ディスカッション③「加奈と太一」
加奈の答えに要領を得ない太一が眉を蛇のように動かし、「どういうことだよ?」と言った。
「ループもののアニメでよくあるじゃん。よかれと思って過去を変えたら、そのせいでよけいに歴史が悪い方向に変わっちゃうっていう。単純に過去のある一点の事実だけをなくすなんて、うまくいかないんじゃない? いいことも悪いことも、起きたらそれはそのまま受け入れるしかないのかもね、なんて」
加奈は目を閉じ、軽く息を吸い、ひゅううと吐いた。そして、目を開ける。
「〈いま〉っていうのは過去のいろんなことのつながり、重なりがあって、たどり着いてるわけだよね。ある出来事があって、それ自体はよくないことでも、それがあったことで、意味ある〈いま〉につながってたとしたら」
「お、おい。なんかエラく複雑な話になってきたな。どうした、加奈?」太一が動揺する。
「太一に関係してることだよ」
「おれに?」
「うん」
加奈は隣の太一の目をじっと見据える。彼女の表情は穏やかだ。
「二ヶ月前、あたしが茂雄と別れたとき、正直、めちゃめちゃきつくて。しかも、あたしのせいで茂雄を傷つけたのが原因だったから、自分が許せなくて、一生分の自己嫌悪ってくらいに自分が嫌いになったの」
「加奈……」
「鏡を見るたび、殴りたくなって、実際にパンチして、手を切っちゃったこともあったよ」
「そっか。あの頃、包帯を巻いてたのは……」
「梅雨なのにまったく雨が降らなくて、見せつけるように晴れ渡る青空がむかついてしょうがなかった。こっちは心のなかが常にどしゃ降りだったのにね。で、そんなとき、あんたはあたしの心にそっと傘を差し入れてくれたんだよ、太一」
太一はこんなとき、どんな表情をすればいいかわからず、ただ困惑した顔をしていた。その顔を見て、加奈はニコっと笑った。マスクをしていても口元が微笑んでいることがわかるくらいに。
「もし、茂雄を傷つけるきっかけになったあのときに戻れたら、やりなおせたなら。何度も何度も何度も何度も……これが変なアイドル歌手のくだらない恋愛ソングだったら、ウザいくらい『何度も』が歌詞で続くくらいに繰り返し、何度もそう願った。でも、それが叶ったら、太一の傘に入れてもらうことはなかったんだよね。いまでも茂雄には悪いと思ってる。後悔しかない。だけれど、別れたおかげで太一と……なんて絶対に言えないし、言っちゃいけない。こんなことは結果論でしかない。それはわかってる。でも、でもだよ! 太一の傘に入れてもらうためには、あたしがずぶぬれになる必要があったし、それは茂雄と別れないと訪れなかった出来事。沙織の言ったことに近いかもしれないけど、起きたこと自体を肯定はしなくとも、そこからつながっていくことで生まれる……幸せとまで言ったら怒られるけど、〈いいこと〉はあると思うし、あたしたちがそういうところへつないでいかなきゃいけない気がするの。もちろん、ある事件が発端となって、さらにひどいことが起きて、悲しい思いをする人がたくさん出てくる可能性だってあるわけだから、本当に結果論でしかないんだけど……なに言ってんだろ、あたし。人が殺されることと別れ話なんて、比べることじゃないのに。しかも、茂雄との件は、あたしが全面的に悪いんだから、こんな偉そうなこと言えた立場でもないのに……うん、ちょっと、考えがまとまってないよね。バカでごめんなさい」
加奈はうつむく姿勢になり、視線を床に落として、微動だにしなくなる。
太一は加奈の手を握ろうとしたが、躊躇したのち、自分の手を彼女の肩の上まで掲げて、舞い落ちる葉っぱのようにふわりと優しく置いた。そして、口を開く。
「加奈、ありがとな」
またも訪れる静寂。だが、今度はセミのノイズは止まらず、言葉を失っているのは人間様だけ。その人間様より先に口を開いたのは機械だった。
「わっ。びっくりした」
亮介が細身の体をねじって驚く。教壇の上に置かれた穣治のスマートフォンがブブブと震えだしたのだ。その振動は、教壇を通して教室全体に広がっていくように思えるほど、生徒たちには大きく感じられた。
「残り十分を知らせるタイマーだ」穣治が言う。「沙織と加奈は、心のうちまでさらけ出してくれた。こういうことは精神に負荷をかけるから、おいそれとこんなことは言えないが、いい話を聞かせてくれてありがとうと言いたい。太一――」
「ん、なに?」
「お前は最初に言ったよな、事件のあった日に戻って、とにかく止めると。その考えはいまも変わらないか?」
太一は手のひらを自分の頬に当てて、しばし考えこむ。
「うーん、正直よくわからなくなってきた。ひでえ事件だけど、起こるべくして起きたんだとしたら……」
「あのさ――」 亮介が手をあげた。「今日、集まって話してるのは、〈もしも〉の話で、過去に戻れたらってことだよね? 僕ははじめに、元を断たないととか言ってたけどさ、みんなの話を聞いてて、やっぱり、目の前で止められる悲劇があれば、それを止めるべき、それしかないんじゃないかと思うんだ。沙織や加奈の考えを否定する気はないけど、確実に一人の命を救えるなら、それをやらない理由はないよ。人が一人亡くなってる事件なんだから。必然とか、未来とか、考えることも大事だけど、一人の人間の命がないがしろにされてるみたいで、なんかちょっと気分が悪かった。ごめん、こんなこと言って」
「そんなことない」
沙織がハンカチをきれいに畳みながら話しだす。
「亮介の言ってることは正しいよ。目の前で困ってる人がいたら、当たり前のようにハンカチを渡せる、それができないアンポンタンが能書き垂れても意味ないし。わたしもハンカチを渡せる人になりたい」
そう言って、沙織は折り目正しい四角形のハンカチを両手でしっかりと持ち、亮介に返した。
「よし、そろそろ時間だな。みんな自分の意見を言ってくれて礼を言う。『ワイドナショー』や『朝まで生テレビ』より、はるかに実りある内容だった。すばらしい」
「結局、宙ぶらりんで終わっちゃった気がするけど」と加奈。
「それでいい。安易な結論にもっていこうとすることは危険だ。人の命がかかわる話を、決められた短い時間で総括なんてできるわけない。おれから言わせれば、結論が出ないことが健全な着地だよ」
またもスマートフォンが震える。議論終了の合図。穣治は椅子から立ちあがって教壇へ近づく。そして、ビデオカメラを止めようとした――が、沙織が「待って」と待ったをかけた。
「なんだ?」
「まだ、穣治の答えを聞いてない」
(④へ続く)