6
空を飛べる程度じゃどうにもならない。
七風一花の過去も現在も、そして未来も。
それは本人が一番に理解しているだろう。実感し続けてきただろう。
現実は悍ましく、引き離そうが、忘れようが、無視しようが、絡みついて来る。理不尽で、否応なく、突然のよう、当然のように、目の前に現れる。
始末が悪いのは運よく、あるいは奮励努力しても物事が前向きに進むとは限らない点にあるだろう。
それを理解しているから俺達は釈然としない心持で生きることを良しとしている。放っておいた方が都合の良い、確信に触れない方が痛手を負わない事があると分かっているから。
ああ、嫌だ。
最近はスタンド灰皿を撤去するコンビニが多いが、ここはそうでもないらしい。もし俺が喫煙者ならばダウンの内ポケットから煙草を取り出しここで一服して形だけでも平静を取り戻せたのだが、ただの深呼吸で終わった。
煙草は嫌いだ。特に壁に貼りつき染み込んだヤニ臭や喫煙所の近くを通った際に漂う副流煙が大嫌いだ。
一花と出会ってからの俺は彼女の実質的な保護者だ。あの破綻した家から、環境からよくぞ抜け出してくれたと感謝している。
――感謝。安堵でも感心でもなく、彼女の行動に俺はありがたみを感じている。認識したくはないが、自分がエゴイスティックな人物であると分かった今、その罰が当たったのだと納得してしまう。そうでないといけないと、だからハッピーエンドで終わる事などあり得ないのだと――そうであってくれないかなと期待までしてしまう。人のことは言えない。俺も楽な方を選んだのだ。
過去の彼女のように、たった今、諦めた。
しかし、それでいい。正確に言うなら、それでもいい。
いずれこの生活には終わりが来る。計画よりも早かったが、そもそも計画と呼べるほどの代物でもなかったわけだし、当然の結果だ。
しかし、彼女は許してくれるだろう。容認してくれるだろう。世の中にはこんな大人がいるのだと教えてやるいい機会だ。地獄から出た反動で抱いた過剰な世の中への期待を今のうちに破ってしまおう。そうすれば軽傷で済む。重傷は免れる。そう思う事にしよう。
初志貫徹。自己満足感を満たす為に始めたことであり、逸脱することは許されない。
半年間に渡った詰め込み教育は――これにて修了過程に入る。
7
若い頃は気にしていなかったが、どうにも俺くらいになると食べた分がそのまま体に現れるらしい。つまり太るのだ。ここ最近の生活で俺の腹回りには季節外れの薄い浮き輪ができていた。
最近はもっぱら炊事当番を任される。凍るような寒さに手を痛めたのは最初だけ、今では餃子の餡を作る際に野菜の割合を多くするくらいの余裕さえある。そろそろダイエットを開始しなければ、この歳で太ったら永遠に元通りにならない気がする。
例えるなら、中年はプリウスだろう。低燃費でよく動く。
「何してんの?」
「ようF1カー。晩飯の支度だよ」
「誰がF1カーよ。何か手伝う?」
「お前が手伝ったら太る気がするからいいよ」
「なにそれ」
「いくら食べても太らないお前にこの気持ちは分らんよ」
「言っても体重増えたのよ?」
「へえ、全く見えないけどな」
「あ、お姉さんが呼んでるわよ」
「了解」
一花は足早に自室へと戻って行った。こんな極寒の部屋で勉強などできるはずが無いのだ。インフルエンザの予防だと言うが、果たして意味はあるのだろうか。そもそもインフルエンザウイルスと言うのは乾燥している環境で活性化すると、ネットニュースで見た。換気も大切だが保湿も同様に必要な事なのではないか。
人生何があるか分からないが、たとえどんな出来事に遭遇したとて過ぎてしまえばあっという間に思う。気付けば、雪こそ降っていないものの、寒風吹きすさぶ季節となった。ニュースでは連日のように日本で今一番どこが寒いかを話題に取り上げている。視聴者は一日経つと現在が冬だというのを忘れてしまうとでも思っているのだろうか。
