鍵を開けて部屋に入ると、知らない女が立っていた。
キョトンとした顔でこちらを見ていたので、私は慌ててドアを閉めた。何も言わずに。
703号室。部屋番号プレートは、彼の部屋で間違いないと言っている。しかしそこにいたのは、私の記憶にない女性だったのだ。
……あの野郎。また浮気してやがる。たぶんおそらく、今見た女性は彼の新しい彼女だ。
大人びた雰囲気で、頼れるお姉さん風。スレンダーな体型で、ショートカット。あいつのストライクゾーンど真ん中だった。
え、私は彼の彼女ですよ? 今見た女性は彼が二股している浮気相手。
ちゃんと立場をはっきりさせておかないと、あとあと面倒なことになるので、宣言しておく。
彼はきっとそのへんのことをよく分かっているはずだから、帰ってきたらこの場ではっきりと部屋の中にいる女に決別の言葉を口にするだろう。そして彼女は泣きながら出て行くに違いない。
腕時計を見ると20時を回っていた。いつもなら彼がそろそろ帰ってくるころだ。
星の見えない夜空に、もやがかかったような月が見え、遠くから雷鳴が聞こえている。今夜は荒れそうだ。吹雪になるかもしれない。駅まで傘を持っていこうかと思ったけれど、部屋の中にいる女が気になる。彼と入れ違いになるのも嫌なので、私は部屋の前で待つことにした。
しかし、待てども暮らせども、彼は帰ってこなかった。
2時間ほど経った頃だろうか。部屋の中の女が動き出した気配を感じた。
玄関に向かって歩いてくる足音も聞こえる。
どうしよう。このままここにいて鉢合わせでもしたら気まずい、と思いつつ、動くことも出来ずに立ち尽くしていると、ガチャリという音がした。中から出てきたのは、先ほどの女性だった。
彼女は一瞬驚いた顔をしたが、すぐに笑顔になって言った。
「こんばんは。中に入る?」
は? この女は何を言っているのだろうか。
彼氏の部屋で、浮気相手の女と一緒に、彼の帰りを待つなんて、あ、り、え、な、い、でしょ?
私は黙って首を横に振った。すると彼女は私の腕を取って部屋に引っ張り込んだ。
「やめてっ!」
そう言って突き飛ばそうとしたのだが、出来なかった。なぜなら彼女が泣いていたからだ。声も出さずに静かに涙を流していた。そんな彼女の姿を見たら、なんだか急に罪悪感を感じてしまった。
仕方ないので、部屋の隅っこに座って彼を待ち続けた。その間ずっと彼女は泣いていたが、そのうち落ち着いてきたのか、涙を止めて鼻水をすすり始めた。
ティッシュを渡したら受け取ってくれたけれど、まだ少し赤い目をしている。
しばらく沈黙が続いた後、彼女はポツリポツリと話してくれた。
彼女は最近付き合うことになった男性がいたらしい。
その男性は仕事の関係で知り合った人で、とても優しく誠実そうな人だったとのこと。
ただ、ひとつだけ問題があって、それは、彼には妻子がいるということだった。それを知ったときはショックだったが、好きになってしまったものはしょうがない。
自分の気持ちを抑えきれずに告白したところ、OKしてもらえたのだという。そして交際が始まり、2週間ほど経つと、なんと向こうの奥さんが病気で倒れてしまい、そのまま亡くなってしまったのだそうだ。
彼の勤める会社は、奥さんのお父さんが経営しているらしく、婿養子という立場や、遺産相続の話などで、とてもややこしい立場になっていたという。
彼は悩んだ末、一時の気の迷いだった。別れて欲しい。と彼女に切り出したそうだ。
ふうん。だから何? あなたがここに居ることと、その話に何か関係があるの? そう言いたかったけど、ぐっと堪えた。
彼女がまた泣き出したからだ。
正直言って、彼女が何をしたいのかさっぱり分からない。
そもそも私と初対面だし、彼の浮気……浮気相手なのかな?
