①
あの人は今どうしているのだろうかと、ふと考える時がある。
昔、一途に愛した男(ひと)がいた―――。
その人と一緒になるんだと思っていた。
そう思っていたのに、その夢はある日突然打ち砕かれて。
会えないあの人に、ずっと会いたいとそう思って生きていた。
***
「ママ!どうしたの!ママ!大丈夫?」
この日は愛おしい声で夢から覚めることができた。
目を開けると、くりくりした目を心配そうに揺らしながら、わたしを見つめる息子の姿があった。
「慧斗(けいと)?ママ起こしてくれたの?ありがとう」
重い体をゆっくりと起こすと、息子の慧斗が不安そうに顔をのぞき込んできた。
「うん?どうしたの、慧斗?」
「ママ、またうーうーってくるしそうだったよ」
「ほんと?ママ、苦しそうにしてた?」
「うん、またいやなゆめ、みた?」
時々、こうして息子に起こされることがある。
慧斗はわたしがうなされていたって言うけれど、決まってその時の夢は覚えていない。
でも、どうしてだろう。
夢の中でずっと会いたかった人に会った気がするのは。
ふわふわと暖かな場所にいるような、そんな気分になった気がするのは。
「ううん、そんなことないよ」
息子にこれ以上心配させないように笑顔で伸びをすると、少し安心したのか安どの表情を浮かべて、わたしと同じように慧斗も伸びをした。
わたしがさらに伸びをすると、慧斗も負けじと伸びをする。
それの繰り返しで、この小さな競争がわたしの癒しのひとつでもある。
「ママ!きょうはあおいのがいい!」
「青がいいの?昨日の夜は緑がいいって言ってなかった?」
昨日のうちの用意しておいた、慧斗が今日着る洋服。
昨日は緑がいいと言って、一緒に洋服を準備したのに。
慧斗は洋服の色にこだわりがあるようで、その時の気分にあった色でないと拗ねてしまうことがある。
基本的には良い子なのだけれど、最近は洋服の色へのこだわりが強いのだ。
「あおがいいの!」
「青がいいのね。じゃあ、緑のTシャツしまってからね」
「はーい!」
元気よく素直な返事を聞くと、朝から元気をもらえる。
御所望の青いTシャツを出してやると、片手を上げてポーズをとり始めた。
最近、調子が良くなるとこのポーズをやるのだ。
「慧斗、姉ちゃん。ご飯できた」
おはようの挨拶もなく、勝手に部屋に入ってきたのは、わたしの6歳年下の弟、蛍(ほたる)。
「おはよう!ほたるにぃ!」
「おはよう、慧斗。今日もママはお寝坊さんだった?」
「うん、そうなの!ママね、またおねぼうさんだった!うーうーってくるしそうだったから、ぼくがおこしてあげたんだよ!」
「そっかー、えらいぞ、慧斗!」
ガシガシと弟が頭をなでると、慧斗は満足気に笑う。
慧斗から見ると、蛍はおじに当たるのだけれど、「おじさんって呼ばれるのは嫌だ」と言って、蛍はわざわざ「お兄さん」と呼ばせているのだ。
今までは離れて暮らしていたから、時々しか会えていなかったのだけれど。
一緒に暮らすようになって数ヶ月しか経っていないのに、もうすっかり親子のように仲良くなっていた。
「まりねえちゃん、もういる!?」
「いるよ。今、朝ご飯の準備手伝ってくれてる」
「じゃあ、ぼくもー!」
慧斗の言う「まりねえちゃん」は、弟の奥さんである、真理(まり)ちゃんのこと。
1年前に結婚したばかりで、まだまだ新婚気分が抜けない時があるのが微笑ましい。
実は、真理ちゃんはわたしより2歳年上。
つまり、弟は姉さん女房をゲットしたのだ。
「あ!ちょっと、慧斗!お着替えしてからでしょ!」
「わー!ママが怒ったー!」
「慧斗ー、ママが鬼になる前に早く着替えろー」
わーわー騒ぐ慧斗に弟も乗っかり、朝から賑やかになった。
この片岡家には4人が暮らしている。
慧斗、弟の蛍、弟の奥さんである真理ちゃん、そしてわたしだ。
1階には慧斗とわたし、2階には弟夫婦が暮らしている。
以前は両親も一緒に暮らしていたけれど、今は2人とも東京に住んでいる。
家は音楽一家で、父はマエストロ、母はオペラ歌手。
2人とも雑誌で話題になる、音楽通の人なら必ず知っているくらいの人気を持っている。
そして、弟の蛍はバイオリニスト。
アルバイトをしながら、市内のオーケストラに所属している。
わたしは昔からやっていたお琴の教室を開いているんだけれど。
まだここで教え始めて数ヶ月だし、少し要領がつかめてきたかなあと感じてきた頃だった。
「おはよう、彩夢(あやめ)ちゃん」
コップにお茶を注ぎながら、わたしの名を呼ぶのは真理ちゃん。
「まりねえちゃん、おはよー!」
「おはよう、慧斗くん。今日はね、ベーコンエッグがあるよ」
「べーこんえっぐ!?ぼくすき!」
ベーコンエッグが好きというより、ベーコンが好きな慧斗は、自分の好物が朝食に出されるとさらにご機嫌度が上がるのだ。
そんなところも可愛くて、わたしたち大人は慧斗の好物を出来るだけ食卓に並べるようになってしまう。
「ねえ、ママ。こんどのにちようび、こうえんにいってもいい?」
「公園?お友達と?」
「うん!たけるくんと、しょうじくん!たけるくんのママがついてきてくれるって」
「そうなの。平日遊ぶ時も丈瑠(たける)くんのお母さんが付き添ってくれて悪いのよね。今度の日曜日はママも一緒に行こうかな」
「ほんと!?いつもね、たけるくんのママ、いっしょにあそんでくれるんだよ。こんどはままもね!」
「そうだね、今度はママも一緒に遊ぼうね」
新しい環境でしかも小学校に上がった慧斗のことを始めは心配だった。
この環境に馴染めるか、友達はできるか、学校でいじめられないか。
心配は切りがないけれど、慧斗はすぐに友達を作ってその日の楽しかった出来事を必ず報告してくれる。
瞳を輝かせて報告してくれるその姿に何度癒されたことだろう。
“電化製品で有名なEleが海外進出を果たしました”
朝のニュースからこんなワードが聞こえてきた。
“Eleの西園寺社長、かっこいいですよねえ”
“まだ30代だというのに、すごいですねえ”
どこかで見たことのあるタレントさんがありきたりな感想を述べているのも聞こえてきた。
“Ele”と“西園寺”というワードに、わたしは無意識に反応してしまう。
だって―――。
「姉ちゃん、近所だけどまだ“あの人”に会ってないんだよね?大丈夫?」
「うん、大丈夫。“あの人”はわたしがここに戻ってきてることなんて知らなんだろうし。もう6年も経ってるんだから」
言葉ではこう言っても、気にならないはずがない。
だって―――。
だって、Eleの社長である西園寺桃矢(さいおんじとうや)はわたしの元恋人だったのだから。
そして、慧斗の父親だ。
「ねえ、ママ。“あのひと”ってだあれ?」
「うん?慧斗の知らない人よ」
「ふーん。そうなんだあ」
あまり興味がなさそうな慧斗の返事に少し安心する。
慧斗は父親である桃矢に一度も会ったことがない。
そもそも、自分に父親がいるなんて知らないだろう。
わたしから父親のことを話したことは1度もないし、慧斗から聞いてきたこともない。
周りにはお父さんがいて気になることもあっただろうに。
慧斗は1度も聞いてきたことがないのだ。