最近の俺のトピックは『受験』である。
実は彼女がまだ義務教育の年齢だと発覚してから、彼女が自分の可能性に転機を見出してから、俺も勿論、無知を装っているが他の皆も同じだろう。
うちは高学歴が常識の家庭なので進学に関しては色々と口を出したい者も多いが、どうしても彼女には意見を述べられないのだろう。そこまで踏み込んだことは言えないのだ。
所詮は他人。冷たいようだが踏み込み過ぎても良くないだろう。俺のようになる。
全ての餃子を閉じた後、手を洗って俺は今へと向かった。
「姉ちゃん、何か用?」
「一花ちゃんは?」
「上でお勉強してるよ」
「そう・・・。率直に言うけれど、あの子進学したいみたいだけれど、難しいんじゃない?」
「そうか?過去問の正答率や模試の結果の判定を考えると受かっても全然不思議じゃないけどな」
「違う。そうじゃなくて、学力は申し分ないわ。地頭が良いなんてものじゃない。きっと一花ちゃんなら誠之助のサポート無しでもどんな学校にだって行ける。でも、ほら、他にも問題は山積みだし・・・」
家族とは言え、否、家族だからこそ嫌悪感がより一層激しくなることもある。それは問題提起だけして問題自体への対処は他に丸投げする輩だ。こいつはこんなに神妙そうな顔をしているが、胸の内から出たものではない。役割を演じているだけだ。弟が拾ってきた暗い過去を持つ女の子を一緒に保護する者という、居心地の良さそうな座布団に胡坐をかいているに過ぎない。
「言い過ぎだ。この家に来た時点から既に問題は山のようには積まれていなかったし、それら問題はとっくに解決している。まず進学の費用並びに学費についてだが、俺の貯金を使う。無趣味独身のまま三十歳を迎えたホワイト企業サラリーマンの貯金額は、かなりえぐいぞ。ここでの俺と一花の生活費は殆どクラウドソーシングで賄えているから目立つほど減っていない。次に、進学するには保護者の同意が必要だが、俺がなった。以上だ」
「保護者?」
「養子縁組だよ。書類上、一花は俺の子供だ」
書類仕事は久しぶりで手際が良いとは言えなかったが、それでももう事は完結したのだ。
「そう・・・。知らなかったわ」
「言ってないからな」
訊かれなかったからだ。
「じゃあ・・・、そう、確かに問題は無さそうだけど」
これは同族嫌悪だな。
向こうの親にしたことが発覚したら今度こそ逮捕されてしまうだろうが、その点も抜かりない。
それにしても、まさか自分がここまでするとは――彼女を玄関先で言いくるめた時は、実現しないと思っていた。俺は途中で心変わりして投げ出してしまうのではないかと危惧していたのだ。自分がいつそうなってしまうかとても不安で、常にそんな予感がしていた。自分の性格を考えれば当たり前だ。
理由は既に枯渇している。理屈を並べるのにももう限界が訪れようとしている。
――考えても仕方がないと判断して、俺は台所に戻った。
ここ数ヶ月で生活は一変した。
俺は会社を正式に辞め、今は在宅でもできるようなデータ入力の仕事をしている。仕事とは言ったものの、やりがいも無く報酬はこの地域の最低賃金よりほんの少し高い程度。たまに下回る。当然、以前のようなマンションに住み続けられるはずもなく、実家に住み着いているという訳だ。母親は以前から実家住まいを勧めていたし、だから問題は無いだろうというスタンスで通そうとしたが、そこに一花が加わるとなれば話は別だ。
超能力以外の大まかな事情を簡潔に、つまり親に悪辣極まりない虐待を受けていたと話したらすんなりと容認してくれた。しかも部屋の世話までしてくれるという好待遇だった。
それが最近、崩れかけてきている。
