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 五霞沢三鈴と出会った日のことを、しかし僕は思い出すことが出来ない。彼女曰く、それは入学式当日だと言うが、僕の記憶の限りでは、それは高校二年生の冬休みが開けた直後だった。



 たった数センチの積雪でも都会では大変な騒ぎになる。今月に入り十数回目の電車の遅延となるが、毎回のようにソーシャルメディアは混乱を呼びかけ、ユーザーはストレスを発散する為に鉄道会社と季節に対しての文句を書き込む。
 社会人でもない僕がいくら待たされたところで特に損益が発生するわけではないが、今日は異例である。姉から日用品の買い出しを仰せつかったのだ。定期券の範囲にあるスーパーではトイレットペーパーが六個一セット二百円という破格値を設定している。厄介なのはそれがタイムセール中での値段ということで、残り時間は一時間。在庫切れを考慮すると実質的にはもう手遅れも同然である。
 姉への言い訳が欲しいのもあったが、一縷の望みに賭けてみようと、徒歩で向かう事にした。
 僕の家は商業地区に属していないので電車以外の手段を利用したことがない。自転車で行ける距離には別のスーパーもあるのだが、そこは所謂『上流スーパー』で、『無農薬』や『オーガニック』等を売り文句にしている。つまり値段が高い。育ち盛りの僕と、育ち切っても良く食べる姉がいる我が家がその店舗を利用すればあっという間に家計は大火事になってしまう。
 地図アプリを使用しながらの道順となるのだが、なかなかどうして、雪景色の中を歩くのも悪くない。帰宅時間帯だと言うのに殆ど通行人がおらず、道のど真ん中を新雪を踏みながらスニーカーで闊歩することへの若干の楽しさと自分の稚拙さを想いながら、僕は無事に商店街の入り口へと辿り着いた。
 最寄駅から向かうといつもとは反対側の入り口からになり、商店街の中にある行きつけのスーパー以外の店、ちょっとした小道には立ち入った事がなく、時計を見ればもうとっくにタイムセールは終わっているので、少し散策をしてから帰ろうと決めた。
 姉からは小言を言われるだろうが、それは甘んじて受け入れよう。
 交通の便が悪いせいか商店街にもさほど人は居らず、呼び込みの声も聞こえない。しかしネオンやライトアップされた数様々な店が立ち並んでいて、大袈裟かもしれないが、まるで別世界のようだった。
 そんなちょっぴり幻想的な風景を楽しんでいると、叫び声が聞こえた。微かにだが、確かに金切り声のような音が僕の左耳に入って来た。
 反射的に見た先の、店と店の間を抜けた先にある道路、そこには後部ドアの空いたハイエースと、数人の男と、その場に尻もちをついている制服姿の女の子の姿が見られ、体は反射的に動いた。
 僕はもっと慎重になるべきだった。軽薄な正義感に急かされてしまった。
 現場に着くと、その光景は僕がしていた数々の想像とも違う惨状が待ち受けていた。
 運転席から顔を出している男はただ窓越しに自分の、恐らくは仲間であろう男を見ていた。後部座席に残っている男もまた、同じ人物を見ていた。三者共が似たようなジャージを着ていて、しかし、彼だけは例外。異常と言っても良い。
 彼には前腕から先が無かったのである。どうやらついさっき『そう』なったようで、長袖は乱暴に裂かれたように破け、粘度のある血液が伝って、彼の靴とその周囲はみるみる真っ赤になっていく。付近には赤黒い細かな肉片が湯気を立てていて、僕の目は見なくても良いようなものばかりを追っていた。更に異臭――錆びた鉄板を鑢に擦り付けたような、鉄粉が舞っているような、今までに嗅いだことも無い、鼻の奥を痺れさせるような臭い。
 それらと未知の何かに対する圧倒的な恐怖から、僕は口元を密閉するように手で塞いだ。
 男の、静寂の中に聞こえる奥歯が高速で噛み合い鳴る音が止み、大きい吸気音がすると、次は叫び声になった。怒鳴り声とも聞き違う、絶叫。痛みと、それ以上の自分に起きたことに対する阿鼻叫喚の声。
