終章 帰還
終章 帰還
すでに太陽は西に傾き、東からは藍色の闇が迫ってきていた。
今は日没が遅いから、これから街に出て宿を探してから、食料と地図を買えばいい。
ここはメルカルス大陸の大国ヴァーゴ。元々魔導士の多いラトリアナ大陸に向かっていたのだから、ついでに他の国を回ってデュマを探して…。
ぼんやりとそんなことを考えながら、街に向かうため城壁を曲がった時だった。
「やはり、旅に出るのか?シルヴェーラ」
町へとつながる橋の袂の柱に背を預け、ふと顔を上げた懐かしい瞳に、シルヴェーラはどさりと荷袋を落としてその場に立ち尽くした。
「もう顔も忘れたか?二年も一緒にいたというのに」
シルヴェーラはつんのめるようにして駆け出し、その背の高い細い体躯にがっしりとしがみついた。
ティファ・ビシシェナエントの化身——
「…デュマ!」
忘れるはずがない、この優しい翡翠色の瞳を…!
「すまなかった、何も言わずに一人で行って…。急なことだったから、おまえに詳しく伝える暇もなかった。許してくれ…」
デュマはそっと背中に手を回し、シルヴェーラを優しく包み込んだ。
「もう、いいんです…。大魔導士デュマ・アルセウスが忙しいのは、当前のこと。あたしが甘えていたから、いつまでも離れられなかったのですね…」
「知っていたのか…」
溜息のようにデュマが呟いて、シルヴェーラはデュマをふり仰いだ。相変わらず、亜麻色の髪に翡翠色の瞳は優しい光を帯びていた。
いくつなのだと聞いてもはぐらかす、年齢不明の大魔導士デュマ・アルセウス。額にはシルヴェーラと 同じように銀糸の額飾りがあり、普段は階級紋を隠している。
見た目は二十代半ばにしか見えないのだから、最上級魔導士、大魔導士と言われても一般人は疑いの眼差ししか向けない。
大魔導士となると、依頼されている仕事は山のようにあるはずなのに…。
それでも、一緒にいてくれた貴重な二年間。
その時間があったからこそ、シルヴェーラはデュマと離れた後もギルドに所属することもなく、独り立ちして依頼を取れるほどに力をつけたのだ。
「まったく、一年もシルヴェーラと離れるとは思わなかったよ。四大陸の魔導士協会が対立してしまってね。各大陸から代表を選出し、年単位で総代表を受け回るということになってね。運悪く初代総代表に任命されたというか、押し付けられてしまって。おかげで一年、中央の魔導士協会本部から、内輪もめの後始末のためだけに飼い殺しだったよ」
通りで一年探し回っても、どこにも噂すら耳にしなかったはずだ。
魔導士協会は認定試験を受けるときに赴くこともあるが、上層部が務める中央本部は実に閉鎖的だ。
しかも認定試験は各国の魔導士協会支部でも受けられるので、中央本部がいくら閉鎖的でも何ら問題はない。
デュマの行方を支部に問い合わせもしたのだが、そんな噂など、終ぞ聞いたこともなかった。
大魔導士デュマ・アルセウスの情報など、極秘中の超極秘なのだ。一介の魔導士になど情報が回るはずもない。
おかげで空振りの旅を続けることになったのだが…。
「デュマを探して旅をしてたんです。見てください。これ」
シルヴェーラはデュマが贈った銀糸の額飾りを、指輪をしている左手でそっとずらした。
「望月紋にマグノリアの金の指輪じゃないか。デュマと別れた時はまだ半月紋と銀の指輪だったはず。一年で成長したな」
デュマの言葉に、シルヴェーラは素直にふふっとほほ笑んだ。
「五芒星紋まで、あと少しだと思っていたんですけど、まだまだだとわかったんです。修行させてください。これから、一緒に行けるのでしょう?」
また、一緒に旅をしよう、デュマ。そしていつかマグノリアに帰って、親父の墓に花を供えてやろう…。
「ああ、当面は大丈夫だ。全くまとまりのない初代総代なんぞ面倒を押し付けられたのだからな。これから先十年は仕事を入れてくれるなと誓約させておいた」
力を使えず飼い殺しにされたことがよほど気に入らなかったらしいデュマが、めずらしく目が笑っていない涼やかな笑みを浮かべた。
それで十年仕事放棄を許させるところが豪傑である。
「その前に、聖魔剣士協会へ行かねばなるまい。魔族を仕留めたのだから、メルカルスの白金の指輪をもらわなければ」
「登録もしていないのに、階級すっ飛ばして認定してもらえるでしょうか?」
ラトリアナを経由して入るどころか、いきなりヴァーゴ国内に転移して王宮入りしてしまったため、メルカルスの聖魔剣士協会へは階級登録を申請いないシルヴェーラだ。