少なくとも姉は彼女を異分子として見るようになりつつある。本人に自覚は無いようだがそれも時間の問題だろう。母親に関してはそうでもないが、そんな性格とも思えないが、しかしそうなった場合の対処もすでに考えているので問題ない。
「誠之助」
思わず振り向くと一花が立っていた。今――何かおかしくなかったか?違和感とも違う。有り体に言ってぞっとした。そんなことは今まで一度だってなかった。そのはずだ。
彼女は隣の部屋に聞こえないように小声で話した。
「私、なんだか最近、あまり言いたくなんだけど、お姉さんからあまり良い印象を持たれていない気がするの」
抜かった。姉の馬鹿野郎。俺がいくら隠したところで他から露見してしまえば意味がない。彼女はいつから気が付いていたのだろう。地頭はかなり良いが、それでも不慣れな勉強に対するストレスが蓄積し、ネガティブに物事を捉える思考になってしまっているのか。
誤魔化しても今更だろう。
「そうだな。俺はここの家族で、お前は他人だ。はっきり言って受け入れられないのが正常なんだよ。まあ何にしても高校に合格すると同時にこの家を離れるわけだし、あと少しの辛抱だ。今は耐えるしかない」
――苦労を掛けて済まない。
恩着せがましくそう言った。彼女がどう思うのかなんて分かっていたのに。
「そっか。そうだね。ごめん、変なこと言って。じゃあ、部屋に戻るわ」
「気にしなくて良い」
「ねえ、本当に手伝うこと無い?」
「当番は俺だ。お前の仕事は勉強に専念することだろ。さあ、戻った戻った」
去り際の彼女の笑顔に違和感を覚えたが、それ以上は考えないことにした。自分が一体何を気にしているかは分からないが、逆に言えばその程度のことなのだろう。
その日の晩飯はいつも通り四人で食卓を囲んだ。
「美味しい。あんた料理上手くなったね」
「野菜を多めに入れたんだよ。母さん、肉そんなに得意じゃないだろ」
特に話すことも無く、最初は気を遣って何かと話を盛り上げようとしていた一花も今ではテレビを観ながら黙々と箸を進めている。
「一花ちゃん、勉強はどう?」
「一応、合格圏内を保ってます」
いつも通りに姉は尋ね、いつも通りに笑って一花は返す。普段ならここで会話は終わるのだが、何かの糸が切れたのか姉は再び口を開いた。
「ねえ一花ちゃん。少ししかないだろうけど、中学校、行ってみない?」
空気が凍った。俺の顔も、一花の顔も。
「確かに、辛いことはあったでしょうけど、経験は必要よ」
無神経な母親に本気で腹を立てたのは反抗期以来だ。彼女が経験させられていたあの日々を、多少の嘘が混じっていたにしても「辛いこと」の一言で済ます、平和ボケした老人のような発言に俺は心の底から嫌悪感を抱いた。
「勉強も上手くいってるんでしょ?面倒な手続きは全部私たちがやるから、どう?」
その「私達」にお前は含まれていないんだろうと、「弟」とイコールなのだろうと、そう言いかけたが腹のうちに収めておくことにした。
「それは止めておいた方が良いだろ」
二人はこちらを素早く見た。母親はただ不思議な顔をしているが、姉はそうでもない。
「もうすぐ卒業だっていうのに、そこに新しく誰かが入っても全体の輪を壊すだけだ。もう少し時期が早ければ、確かにと俺も賛成しただろうけどな。何せあと数ヶ月で卒業、しかも一花のように受験を控えている生徒だって多いんだ。止めておいた方が良い」
それぞれが下を向き、母親が、
「確かにそうね」
と肯定してくれた。全く呆れる。こんなことで覆ってしまう程度の意見だったのか。姉に関してはまだ何か言いたげだが、少し睨んでやると機械のように箸を動かしだした。
少し重い空気が流れたからか母親がおもむろにテレビのリモコンを操作し、バラエティ番組にチャンネルを合わせた。