 後部座席に残っている男が共鳴するように身を竦ませ狼狽し、それから目線を少し奥にやった。釣られて僕も同じ方向を見れば、その女の子は魂が抜け切ったようにただ腕の無い男の方を見ていた。壊れたように「ごめんなさい」と何度も何度も何度も、狂ったように呟き続ける彼女。
 取り留めのない、掴み所が無い状況に僕はただ立ち尽くしていた。立っているのが精一杯。声を押し殺すのが精一杯。次に何か起これば。きっかけさえあれば――。
「これ何とかしてくれ!」
 患部を押えながら僕に助けを乞うその涙と鼻水と汗が混じった顔は地面よりも白く、外気温のせいでないことは明らかだった。
 これがきっかけ。
 顎が震える感覚。息を荒くしても、冷静にはなれない。
 目の前の大きすぎる現実は僕の思考をレールから突き飛ばしてしまった。
 走った。
 走って走って走り続けた。
 雪に足を取られることもなく、縁石に躓くこともなく
 後から鮮明になった記憶では、僕は少なくとも五分、体力が尽きるまで走り、今は何処かもわからないコインパーキングの精算機の後ろに蹲っていた。これ以上の視覚的情報を脳に入れたくないが為に精算機の黄色い塗装を穴が空くほど凝視していた。
 しかしどうしても、連想してしまう。想起してしまう。塗装が剥がれ中の錆びた金属の部分が、どうしてもあの細切れになった肉の欠片を思い出させるのだ。
 現実だろうか。さっきのは夢だろうか。
 言うまでもなく、あれは事実で本能的な現実逃避では補えない、直視できないものだったから僕は逃げ出した。映画ならあんな時には恐怖の悲鳴と共に地面にへたり込むものだろうがしかし、実際にはそうもいかない。脳の奥に置きっぱなしにされていた本能はあまりに暴力性の含まれた場所に居座ることを拒否した。
 僕が見たものは何だったのか――それはもうどうでもよく、考えるのは放棄している。考えようとしても脳が正常に動いてくれないのだ。
 それよりもあの人は、あの僕と同学年くらいの女の子は、いったいどうなったのだろうか。
 逃げ出してしまった。自分はもしかしたら他人よりも良い奴なのかもしれないと、ずっと勘違いしていた。 以前、ニュースで見たドライブレコーダーの映像。前の車に自転車が衝突しただけの、よくある事故映像だったが、僕はその場に居ながら何もしない通行人を憂いた。「何で?助ければ良いのに」と、そう見下していた。
 僕には他人を軽蔑する資格も無い。何もしないどころか、兎の如く逃げたのだから。
 そんな願いも束の間、違和感を覚えたのは自分の左手。
 何かが違う。いつもとはどこかおかしい。感覚が、そう呼びかけたのだ。しかし、僕の左手は普段と何ら変わりなく、強いて言うなれば季節外れの汗が滲んでいるという事くらいだった。手自体には、何の問題も無かった。僕の脳味噌が一瞬麻痺したのは、僕の手が別の誰かの手を強く握り締めていたからだ。
 その先にあった、この華奢で繊細な手首の持ち主、僕と同じように汗だくで、頭から水を被ったようだった。
 ――何で、ここにいる?
 暫く僕達は顔を合わせていたが、先に口を開いたのは彼女。
「ありがとう」
 喉につっかえたものを吐き出すように言った。
 五霞沢三鈴との初対面、後に分かるのだが、どうやら彼女に言わせてみればこの日が最初ではないとのことだったが、僕は覚えていない。
 血生臭い酸鼻な現場からの逃走劇が、僕達の最初の共通点――いや、共通点という言い方をするならば、それは他にもある。
 ともかく、僕と五霞沢はそれから二時間後、揃って僕の部屋に居た。



 僕の家はこの辺りでは大きい方だ。
 外観は分かりやすい日本家屋で、所々にガタはきているが、それを踏まえても十分に立派だろう。両隣も向井も、ここ一帯では珍しい家なのでよく目立つ。何回もリフォームを繰り返し、中身は一般的な住宅と何も変わりはしないが、四人家族にとっては広すぎるくらいなので、もう一人増えても特に問題は無いだろうと思っていた。
「お茶、ありがとう」
「いや、いいよ」
 非情に狭く感じる。それは彼女の体格云々の問題ではなく、むしろ彼女は小柄な方だ。
「あ、飛田美月です」
「え、何が?」
「一応、自己紹介を」
「ああ、五霞沢三鈴です。よろしくお願いします」
