始まりはいつも結末をも包含していた。
私は自動車工場で派遣社員として働いていた。そこではおもに地球外人種の月世界評議会の人々や、火星国人民委員会からの人々が働いていた。地球上空を回っているコロニーの人たちも出稼ぎに来ていた。私は地球人種としては最下層のランクEのサッポロシティーの住民として毎月二十五イエンの給料でライン工として、生きるにはギリギリというか、世界には様々な人種がいて、いろんな生命体がいるんだなと感じながらもそれらの人たちを避けながら生きてきた。自動車は完全電気自動車で、価格は百イエン程度で多くの人たちの足となっていた。多くの人たちは世界地球評議会から与えられた公団住宅に住んでいて、食料の特別支給を受けていた。全ての人は十六才で評議会の委員会の政治家としてネットワークに繋がれていて、私も自分の思想を端末から世界中の人々の好奇心を満足させるべく発信していた。多くの人は自分の思想を広めるべく、大衆心理を引き留めるような、誇大的な、人気取りを目指した考えを発信していた。しかし、言葉だけのなにも影響力を与えるものではなく、最下層の私のような人民でさえも、これは差し障りのない、ただののっぺらな、人工肉のような味わいだなと感じさせるのだった。私はこの状況を打開するべく、この世界が自由で開け放された、それでいて、実は穏やかな思想統制を効果的に行っていることを人々に知らせようと世界に広めるために何をすることができるだろうかと画策していた。明らかに人々は無味乾燥なテレビによって骨抜きにされていたし、自分が家畜として政府に利用されていることに気づいていなかった。それは地球が誕生して以来変わっていないことだったが、それがなおさらのこと、一部の人々の心に根強く植わっていて、何とかしてこの状況を打開しようとしているのだった。そのなかで、地球人の仕事を奪っているとして、火星人や金星人、月評議会の人民が批判の対象として憎しみが増大の一途として挙がっている。私の職場でもそれらの地球人以外の人々が安い給料で雇われている。ランクAの地球評議会から名誉の男爵位を受けている著名な僧職者や複合企業を束ねているボスたちは月や金星、火星などに旅行に行って、毎日を楽しんでいたが、私からはそれがただの退屈な人生を長引かせることにしかならないということを明確にしているとはっきりと明らかにしている、そう感じさせることでしかなかった。まるで私たちのあくせくした、働きの結果、苦しんでいる様子を高見から覗いていながら、それがまるで当然のように、下手な道化師のように笑っている。私がいくらその真実の姿を明らかにしようとも、一人の地球評議会の委員として人々の心に訴えようとしても、数十億の人民の心に達することはないだろう。相変わらず、人々は変化よりも安定を望んでいた。地球各地で起こっている内乱はいともたやすく鎮圧されて、それらの反乱分子はまるで無かったかのように処刑されていく。テレビではそのような獅子たちの活動は圧倒的な視覚情報のなかでは微塵もなく、相殺されていたし、大衆心理をつかんでいるごく少数の人々の世界ではまるでゲームを楽しんでいる、そんな気持ちでいた。私はそんな社会に対して有効な手段がないまま、でも、それでもその真実を知っていることがせめてもの救いだと思っていた。真実を知っていて死ぬのと、真実を知らないまま、長生きをする。その事には大きな違いがある。それはこれまでに多くの戦士たちが培ってきた思想だった。そして、この世界では何かが変わろうとしている。そんな気配というか、静かな振動のようなものが沸き上がろうとしていた。政治思想にもそれが現れようとしている。世界は救い主が現れることを期待していた。それが克明に、揺さぶりをかけるかのように、人々の脳に直接働きかけるように、これから先何かが起こることを私の心にも、まるで背中からそっと肩を叩かれるように、ゆっくりとそれでいて、確信を抱けるような、そんな驚きにも似た姿が、風のとどろきのように聞こえた。私は早速行動に出ることにした。街頭に出て、この社会がいかに歪んだものであるのかを訴えようとした。
「皆さん、聞いてください。この社会は間違っていると感じませんか?なぜ、多くの人たちが最下層の生活を送っているのでしょう。わずかの人たちが権力を握って悠々自適な生活を送っている一方、たくさんの人たちがギリギリの生活をしています」しかし、この当たり前の、真実とも言えることに足を止めて聞き入る人はいなかった。一人もいなかった。でも、私はそれでもかまわなかった。実行したことに意義がある。そう思った。これからはもっと効果的に活動しよう。たとえ相手にされなくても、私が行ったことはきっと神様に伝わって、将来必ず報われることになる。それがまるで確信のように心に響きわたってきた。世界は広々としている。私は自由だった。誰がなんて言おうとも私は草原の上で寝そべっているかのような自由を感じた。私が不思議に思うことがあった。それは実際に殺人を行うならば犯罪になるが、文章で、物語の範囲内で殺人を、しかも大量に殺人を行ってもそれは犯罪になることはない。もしくは英雄になれるということだった。それで私は物語の中で自分の思想について物語るようになった。