「この人老けたわねー。前見た時はもっと男前だったのに」
一花の様子がおかしい。飯時は暖房をつけているがさっきつけたばかりなのでどちらかと言えばまだ寒い。それなのに額に汗が滲んでいる。ついさっきまではそんなことなかったのに、やはり遠回しとは言え姉の発言が流石に響いたのだろう。
「一花、別に残しても構わないぞ」
「ああ、そう。じゃあ、ごちそうさま。残してごめんね」
その口調は少し昔を想起させた。
「気にするな」
三人になってからも母親はテレビに食いつき、何かを考えているようだ。――あの俳優を見てるのか。
「その人、誰だっけ?」
「うーん、思い出せない。昔のドラマに出てたと思うんだけど。・・・あ!そうそう!この人昔やらかして暫く活動自粛してたのよ!」
「あ、俺もそれ覚えてるよ」
あの時は耳にタコができるくらい報道されていたな。他にも映すものがあるだろうとテレビに向かって文句を言っていた。
一花はこのドラマを知っているのだろうか。正直言って、テレビに関する話題を彼女の前では出しずらい――何も言わない方が得策だろうな。
そう、自分を言いくるめることにした。
結局、この決定はすぐに覆されることになるのだが。
9
確か俺が大学生の頃だったか、流行ったドラマがあった。名前は憶えていないが丁度今の時間帯、晩飯時に放送されていた。予想以上の反響を呼んだ為、シーズン2の見当もされていたみたいだが主演を務めた若手女優の不祥事が原因で敢えなく霧散した。確か共演者との不倫だったか・・・清楚系で売っていたためにどの放送局も連日取り上げた。
天真爛漫な女子高校生の役が世間に浸透していたからか、一度落ちた人気は戻らず、おそらくもう引退いたのだろう。
ドラマというものをあまり観ないで過ごしてきた俺ですら何年かに一度は不意に思い出すのだから、当時のファンの心理状態は正に地獄だっただろう。
思い出したのはニュースで取り上げられていた、そのドラマの映像。
嫌な予感がした。そして俺はその予感を気のせいだと撥ねることが出来なかった。スーパーからの帰路、俺はコンビニの駐車場に車を停め、動画サイトで記憶と合致する動画を見つけた。『バロックのカノン~主演・生田祥子~』。
生田祥子。そんな名前だったのか。あの女優。なぜ残っていたのか。ネットリテラシーだのデジタルタトゥーだの喧しい奴らは一体何をしているか。
自分の手足に留まらず全身に鳥肌が立っているのは確認するまでもなかった。嫌な予感は昇華し現実となった。こんな時に遭遇する現実は大抵、不快感極まりない不愉快なものだ。
一花が俺や俺の家族と話す際の身振り手振り、表情筋の動き方、若干の甘えたな性格でさえも――画面の中の生田祥子にそっくりだった。
もっと早くに気付くべきだった。八年間、誰とも接することなく、誰とも話すことなく、音無しのテレビだけが情報源の生活を送って来た子供がどう成長するのかなんて予想できるはずがない。しかし、予想はできなくとも答えはずっと目の前にあったのだ。
分かりやすいのが半年前のあの玄関での出来事だ。あの時は自分に酔っていて特に違和感を抱くことも無かった。流石に切り替えが早すぎるだろう。あんな口だけの約束に数十秒悩んだだけでほいほい乗るなんて常軌を逸しているではないか。言わずもがなあの時の彼女は常軌を逸していた。しかし俺は「自暴自棄」だと決めつけ、他の要素をまるで考えていなかった。
一花を両手で受け止めた時点から、彼女は役に入り演じ続けてきたのだ。
彼女は自分というものをまるで持っていない。『立派な大人』を演じたがっていた俺と同様、一花は『前向きに生きようとする子供』を演じていた。今日まで誰にも気づかれることなく、『自分』を見せることなく、画面の中に見た自分の理想を真似して、従順に役に徹してきた。