「よろしく・・・お願いします」
 一体何をお願いし合ったのだろうか。僕達は。
「さっきの、あれ、訊いても大丈夫?」
「いいけど、多分信じないと思うけど。それでも聞きたい?」
「一応、聞かせて」
「念力」
「・・・へえ」
 さらりと、まるでコピー用紙が滑るように、しかし僕が二度と聞き返さないようにはっきりと教えてくれたその答えは当然、素では信じることのできない事だったがしかし、あの悪夢のような現場を見てしまえば嫌でも納得する。
 しかし、念力というのはもっと、こう、物を動かしたり、浮かせたり、そのようなものだと思っていたが、それは映画の見過ぎだろう。人体もモノとして捉える場合もあるし、物理で話すならばモノでしかない。タンパクやカリウム等を含んだ――ただのモノ。
「もっと焦るかと思ってたけど、そうでもないのね」
「いや、僕は今、多分だけどかなり焦ってるよ。少なくとも自分の気持ちがよく分からない程度には焦ってる」
 そう言いながら僕の出したお茶を飲む彼女を相当に冷静だとは思うが。つい十分前のあの茫然具合は何処へ行ったのだ。
「五霞沢さんも、だいぶ落ち着いて見えるけど」
「・・・このお茶の味、分かってないわ、私」
「それドクダミ茶」
「いたずら?」
「姉の趣味で、さっきまで忘れてた」
「そう、でもありがとう」
「いえいえ」
 それから、彼女がお茶を飲み切り、僕がずっと手に持っていることを忘れていた鞄を勉強机に置いた時まで、全くの沈黙が続いていたが、それに耐えられなくなったのか、それとも本当に気にしているのか、彼女は言った。
「あの人、大丈夫だと思う?」
「・・・五霞沢さん、襲われてたよね?」
「でも、もし出血が多すぎて死んでたらって、気にするのは当然よ」
 PTSDに悩む兵士がいるくらいなのだから、彼女の言う通りそれは当然なのだろう。性犯罪者に対する世間の風当たりは強く、今の量刑では足りないとの意見は珍しくも無いが、では自分が私刑の許可を出され実行を強要されたとしたら、誰があそこまでの刑を実行できるだろうか。そもそも彼女だって、あの反応を考えれば本望ではなかったことは明らかだ。
『どうやったか』を聞く蛮勇は無いが、だからこそ色々想像してしまう。
「大丈夫だと思う。車もあったし、あの道をそのままずっと行けば病院もある。だからきっと、死んでないよ」
 彼女はしばらく自分の指を眺めてから、
「そう」
 と消えるように言った。
 それが単純な安堵からのものではないことは明白だったが、それ以上のフォローは全てが軽慮浅謀なものになる気がして憚れた。僕達は、特に彼女は今、見た目以上に不安定で、脆いのだ。
 だから――。
 下の階からは軽快で規則的な電子音が鳴った。よく耳に馴染んだ、乾燥機の音である。
「じゃあ、もう帰るわね。お邪魔しました。お茶、美味しかったです」
「うん。じゃあ・・・」
「見送りは結構よ。家の前にタクシー呼ばせてもらったけど、良かった?」
「大丈夫」
 何もしない。刺激物はこれ以上、必要ない。一刻も早く日常に戻ることが先決だと、そう思った。今、目の前にある数々の問題は決して今すぐに片付けなければいけないものではないし、更に言えば向かい合う必要すら無い。
 彼女は部屋を出る直前、立ち止まり、振り返って言った。
「あれ、事故だから。怖くて、混乱して、ああなっちゃっただけ」
 あの男の腕を吹っ飛ばしたことへの弁明だったのは明らかだが、その時の僕は、何せいきなり彼女が話した為に、「え?」と訊き直してしまった。
「あの人の腕を吹き飛ばしてしまったのは事故。普段はあまり人と関わるのを避けるようにしてるわ。だから・・・そういうこと。だからもし――」
「分かってる。大丈夫」
 彼女が当時の心情を深く話し出す前に切り上げたかったので、食い気味にそう答えた。本当のところ、僕は何も分かっちゃいないのに。
 数分後にタクシーの到着、ドアの開閉する音が聞こえたが、僕は本当に見送ることも、窓からそれを見届けることもなかった。ただ、机に向かい、ノートを開いて、何もしなかった。