私の心はざわついた。気持は上がったり下がったり、まるでジェットコースターのように振り回されていた。
どうしてこんな気持になるのか分からない。
いつまで経っても泣き止まない彼女のせいだと思うけど、こちらまで泣きたくなってきた。
ここはワンルームの狭い部屋なので、泣いている彼女との距離はさほど離れていない。私はティッシュを取って、もう一度彼女に渡した。
か細い声で、ありがとう、と言って涙を拭い、言葉を続けた。
「彼は死んでしまったの」
まただ。私に関係の無い話をしている。それと同時に、私の心はまたざわついていた。
彼女はひとしきり泣いたあと、またポツポツと話し出した。
彼の奥さんが亡くなったことで、警察の捜査が入ったのだという。
彼はたび重なる警察からの事情聴取で憔悴し、仕事に手が付かなくなっていった。
容疑は、保険金殺人事件。
奥さんの父親の会社は、実は自転車操業を続けており、不渡りを出すまで秒読みの段階だったらしい。
そのとき、都合よく死んでしまった奥さんの保険金は、保険会社が警察に通報するに値する金額だったのだそうだ。
だから何。
そんな話を聞いても、私とは何ら関係が無い。目の前にいる女は、いったい何が言いたいのかまるで分からない。
しかし、それでも彼女の話は続いた。
彼女は彼の妻が亡くなったことで、不謹慎だとは思いつつ、心の中で喜んだそうだ。おまけに、彼は会社を追い出され、独り暮らしを余儀なくされたのだ。
彼女は彼と一緒に住み、献身的にに支えた。やっと二人っきりで暮らせる。そう思って。
だけど、彼は妻を亡くし、会社を追い出されたことで心を病んでしまっていた。
彼は心療内科へ通い、安定剤や睡眠薬をを処方され、落ち着いたかに見えた。
見えたはずだった。
だけど。
彼は私を殴った。
首を絞めた。
そして、────私を殺した。
「やっと理解出来た? そのあと彼は正気を失い外へ飛び出して、ダンプトラックにはねられたの」
私の目の前にいる彼女がそう言った。
彼女が話していたのは、私の話。
彼の妻が死んだのは、彼が妻を殺したから。
保険金を得る為に、妻の父から話を持ちかけられ、それを実行したのが彼だったのだ。
私はそれを聞いて、すぐに警察に通報しようとしたけれど、彼に殺されてしまった。
「あなたは五年前にここで殺されたの。なんか知らないけど、そのあとあなたは、ここに越してきた男性の晩ご飯作ったり、部屋の掃除したりしてたのよ? それで、このワンルームマンションの住人から大事にされてたみたいだけど、ここのオーナーに見つかって、私が除霊しに来たの」
窓の外を見ると、いつの間にか吹雪いていた。
とても寒そうだけど、心の中の冷たい部分が溶けていく。
それはまるで雪どけを見ているようで、暗鬱とした気持が一気に晴れ渡っていった。
両手をジッと見つめると、床のカーペットが透けて見えた。
つまり私は幽霊になっていたのだ。
ガチャリ、とドアが開いた。
「そろそろ終りましたか~?」
そろそろと部屋に入ってきたのは、この部屋の住人で、私が五年間世話をしていた彼だ。
「やあ、おかえり。一応彼女は自分が死んで幽霊になっていると自覚したみたいだけど、どうする? 住んでるのは君だけど、オーナーからは、成仏させるように言われてるし」
ちょっと前までさめざめと泣いていた彼女は、けろっとした顔で私に死刑宣告をする。私はもう死んでるけど。
「や、それは待ってください。僕はまだ学生ですが、彼女が幽霊だとしても、将来を見据えてお付き合いしてますので……」
「正気か?」
「正気です!」
正気で無かったのは私。今は、長い長い夢から目が覚めた思いだった。
私はこの苦学生を彼だと思い込み、五年間もこの部屋に住み着いていたのだ。
だけど、今なら解る。
私は彼に恋してる。
「ねえ、私幽霊だけど、このままこの部屋にいてもいいの?」
「ああ、もちろんだ! これまで通り、洗濯と風呂トイレの掃除、洗い物の担当は僕。あと、コロナ開けたら一緒に旅行だ! 日帰りだけどなっ!!」
あ、あれ?
手のひらが薄くなっていく。
足を見ると、同じく透明度合いが高くなって、そこには何も無いように見えていた。
「おい彼氏……。お前が成仏させてどうすんだ? 無駄に満足すると、そこの幽霊、あの世に行ってしまうぞ?」
「え、あっ、待って待って、俺はこれから家事を一切やらないからなっ! 屁もこくし、料理も不味いって言ってやる!」
お、おお……。心にちょいとストレスを感じただけで、元の幽霊に戻った。
ふふっ。悪夢から目覚めた私は、こうして第二の幽霊人生を始めるのだった。
=完=