他人を騙し、時には自分だって騙してきたのだろう。
面白い話をしようとして、どこかで聞いた話を自分のものとして盗用したり、誰かが言った言葉をさも自分で考えたかのように口に出したり――そんなことはいくらでもある。俺にも経験が無いわけではない。俺はそうした時に罪悪感やそれら嘘が発覚してしまうのではないかと懸念するが、俺と出会ってから嘘をつき続けている彼女はどうなのだろう。
――計り知れない。
そして踏み込むべきでもない。嘘を暴いて、それからどうしろと言うのだ。だた気まずくなって終わり。そっとしておいてやろう。いつか普通の生活に慣れたら、きっと、まともな人間になる。そもそも十代で自立した自我を持てと言う方が酷なのだ。
そんな風に看過できたのは、夏までだ。そろそろ時期が迫ってきている。
10
一花の祖父母が他界してから放置気味だった一戸建てをほぼ自力でリフォームしたらしい。
市の職員を騙り家に入ってから丁寧に自己紹介すると向こうは急に早口であれこれとよく分からないことを言い始めたので強引に黙らせ、結束バンドで拘束した。映画の真似事が上手くいったのは少し意外だったが、家を探索した結果に比べれば気に留める程でもなかった。
事実だけを上げるならば、一花が幼少期からずっと吸収していた情報。その発信源であるテレビだが、両親が隣の部屋から線を引いて録画し、編集を施した映像を流していたのだ。それによって二年というブランクが生まれ、彼女は自分の年齢を勘違いしていた。
次に、彼女の部屋にあったもの。トイレとテレビの他にもう一つ――剃刀である。よく市販されている四枚刃のものだ。その横には替えの刃が置いてあった。
そして、その隣の部屋には大量のDVDと、再生するためのデバイス。線を辿るとやはり監禁部屋に続いていた。
問題は――その内容だ。
全てをチェックしたが、どれもこれもが時間の流れを想起させるものや楽し気なイベントばかり。喋らせた内容によれば、ドラマや季節の行事ごとなどをメインで流していたようだ。
両親は少し力を使えば溢れたように話し出した。その内容は俺の想定通りで、一番回避してほしかった選択肢だった。
彼らは娘が自殺するのを待っていたのだ。
自分が社会から取り残されていく感情と無味乾燥な生活、愉快な外界は一生望めないのだという事実に耐えきれず、手首を切ってくれるのを待っていた。
どうしてそんな回りくどい事を何年もし続けたのかは聞かなくても分かる。責任感を味わいたくなかったのだ。世間に自分たちの子供が化物だと世間に露見されたくない。誰にも見せたくない。消えて欲しい。しかし直接手を下すのは嫌だ。だから、娘自身の意思で行動するのを待った。
もっと手っ取り早い方法があるだろうと思ったが、人を、しかも子供に殺意を覚える親の気持ちなんて分かるはずもない。
母親に関しては相当に老け込み、相当の心労があったと想像できる。母親によれば初めて空を飛んだのはまだ一花が首も座っていない頃だと言う。ただの田舎の気弱な夫婦には耐えきれなかったのだろう。その頃から、二人は正常な思考が出来なくなっていた。
だから何だと言うのだ。あの子は『ただ飛べるだけ』だ。他に何の特徴も無い、ただの少女だ。
言ってしまえば二人は最初から、一花が生まれてくる前からどこかが壊れていたのだろう。
次は彼女の嘘について考えてみよう。
一花は「毎日ご飯を作ってくれた」と言っていたが、それだけではない。父親は知らなかったようだが母親は週に一回、濡れタオルも一緒に差し入れていたようだ。
微かに残っていた親心か、それとも他の意地汚い感情か、まあどちらにせよ、この計画を引っ張っていたのは父親のようだ。