 きっと彼女はこの先、これからの人生、今日を思い出し続ける。事あるごとに、フラッシュバックするだろう記憶、細かな過程が嫌というほど――考えたくない。
 手立てがないわけではない。ただ、必要なのはその動機。誰かが動機付けをしてくれたらなんて甘えは捨てるべきだ。それは僕が過去から学んだ教訓の一つ。
 話は少し逸れるが、僕は悩みの重さから一時的、あるいは完全に解放される方法を一つだけ知っている。
「書こう」
 それは現在の僕が気掛かりになっている。『ちょっとした悩み』から『苦悩』まで、そして『気掛かりな事』、つまりは頭の中で『?』が付く物事を全て書き出すことである。
 場所を移動させるのだ。頭から、ノートへ。
 思考から、文字へ。
 これは単純作業なので十分もあれば良い。
 そして十分後、僕の頭の中は次の日の七時まで爆睡できる程度には快適になった。
 


「おはよう」
「もう下校時間だけど?あなた何してるの?」
「『それ』、治せるんだけど、一緒に行かない?」
「何か、二日前より話すのが下手になってる気がするわ。記憶違いじゃなければ、あなたは相当なポーカーフェイスの持ち主だったはずよ」
「ごめん、間違えた」
「じゃあ改めて」
「はい、改めて。・・・僕の知り合いに特殊能力に詳しい人がいて、その人は能力者絡みの事故を専門に扱う、言わば警察みたいな組織の構成員なんだ。実は僕は依然その人にお世話になった事があって、それ以降も個人的なお付き合いをさせてもらってるんだけど、その人に相談したら「じゃあ一回連れてきなよ」ってなもんで、今日の放課後に約束をしておいたから、僕と一緒にその人の所まで行って欲しいんだ。できれば前もって五霞沢さんに予定の都合とか訊こうとも考えたんだけど、僕達は連絡先を交換していなかったからそれができなかったから、いやあ、大変急で本当に申し訳ないとは思ったんだけど、できれば了承して欲しいな」
 分かりやすいかは置いておいて、詳細に説明することはできただろう。
「長い」
 当然である。
「ちょっと待って、あなた・・・「お世話になった」って言った?」
「うん、言った」
 彼女は何かに納得したかのような表情を浮かべたが、おそらくそれは見当違いだ。
「でも、よく忘れる。一日を自分が普通の、ごく一般的な高校二年生の男子だと無意識に思いながら終えることがよくある。流石にあの日は違ったけど」
「ああ、そう。でも、忘れられる日もあるのね」
「ある」
「名前は?」
「渡光。僕は渡さんって呼んでる」
「そう、その渡さんなら、私の『これ』もなんとかなるかしら?」
「僕はなった」
「そっか」
 ――忘れられるんだ。
 出会ってから四日目、顔を合わせたのはこれで二回目となるが、僕は五霞沢の温かみのある顔を初めて見る。
 彼女はこんな風に微笑むのだ。
 本心からかは分からないが。
 しかしすぐに見慣れた方のやや威圧的な態度に戻り、
「じゃあ、連れて行ってもらえるかしら」
 と言った。
 しかし数歩歩いたところで彼女は背後から僕の肩を掴んだ。
「警察みたいな、とも言った?」
「あー、言ったね」
 うっかりしていた。それではまるで彼女が取り締まられる対象のような危機感を覚えるに決まっているのに。失敗した。
「やっぱり行かない。最初に「治る」って言われたから、何だか楽観的になっていたわ」
 そう言い残し踵を返す彼女を僕は言葉で止めた。
「初めてじゃないだろ」
 回りに他の生徒や教職員がいなくて幸運だ。こんな奇妙な会話をもし誰かに聞かれていた明日から登校できなくなってしまう。なので早急に彼女を、彼女自身の意思で目的地に出向かせなければいけない。強引には無理だ。
 僕は彼女が言ったところの『事故』を、その表現が、言い方が、正しくないと思っていた。事故だと言うなら、それはあの男達が起こしたのが事故だと考えたからだ。それと知らずに爆弾に刺激を与えたようなものだと、だから彼女は何もしていない、ただの一方的な被害者なのだと、そう思っていた。
 しかし違う。
「五霞沢さんが中学一年生の年の四月二十日から二日前まで、少なくとも十四件」
――来る。
 僕は右手を素早く下げた――しかし、
「いっっ―――――!」
