第4話
この理不尽さ加減は――と、嘆いてばかりいても勿論はじまらない。
私は思った。
足と『対話』をすべきではないのかと。
線香を焚いたとき、それは『仏との対話』になるのだと、仏壇店の店員に私は教わった。
その時はただ薄らぼんやりと、そういうものか。程度の意識しか持たなかったのだが、よく考えてみれば、仏とではなく、足とこそ、私は対話すべきではないのか。
しかし、どうやって?
足と対話したことは、ない。
つまりそれは、私の腰を蹴るあの足個人に対してという意味ではなく、世間一般的にいう足、汎世界的に存在する足、普通の、そこら辺にいる、というかある、足に対してだ。
当たり前だ。
世の中、犬や猫に対してヒト同様話しかける人間はざらにいるが、足に対して同じことをする人間を、私は見たことがない。
「あらーいい子ねえー」然り、
「お散歩しているの?」然り、
「大きくなったわねえー」然り。
ただし、一度だけ、自分の前足をじっと見つめる犬というものを、見かけたことはある。
その犬は――飼い犬なのか野良なのかよくわからないが――地に佇み、うな垂れて、右前足を上に持ち上げ、内側に向けた己の肉球を、見ていた。
会社帰りに見かけたものだったが、何自分の肉球見てんだこいつ、とその時は軽く吹いただけで私は通り過ぎたものだった。
石川啄木の「ぢつと手を見る」の句が、ふと頭をよぎったりもした。
あいつ、きっと貧乏なんだろうな。
そんな根拠なきヒトの妄想など、無論犬には思いも及ばぬことだったろう。
ともかく、今にして思えば、あの犬は、自らの足と「対話」していたのかも知れない。
けど、何を?
足と対話って、一体何を話せばいいのだろう?
世間話か? 政治の話? 趣味のこと? 最近の話題……例えばスポーツ関連とか?
いや。待て。
私はそもそも、何のために足と対話しなければならないのか?
目的を履き違えているのではないか?
足と対話して、何をしたいのか私は? そう、それはもちろん――
どこかへ、消えて欲しい。
そういうことだ。
そういうことであれば、政治もスポーツもへったくれもない。
ただ足に「やめろ」「消えろ」「あっちへ行け」と、告げればいいだけだ。
言霊に、頼むのだ。
私はその晩自宅に戻り、いつものように近所のスーパーで買い入れてきた半値落ちの弁当をレンジであたため缶ビールとともに食した。
脚は、弁当を食べ始めて約五分経った辺りから、私への攻撃を始めた。
ごつ。
ごつ。
ごつ。
いつもの調子だ。食事中だろうが睡眠中だろうが、こいつには関係ない。
私は黙って弁当を食べつづけた。
ごつ。
ごつ。
ごつ。
足もまた、黙って私を蹴りつづけた。
やがて弁当は空となり、缶ビールの最後の一滴まで私は飲み干した。
ごつ。
ごつ。
ごつ。
足は、蹴りつづけている。
私はふう、と一息つき、首を後ろに振り向けた。
「やめろ」
言った。
足は、動きを止めた。
今にも次の蹴りを見舞わんとしている体勢のまま、足は停まった。停止した。
私はなぜか、心臓の辺りに熱い塊が生まれるのを感じた。それか何かはわからない。驚愕の想いなのか、言霊が「効いた」ことへの感動なのか、或いは足のその停止という反応に対する、警戒なのか――
どれほどの時間が経過したのだろう。数分といわれても、数十分といわれても、私には納得がいくかも知れない。
だが恐らくそれは、ほんの数秒間、だったと思われる。
私は足を、停まった体勢のままの足を見つめていた。
どうすれば、いい?
私の頭の中に、唐突にそんなことばが沸いて出た。
そうだ。私はこのまま、首だけ振り向けた状態で、蹴りを見舞おうとして停まっている足を、いつまでも見つめているわけにはいかないのだ。
何故なら、私には、そう、生活というものがあるのだ。
生活などというと大袈裟かも知れないが、ともかく私は足を見つめてばかりで生きていくことはできない生き物なのだ。人間なのだから。
そうだ。今こそ私は、足に出会う――もとい、足に取り憑かれる以前の、ごく普通の生活に、立ち戻らねばならないのだ。今が、その時なのだ。
「消えろ」
私は、私の言うべき次の言葉を、言霊を、放った。
足は、消えた。
足のいなくなった空間を、虚空を、またしても私は自分では計測不可能な時間ほど、見つめていた。
やがて、小さな苦笑が洩れた。
一体何をしてんだ俺は? いつまでも、足のいなくなったところを見つめて。
お前まさか、
寂しいとか?
それを思った瞬間、私の心臓付近にまたしても熱い塊が生じた。
なんだと!?
私は心中で、私自身に向かって怒鳴り返した。
お前、何言ってんだ? 馬鹿じゃないのか? 誰が寂しいだって!?
冗談も大概に――
その瞬間、足は戻ってきた。
何故それがわかったかというと勿論早速私を蹴り直しはじめたからだ。
ごつ。
ごつ。
ごつ。
茫然と、私は蹴りつづけられた。
何故?
どうしてこの足は、戻ってきたのか?
まさか私が一瞬とはいえ、
寂しい
などと思ってしまったからか?
いや違う。
寂しい、など断じて私は思わなかった。
ただ自分自身の中に自分自身を「寂しいんだろ、やーい」と揶揄する声が生まれてしまったというだけだ。本質的には決して寂しがってなどいない。
私は首を二、三度振り、もう一度後ろを向いて
「やめろ」
と言霊を放った。
足は、やめなかった。
「止めろ」
私は、言霊の種類を変えた。
足はそれでも、止めなかった。
「蹴るな」
足は蹴りつづけた。
「消えろ」
足は消えなかった。
「どっかへ行け」
足はどこにも行かなかった。
「――」
私は言霊を失った。
はい引き出し空、という語句が、脳裡をよぎった。
そう、私の言霊ストックは、案外貧相なものだった。私はその時その事実に気づいていた。
ああ、もっと国語関係頑張っときゃよかった。本とかいっぱい読んで。こういう、足とかに取り憑かれるんなら。
私が己のこれまでの人生の来し方に後悔している間にも、足はテンポよく蹴りつづけていた。
ごつ。
ごつ。
ごつ。
「なあ」私は語りかけた。「頼むからさ」
ごつ。
ごつ。
ごつ。
「お願いします。やめて下さい」
ごつ。
ごつ。
ごつ。
「やめていただけませんか。やめていただけませんでしょうか」
ごつ。
ごつ。
ごつ。
「よろしければ、その挙動をお止めいただくことは可能でございますでしょうか」
ごつ。
ごつ。
ごつ。
「――」
私は、自分の頬が濡れているのを知った。
何を言っても、通じない。
言霊はおろか、懇願も、問いかけも、営業トークも、この足には聞き入れてもらえないのだ。
暖簾に腕押しの、言語バージョンだ。
そのことが――自分が何を言っても相手に伝わらないという事実が、こんなにもむなしく、そして哀しいことであるというのを、私は今、はじめて知ったのだった。
私は首を再び前に向けた。
弁当殻と空のビール缶が、そこに在った。
洟が垂れそうになったので、手を伸ばしてテーブルの隅にあるティッシュを引き抜いた。
洟をかみ、ついでに頬の涙も拭き取りながら、私はやっぱり思った。
この理不尽さ加減は、何なのだろう――