そして、父親は一花を殺そうとしていない。ある日、つまり俺と彼女が出会った日の朝、母親が言ったそうだ。「あの子がご飯を食べていない」と。父親が開けると、一花は横たわっていたそうだ。そして近づき――。
何が起こったのかすぐには分からなかったらしい。立ちすくむ母親を部屋に引き入れ、一花は鍵を閉めた。
小一時間ほど経過して扉が開いた後、シャンプーの香りを漂わせた一花は二人を一瞥して、サンダルと父親の財布を持ちベランダから出て行った。
――らしい。
どちらも、一花の主張も両親の主張も、どちらもあり得る。どちらにしたって被害者は一花であり、ここが法廷ならば彼女は無罪放免だろう。もちろん、俺が両親の側に立つことは間違ってもあり得ないが、それでも多少の心境の変化は否めない。
俺はただ驚いていた。彼女が計画をもってして脱出したという事実が嘘であって欲しいと願った。
聞かなくても良かった話を聞いた俺は面倒な書類仕事の為に必要な署名と保険証、一応のものとして実印を貰い、それからマンションへと戻った。今日は忘れた荷物を取る用事があると言って来たので、それを嘘にしない為に特に必要のないものを取りに行かなくてはいけないのだ。
11
「どうだった」
「うーん、まだ実感できてないかも」
――でも、とても嬉しい。
まさかこの人生で助手席に女子高校生を乗せることになるとは思わなかった。
入学式の帰り道、晴れて高校生となった一花を乗せて帰宅する。家にはちらし寿司やケーキが用意されていて、思い出話に花を咲かせ、家族総出で一花の進学を祝う。
そのように彼女には伝えてある。
「ねえねえ、明日よね。内見」
「そうだ。連日で申し訳ないが早起きしてもらうぞ」
「任せて。自分で起きてみたいわ」
学校に近い家に引っ越した方が良いとの判断から、進学を機に引っ越しをする。これは前から決まっていた。俺と一花の二人で住むから彼女も同伴する。
彼女にはそう教えた。
彼女の顔色が怪しくなったのは車が家がある方向の真反対に向かっていると気が付いてからだった。もっと誤魔化せると思ったが、察しが良いらしい。
思っていたよりも。
「買い出しを頼まれたの?」
「いや、俺は誰からも何も頼まれていない」
「へえ・・・。あ、病院か。お母様、私の制服姿見たがってたから」
「病院にも向かっていない。母さんは二日前に死んだ。そしてお前は葬儀には参加しない」
唖然とする彼女はしばらく口を閉じ、そして核心的な質問をした。
「どこに向かってるの?」
「目が笑ってないぞ。怖がるか馬鹿な振りを続けるか、どっちかにしろ」
「え、なに。誠之助、おかしくなったの?」
俺がその質問に答えることはなく、車は中流家庭が好みそうな家の前で止まった。
「ちょっと待ってろ」
鞄から携帯電話を取り出し、発信履歴の一番上にある番号をタップした。相手方は待ちかねていたようにワンコールで出た。
「もしもし。はい。今家の前に止まっています」
玄関を開けたのは穏やかそうな中年夫婦で、俺達に向かって一礼をする。
「ねえ、誰、あの人たち」
――という質問に答えたのが三十分ほど前、今は人気の無い公園のすぐ横に路駐している。ヒステリック気味になった一花を落ち着かせるのと、二人で話す必要があることを話すと、一ノ瀬ご夫妻は快く了承してくれた。
「捨てるの?」
「約束を覚えてるか?あの・・・玄関前でしたあれだ」
「覚えてる。だけど、何、高校入学まではお世話したから後のことは――」
「その話し方、やめてくれよ。あのドラマ、意外とまだ有名なんだ」
暫く黙った後、薄ら笑いを浮かべながら彼女は言った。
「あなた、あの家に行ったでしょう。私、知ってるから。だからあんなに手際よく私は養子になれたのね。そこで何を見たの?聞いたの?まさかとは思うけどあの人たちに共感してるの?」