 人差し指から小指までが完全に折れ曲がっていた。四本の指が直角に地面に向かっているまだ無事な左手で口を押えたが、このままでは追撃がくる。彼女の。
「今、避けた?」
「ああ、避けた。本当は、完璧に避けるはずだったんだけどな」
「本当は肘から折るつもりだったのに」
 彼女のあれは事故じゃない、
「過剰正当防衛も大概にしろよ、お前」
 ただやり過ぎてしまっただけ。
「本当はね、私、最初からあなたに着いて行くつもりはなかったの。途中で事故に見せかけてあなたと車を衝突させれば良いかなって、そう考えてたわ。でも校門の外で真っ黒なセルシオが待機しているかもしれないから、さあ、本当のこと言いなさい」
「何て怖い事言うんだ、お前。そんなことしてねえよ。でも、そうだよな、その念力がお前を守ってくれたただ一つの武器だもんな。でもな、別に――あぶなっ!」
 ジャンプした。蛙のようで格好悪かったが、それでも地面が一瞬で抉れてしまうほどの攻撃を躱せたのだから万々歳だろう。
 着地の衝撃は、折れた指によく響いた。
「それどうやってるの?」
「ついてきたら教えてやる。まずは僕の話を聞け」
「嫌よ」
「その気になればいつだって逃げ出せるだろう。僕が嘘をついてたら、その時は遠慮なく――あぶねえ!」
 腹部を引っ込めたと同時に、見えない空気の塊がボタンを粉々にした。吹き飛ばすわけでもなく、千切り取るでもなく、金属製のボタンが砂の様に風に乗って消えたのだ。
 これは――強すぎる。
「じゃあその人をここに連れてこれば良かったじゃないの」
「い、忙しいんだよ。あの人」
 目の前にモザイクがかかったのかと思ったが、それは砂の幕だった。
 何て、恐ろしい。
 歪な砂のカーテンは風を切りながら僕がコンマ数秒前まで踏んでいた場所を高速で通過し、僕は避けたと思ったが、鈍い痛みが自分の失態を教えてくれる。
 目をやると、脛部分のズボンの一部が切り取られたように無くなっていて、肌には無数の穴が空いているようで、滲み出る血液によってそれは確認できた。
「私、今の生活を守りたいのよ。だから降参して」
「無理だ。もう予定を立てたからな。言う通りにすればお前は今の――」
 刹那――僕は今年一番の恐怖を覚え、思わず我を忘れた。というのが現代で通じる言い訳になるかどうか、ともかく、僕は『それ』が起こる前に無事な左手で素早く彼女の後頭部を押え、同時に――唇を合わせた。
 つまりはキスをした。接吻とも言う。
 おそらくはたった数秒の出来事だったが、僕からすれば、大袈裟に言えば五時間に感じられた。
 思惑通り、顔を話して確認すると彼女は文字通り真っ白になっていて、
「今、何をしたの?」
 と空を見ながら言った。
「お前、首折ろうとしたろ。文字通り僕は命が掛かっていたんだ。唇を奪われたくらいで、なあ・・・泣くなよ」
 ぽたりぽたりと地面を濡らす純情がそのまま液体になったような彼女の涙は意外なほどに僕の心を締め付けた。もしかして、考えたくはないが、初だろうか。いや、それでも僕は確実に自分の首が折れるのを確認したし、そこまでリミッターが外れた彼女の殺意を防ぐ為の一か八かのギャンブルとしては、本気で殴るか予想外の精神喪失を促すような抵抗をせざるを得なかったわけだ。
 だから僕は悪くない。
 そう思いたい。
「折ろうなんて、考えてなかった。ほんの少し、捻る程度に・・・」
「いや、あれは確実に折れていた」
「そんなことないこれはやりすぎよこんなのあんまりじゃないどうしてそこまでひどいことができるのよわたしはそんなわるいことしたとあなたはっきりとだんげんできるの」
「それが問題なんだよ五霞沢。お前は、特に去年から、力を完全には制御できていないだろう?」
「・・・・・・」
「つい先日の、あれだって、お前は腕を折ってやろうとか、その程度だったんだろうが、結果はお前が一番よく知ってるだろ。今のうちに矯正しないと、日常生活もままならなくなる」
「だから、あれは事故よ」
「事故じゃない。お前は自分の力量とその使い方を把握するべきだ」
「違う。あなたは間違ってる」
