第44話 海月※梨々Side※
8月15日。
この日は朝から焦げるような暑さだったのを覚えている。
ジリジリと地を焼く太陽は、爆音で夏を伝える蝉の声に対抗しているかのようだった。
昨日の夜お兄ちゃんと喧嘩した梨々は、朝になってもお兄ちゃんと口を利かなかった。
お母さんとかお婆ちゃんはそんな梨々を見て苦笑いしていた。
梨々とお兄ちゃんがどんな理由で喧嘩したのかをみんな分かっていたと思う。
だけど、お兄ちゃんが大好きな梨々の子供っぽい理由だからという感じで誰も深刻には思っていなかった。
梨々にとってはいつもの喧嘩と違うのに。
お兄ちゃんだって、いつもなら喧嘩した後にその日のうちに謝ってくれるのに。
今回に関しては、お兄ちゃんの方からも声をかけてすら来ない。
やっぱり梨々は、本当にお兄ちゃんにどうでもいいと思われちゃったのかな。
お兄ちゃんには水泳があって彼女がいる。
来年にはもう高校生なんだから、子供の梨々にいつまでも構ってる暇は無い。
頭では分かっていたけど、納得できるまでにはもう少し時間がかかりそうだった。
午前中は特に何をするでもなくゆっくりと過ごし、お昼はみんなでそうめんを食べた。
おばあちゃん家のそうめんは少し味が濃くて、暑すぎて塩気も覇気も水分も奪われるような体を元気にしてくれる感じがした。
お昼ご飯のときも梨々は決してお兄ちゃんと口を利かなかった。
お兄ちゃんは何度か梨々に話しかけたそうにしてたけど、梨々は知らないふりをした。
午後。
お兄ちゃんと海に行く約束は15時だった。
昨日も15時くらいから2人は海に向かっていた。
「………梨々」
借りている寝室に寝転がって漫画を読んでいた梨々に、後ろからお兄ちゃんが声かけた。
「梨々、今日も海に行くんだろ?準備した?」
喧嘩したからか、いつもより少し自信なさげなお兄ちゃんの声がする。
梨々はお兄ちゃんの方を振り向きもしないで答える。
「………行かないって言ったじゃん…」
「そっか。けど、明日には帰るんだよ?今日行かないとまた来年まで行けなくなっちゃう。来年になったらもう…」
そこまで言ってお兄ちゃんは言葉を止めた。
「俺は梨々と海に入りたいな。昨日あそこまで入れるようになったんだ。梨々なら今日はもっと入れるようになるよ。梨々が成長するところを今日も見せてほしいな」
梨々はお兄ちゃんが何を言っても決して反応しなかった。
「…………………先に行ってるから、気が変わったらおいで。待ってるね」
お兄ちゃんは諦めたのか、そう言って階段を降りていった。
梨々はこの時、内心すごく迷っていた。
お兄ちゃんが言いかけた通り、一緒に海に行くのは今日で最後になるかもしれない。
だから入りたいけど、やっぱり昨日の話をまだ許せていないところもある。
………だけど、本当は梨々自身も分かっていた。
ただ素直になれなくて意地張ってるだけ。
お兄ちゃんに少しでも構ってもらいたくて、気にかけてもらいたくて、ずっとムツくれたままいるだけなんだ。
素直になればいいのに、今日は海に行く気が起きなかった。
梨々はどんだけ意地っ張りで面倒くさい子なんだろうと自分でも思った。
こんな妹じゃ、お兄ちゃんに捨てられても当然なのに………
そう思うと自然と涙が出てきた。
寝そべりながら泣いたから、自分の涙が床に落ちたのが見えた。
涙が口に入ってくる。
冷たくて温くて、少ししょっぱい涙の味。
それはまるで、昨日お兄ちゃんと一緒に入った海の味。
同じ味だけど、大きくて広い海とちっぽけな梨々の涙。
お兄ちゃんと梨々の差を表しているような大きな違いだった。
この時のことを、きっと梨々は一生後悔すると思う。
この時迷ったなら、意地なんて張らないでお兄ちゃんのところにいけばよかったんだ。
急いで準備して水着に着替えて、海でお兄ちゃんと仲直りすればよかったんだ。
そして昨日のことを謝って、本当は梨々にとっても離れようがお兄ちゃんは変わらず一番大事で大好きだよって伝えればよかったんだ。
だけど梨々に残されていたそんな選択肢は、全て波と共に大海原へとかき消された。
昨日お兄ちゃんと見た夕凪に染まる優しい波の綾は、今日になって突如荒波として牙を向いたのだった。
梨々が泣き疲れて寝ている間に、お兄ちゃんは帰らぬ人となっていた。
最後の瞬間まで、梨々を待って海にいたようだった。
お兄ちゃんを見つけた近所の人は、まるでオレンジ色の美しい海月が海に浮かんでいるかのようだったと言った。
それを聞いたとき、梨々はいつもプカプカと浮かび楽しそうに笑うお兄ちゃんを思い出した。
眩しく輝く髪と笑顔と優しい声。
確かに美しいオレンジ色の海月だった。
ここら辺の海は、突然波の高さが変わるから気をつけなさいと何度も言われていた。
天気も急に変わってしまうから、と。
なのにお兄ちゃんは、梨々が来るギリギリまで待っていた。
どうして……………………
お兄ちゃんは絶対に溺れないんじゃなかったの?
いくら波が高くても、流れが早くても、お兄ちゃんなら余裕で波をかき分けて浜に上がってこられるんじゃなかったの?
お兄ちゃんを責める気持ちは、すぐに自分へと勢いつけて向かってきた。
梨々がお兄ちゃんを殺したんだ。
梨々のせいでお兄ちゃんは……………
どうして素直にならなかったんだろう。
どうして自分の気持ちばっかりで、お兄ちゃんの言葉を聞こうとしなかったんだろう。
最後くらい、ちゃんと話せばよかった。
最後くらい、目を見ればよかった。
最後くらい、大好きだよって伝えればよかった。
溢れても溢れても止まらない後悔と自責の念は、時間を昨日の夜に巻き戻してくれと願う気持ちに何度も結びついた。
昨日の夜お兄ちゃんから聞かされた、遠くに行くっていう話。
こんなにも早くその日が来てしまうなんて、心が追いつくはずがなかった。