十時間の労働のあと、寝る間も惜しんで端末にタイプした。それは今までに感じたことがない有意義な時間だった。たかが物語、されど物語。そんな言葉が私の脳裏にじわじわと叩き込んでいた。そしてその些細とも言える活動はある人たちの心にも一滴とも感じるような、そんな反応を産んだ。その一滴がまるで無意味のような感じがする。砂漠に降りわたるような感じだ。でもその一滴が大量に降るならば、それは人々にとって救いの雨となるのではないか。私が端末に向かって一ヶ月を擁するようになった時、私の読者は十人になった。僅かかもしれないが、一人のヒューマノイドの心を掴む、今までいろいろな人生を、誕生をしてからこれまでの生を全うしてきた人の心を動かすことができたということは驚くべきことだった。私の目の前にはテーブルの上にのったバニラアイスクリームが皿にあった。それが溶けて液体となっていた。凍っているとき、とても美味な味わいであるのに、溶けてしまうと、顔をしかめるほど不味い代物になっていく。まるで不思議な感覚だった。しかしそれは私にひとつの教訓のようなものであるような感じがした。
「凍っているときはこんなに美味しいのに、溶けるとこんなに不味くなる」私は実際に言葉に出してみた。頭の中でイメージしたのとは違った感覚がした。テレビで自分の姿を見つめている感じだ。なんて言ったらよいのだろうか。それは自分でありながら、実際の自分ではないと言った感じだ。まるでバーチャルな自分であって自分では無いという、まるで謎なぞだ。テレビでドラマやニュースを見るとき、それは完璧なまでにリアルなものだ。しかし、それが自分の存在そのままを写し撮るとき、それは不可思議なものになるはずだ。自分の姿を永遠に見続ける。これほどの苦痛はあるだろうか?これは自分の人生が偽りに過ぎないということだろうか。答えはイエスだ。それを認めなければいけない。私たちは自らを俳優として行動しなければならないということだ。たとえぎこちないとしても、この人生を一人のアクターとして生きることが求められる。そのことを感じた時、私は舞台俳優のレッスンを受けることにした。サッポロにも俳優を目指す為の学校があった。私は端末でそのことを知って躊躇わずに受講することにした。しかし私は俳優になる為にではなく、あくまでも自分の人生を有意義にするためにレッスンを受けるのだ。そう、自分の姿をテレビ映り見栄えするためにだ。つまり自分の人生をリアルにするために。
朝早く休日に私はサッポロの中心街にあるアクタースクールに通い始めた。初めての入校の日、とても緊張した。きっと、辛辣な先生がいて厳しくしつけられる、そう思っていた。学校の教室の二倍はある部屋に様々な人種と年齢の人が体を動かしていた。みんな笑っていた。とても幸せそうに演技ではなく、本当に喜びで満ちていた。私も自然に緊張が取れて穏やかな微笑を浮かべて、思わず安堵のため息をついた。
先生とみられる女性が手を叩いてみんなの注目を集めた。
「皆さん、おはようございます。今日は新たに入校された人を紹介します。ケイスケ・ダコタさんです」
「ケイスケ・ダコタです。よろしくお願いします」私は整列した人たちに向かって挨拶をした。
「では、ケイスケさんは初日ですからとりあえず、まわりの雰囲気を味わっていただきましょう。」私は案内されて壁際の椅子に座った。
「ここの部屋では初心者に演技の楽しさを知っていただく為に自分の今までに楽しかった思い出を表現してもらいます」先生は自身、楽しそうに私に言った。それから教室の中心に移ってみんなは先生を囲んで輪になった。それから互いの手を握って目を瞑(つぶ)り、何度も深呼吸をしだした。それが一分ほど経ったろうか、二十人はいると思われる人たちが一斉に笑い出した。私はそこで居たたまれない気分になった。彼ら彼女らはまるで狂人のように見えたからだ。みんなは私にかまうことなく笑っている。そこで先生は私の手を取ってその輪の中心に導いた。みんなの笑い声はいっそう激しくなった。中には泣いている人たちもいた。私も泣き出したい気持ちだ。
「皆さん、ケイスケ・ダコタさんの幸せを願ってもっと笑ってください」先生は精一杯の笑顔を振り撒きながら言った。
「ケイスケさん、最高です」
「ケイスケさんの笑顔、とっても素晴らしいです」笑顔だけではなく言葉でも祝福をのべられた。
私は悲しい気持ちでその輪から離れて教室を出て行った。こんな狂人どもがいる教室で演技を学ぶなんて金輪際まっぴらだ。私は教室を離れながらも聞こえてくる笑い声に恐怖と、それでいて可笑しさを覚えて、自らのおかれている状況を心から笑った。これは不思議だ。これからは自分のことを笑えるように毎日を楽しもう。これだけでも教室に行った意義があった。まるで脱皮したような気分だ。エレベーターで一階に降りてもまだ笑い声が聞こえているような気分だった。私がそのことを考えていると、そこにイメージされたのは溶けたバニラアイスクリームが再び凍って完璧なまでに白い湯気のような煙を上げている姿だった。これから全てが変わっていく、私は二度と再び俳優になんかならないだろうし、自分の姿形(すがたかたち)になんて囚われない、そう決意したのだった。