 彼女はいつの間にかハンカチで目を覆っているのでこれ以上の追撃はないだろうが、振り出しに戻っただけだ。しかし、こうする方が早かったかもしれないなと、僕は少し後悔した。
 リュックサックからボールペンを取り出し、地面に挿す。その一連の行動を、彼女はハンカチの隙間からこっそり見ていた。
「キャップだけ取り外してみろ」
「取り外す?」
「それができたら、もうお前に関わらない。約束する。僕の首に誓って」
「・・・分かった」
 それから彼女は息を整えて、しゃがみ込み、じっとそのボールペンを見つめた。
 その数秒後にキャップは浮き上がった――だが、中身付きだった。
 垂れるインク。茫然とする五霞沢。少し笑みを浮かべる僕。
「ほら、なんてことだ。キャップを含めた先端部分を千切ってるじゃないか。どう見たって制御できてない」
「違う、今のは、もう一回やらせて」
「何度やっても同じだよ」
「そんな訳ない」
「いや、ある。お前だって、本当は知っているはずだ。四年前、お前は自転車に撥ねられそうになり力を使った。その結果、相手は脳挫傷を負い長時間の手術が必要になっただろ」
「あれは、驚いて・・・」
「翌年、目の前で車に轢かれそうになった猫を助けるために、車を浮かせたよな、その結果、運転手は着地の衝撃でハンドルに顔を強打し、失神。車は電柱に突っ込んだ」
「・・・・・・」
「こんな美談じゃない、もっとしょうもないのもあるぞ。中学三年生の時、夜中にフードを目深に被って近所の自販機を滅茶苦茶に壊したよな。受験のストレスか?でもこれは被害者がいない『珍しい方』だ。合計で十三人、お前が原因で怪我人が出ている。死人がいないのが奇跡だ。お前の主張通りなら、お前は敢えて他人を無闇矢鱈と――」
「分かってるわ」
 彼女は遮るようにそう言った。脱力し切った彼女は地面を指でなぞりながら続けた。
「そうね、それまではコップを動かす程度に収めていたんだけど、自分が計り知れない程の力を持ってると知ってから――私は限度を知らなくなった。最初は思いもしなかったのよ。車を浮かせたり、物を壊したり、人を傷つけたり。いつの間にか『弱い力』を出すのが難しくなっていて、そうよ、日常生活でもたまに暴発しちゃうわ。制御しようとしても、脳が覚えちゃってるんですもの。癖になっているわ。もうね、どうしようもないのよ」
 まだ足りない。これだけじゃ、ただ自覚させただけ、自信を喪失させただけ。それだけでは弱い。
 他の手段は思いつかなかった。これ以外は。
「僕の・・・知り合いも、五霞沢や僕と同じように、人にはできないことできる人間だった。でも、そいつはある日、今までの人生に無いってくらいの負の感情を抱いたんだ。それで・・・一人が植物状態になった。お前には、そうなって欲しくないんだ。だから」
 ――僕を信じて欲しい。
 折れている指のことなど忘れ、僕は彼女の両頬に手を当て、そう言った。
 本来ならあまり言いたくはなかったが、彼女に現実を見させるのなら、説得材料は事実でなければいけないから嘘はつかなかった。
「私が昔、何をしたか知ってるんでしょう?」
「知ってる。それでもだ。あの日、「人と関わらないようにしてる」って、あれが本当だってことも知ってる。だから、これはチャンスだ」
「私を、助けてくれる?」
「助ける。できる事は全部やる」
「何で?」
「不純な理由だ。僕はもう二度と自分を制御できずに破滅していく人を見たくないだけなんだ。関わってしまった以上、罪悪感を抱きたくない。それだけだ。だから、僕を利用しろ」
「・・・分かった、じゃあ、あなたが罪悪感から逃げられるように、私が協力してあげる。まだ完全には信用していないけど」
 これは一種の病気のようなものだ。自覚症状に乏しく、発見されたころにはもうどうしようもなくなってしまっている厄介な病。彼女の進行はまだ改善の余地があった。あとは本人の意思だけだった。
 自分の指四本と右足の肉を少々にボタンを一つ、過去の暗い記憶、それから女の子の唇を犠牲に、僕は何とかこぎ着けたのだった。
「ありがとう」

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