたって奥さんと愛人から、それってどうなの」
「顔だってたいしたことないし」
男は床に散乱した金を、店内を見回した、視線は全て自分に向けられている、笑顔だ、晒し者、どころではない。
「ありがとうございます」
女は、ほっとした顔で頭を下げた、別れたくても夫は逃げ道を塞ぐ、このままでは自分はどうにかなってしまうと思ったとき浮浪者に出会った。
公園で偶然、出会った初老の男は、最初、自分の顔を見て自殺するのではないかと思ったらしい。
見ず知らずの他人に女は話してしまった、夫の浮気の事、別れたくても夫の愛人達に邪魔されて心身ともに別れる気力もないことを。
すると浮浪者は助けてあげようと言いだした、ただし、秘密を守ること、誰にも話さないという約束つきで一ヶ月、我慢して欲しいと言われて女は待った、有利な条件で別れる事ができるという話を最初は半信半疑だった。
「別れないのかね、旦那さんと」
「ええ、最初はそのつもりでした、ただ少し先延ばしする事にしたんです。
今まで散々、酷い、辛い日々を過ごしてきた。
男は笑った、好きにしなさいと。
「ところで報酬は本当にいいんですか」
「ああ、あんたからではない、別の所から金は入ってくるんだ、だが、知らなくていい」
女は頷いた、夫は会社を辞めて部屋から一歩も出る事なく引き籠もり同然となってしまった、以前は外食三昧だったのに、今では、それもない。
動画のせいだというが、一度、アップロードされたらしいが、それは削除されたらしい、だが、ネットの世界は広い、国内ではない場所で公開されているかもしれない。
近所の人間、皆が噂している、愛人達は手のひら返しなのか、寄りつかなくなった。
女は夫の実家から十分過ぎるほどの慰謝料をもらう事が決まっている、これからも面倒をみてくれというつもりだろうが、それはない。
まあ、一ヶ月ぐらいならいいだろうと女は考えていた。
「ねえ、あなた、面白い物を見つけたの」
女は夫の部屋に入るとスマホを手渡した、そこに映っている動画を見た瞬間、うつろな目が大きく見開かれた。
どうして、過大評価していたのか、仕事ができる、成績もそこそこに良くて、顔もだ、だが、一皮剥けばこんな、男だったのだ。
スマホの動画には、這うように床に散乱したものを拾う男の背中が映っている。
「これ分かるかしら」
男はスマホから目を背けた、それが誰なのか分かったからだ。