もちろん魔導士としての戦闘記録を撮っているため、口頭で説明するなどという面倒なことはしないで済む。
「ガルディエル王とデュマの口添えがあれば問題ないだろう。メルカルスだけでなく、おまえは四大陸にとって宝になる。魔族と戦って生きて帰る者など、片手で数えるほどしかおらぬのだぞ」
よくやった、とデュマはシルヴェーラを力強く抱きしめた。
片手の筆頭は、もちろんデュマ・アルセウスである。
戦った数は一桁では収まらないとかどうかという噂は、何度聞いても本人がのらりくらりとぼけるので定かではない。
憧れ追い続けたその恩師に一歩近づいたのだと思うと、シルヴェーラはうれしく思った。
「ところで、いいのか?おまえは紛れもない、聖女セレフォーリアなのだぞ?」
「…知って、いたのですか…?」
「セレフォーリア嬢に見えたことはないが、その容姿と突如消えた噂、蒼水晶の話はな。カインリックが知らずに育てていた娘がおまえだったと知ったときは、驚いたよ」
そうか…親父は、知らずに育ててくれていたんだ…。
シルヴェーラはセレフォーリアの名に強く首を振った。
「あたしはシルヴェーラ…マグノリア大陸の聖魔剣士で、アデルバイドの鍛冶屋カインリックの娘…。今までのは、蒼真の蒼水晶が魅せていた幻…」
あれは幻。セレフォーリアの蒼水晶が魅せていた、蒼い幻…。
王家の人間が持つ緋水晶とのみ共鳴する…ひと時の緋い夢。
だから、たとえあたしが指輪を持っていたとしても、王家の人間さえいなければ、もう見ることはない…。
「…そうか。では、帰ろう、マグノリアへ。メルカルス魔導士協会へは通達を出しておく。この国の魔導士強化と武術師強化、騎士団の早期結成について、王家に進言せよと。当面の警護要請もな」
デュマはガルディエルの王政に負担がかからぬように手を貸すことを良しとし、シルヴェーラを安心させた。
「心配ない」
デュマはそれ以上何も言わず、とんとんとシルヴェーラの背中を叩いた。
「マグノリア、親父が名付けてくれた場所に…」
これ以上留まるわけにはいかない。魔族の最高神官というディアゴ・ヴァルシュを倒したのだ。
これからいつ何時、魔族がシルヴェーラに報復にやってくるかもわからない。
ガルディエル一人を護っても、ヴァーゴの国中の人を護る力などシルヴェーラにはない。
だからといってデュマに守られて、ガルディエル共々おんぶにだっこ状態などシルヴェーラの誇りが許さない。
セレフォーリアと認めない以上、ヴァーゴ国に残ったところで、一介の聖魔剣士がガルディエルと婚姻など許されるはずもない。
かと言って、ガルディエルが他の誰かと結婚する姿を黙って眺めていることなど…。心が、壊れてしまいそうだ。
その上、蒼真の蒼水晶がセレフォーリアのものだと、いつ発覚するかとびくびくして過ごすのも、シルヴェーラの性には合わない。
「シルヴェーラ、逢いたくなれば、いつでも言うがいい」
最上級魔導士なら転移魔導も容易いこと。デュマの能力を持ってしてならば砂漠の中で蟻一匹でも見つけられるのだ。
「そんなこと、頼まないさ…」
シルヴェーラは夕日が照らしだす宮殿に、もう一度振り返り、そっと目を閉じた。
ごめん、ガルディエル…。一度も言わなかったけど…惹かれていたんだ。初めて出会ってから、ずっと…。
屈託なく笑う素直さ、大らかな優しさ、人としての暖かさ。シルヴェーラが失っていたものを、すべて持っていたガルディエル。
その蜂蜜色の柔らかな巻き毛も、朱金の双眸も、鍛えて逞しくなった体躯も。子供のように無防備に眠る姿も。
すべてが、愛おしい。それは紛れもない事実。
…愛してる…セレフォーリアでもシルヴェーラでもなく、ただの一人の女として…。
耳飾りを贈られ何も知らないまま求婚されて、うっかりそれを受けてしまい、客に祝福されたとき…正直、うれしかった。つい無効だなんて言ってしまったけれど。
口接けられて、抱きしめられて、その腕に抱かれて、どれほどの幸せを感じたか。
おまえには、わからないだろう?ガルディエル…。
シルヴェーラはそっとお腹をさすり、娘だったらいいな、と呟いた。
「行こう、デュマ」
さよなら、あたしを愛してくれた人…。
シルヴェーラはデュマと肩を並べて歩き始めた。
夕闇を背に、シルヴェーラと名を受けた大陸、マグノリアへ向けて―――。
了