「それは間違ってもあり得ない。だがどんな嘘であれ嘘は嘘だろう。つまり、俺が言いたいのは、嘘をつくならバレないようにしろってことだよ」
「・・・だって、話し方とか、よく分からなかったし。仕方ないじゃない」
「そうだ仕方ない。というか、そもそも最初から、具体的に言えば七月に入ったあたりから一ノ瀬さんのところには話しておいたんだ」
既に一花の顔は軽蔑の表情を浮かべていたが、それを甘んじて俺は受け入れた。
「あの約束、私を普通にしてやるって、あなた言ってたけれど、そうね、その約束は果たされた。私は高校生になれたわ。でも、だからと言って明日からあの家で過ごせなんて急すぎるとは思わない?」
「前もって言っていたらお前はどうにかして阻止するだろう?と言うか、もう無理なんだよ」
「無理?」
「気持ちが切れた。もうこれ以上お前の面倒を看れない」
「あなたクズね」
「そうだ。俺はただのクズだ。良い奴になれるかもしれないと思って、お前を利用したんだ。でも結局のところ、半年で飽きてしまった」
「そう。この半年間、どうだった?」
「すげえ気持ち良かったぜ。自己犠牲とか、献身精神とか、ほら、よくボランティアしてる奴いるだろ。あれって娯楽なんだなと理解したよ」
力が抜けていく。建前を無くすだけでこんなにも開放的になれるのか。
「実を言うと私もね、悠々自適な生活をしたいがためにあなたに着いて行っていただけなのよ。最近はお姉さんがそれを察していたから・・・そう考えれば良い機会ね。私のこと、一ノ瀬さん達にはどこまで話してるの?」
「『虐待されて育った少女。俺と出会い進学を決め見事合格。しかし俺の財力では学費や生活費を賄えないから、どうか引き取ってはくれないか』と、そう話したよ」
「へえ、同情心と正義感を引き立てる良い看板ね」
「そうだろう」
「それで、あなたはどうするの?地域も同じだし、どこかでばったり出会うなんて嫌よ?」
「安心しろ。あの家は引き払う。どこかの田舎に小さい家でも買うつもりだ」
「お姉さんは?」
「旦那のところに戻るってよ。子供はお前と同い年だし、流石に意地を張っている場合じゃないと思ったんだろうな」
彼女は腕を組み、フロントガラス越しに空を見ている。何を考えているのかが気になるよりも、もしかしたら俺との思い出に浸っているのかもしれないと真っ先に考える自分に対しての嫌悪感で咄嗟にハンドルに視線を戻した。
「じゃあ、そうね。私は新しい環境で何のしがらみも無く、一般的な高校生として過ごせるってことね」
「そうだ」
「じゃあ、もうお別れする?さっきの家の場所は覚えているから、歩いてでも行けるけど?」
「そんな事できるかよ。さっきから一ノ瀬さんからのメールが何件も来てる。俺はもう行くから、お前はここで待ってるって言うのはどうだ?」
「それもそれで人間味に欠けていると思うけど」
「いいんだよ。後の面倒な事は全部向こうに任せてある」
「そう、じゃあ」
一花は車を降りて、一度も振り返ることなくベンチへと向かった。
「おい一花、スマホ買って貰えよ。向こうから言われるだろうけど、かわい子ぶって遠慮なんかするなよ?」
「しないわよ。私がどれだけ打算的な女か、あなたもう分かっているはずでしょう?」
「ああ、そうだったな」
「まあ最悪、ガラケーでも良いんだけれど、思い切って最新式のをおねだりしてみるわ」
「それが良い。あ、あと、次は間違えるなよ」
「・・・何を?どれのこと?」
「イベントの予定。あのコスプレイベントな、次にここら辺んでやるのは二年後らしいぞ」
「・・・そう。忠告、感謝するわ」
「じゃあ」
「うん。ばいばい」
未練は無い。ありもしない感情で始めた良い人ごっこはもう終わったのだ。
これからの彼女の人生に何の興味も無い。
何の心配も無い。
「一花」
「なに?」
「おめでとう」
「ありがとう」