バナー画像 お気に入り登録 応援する

文字の大きさ

4-2 True Enemy

 新宿からは船橋方面へ向かうNR線1本で行ける秋葉原。アキバと呼ばれる世界有数のサブカルチャーの聖地は、常に人がごった返し、一言で言えばよくも悪くもカオスだ。
 しかし、この日はそのカオスぶりに拍車が掛かっていた。
「そっか……ハロウィンか……」
電気街口の改札の奥から、その光景を目の当たりにした流雫は呟いた。
 10月最後の土曜日、巷はハロウィンで盛り上がっていた。ケルト人のサウィン祭にルーツを持つ、日本で云うところの盆に近い伝統行事は、何時しか日本では宗教色皆無の単なる仮装集団による祭りとして定着している。ただ、流雫が幼少期を過ごしたフランスでは、ハロウィンは特別何かするワケでもなく、そのギャップに今でも違和感が有った。
 テレビやネットの動画では、毎年都心のハロウィンで警察沙汰になっている様子が流れている。……祭りを隠れ蓑に合法的にバカ騒ぎできると解釈した連中が日本に多過ぎる。それが流雫から見た10月末の国民的イベントだった。
「噂には聞いてたけど、それ以上だわ……」
と澪は言った。
 秋葉原駅前の電気街側が、所謂オタクの聖地として特に栄えている。しかし今日は特に、11月初頭にかけて開かれるアキバハロウィンウィークと称したイベントの初日で、カラフルな衣装を纏った集団が所狭しと闊歩していた。
 サウィン祭では、先祖の霊と共に悪霊まで現世に現れるため、悪霊を驚かして追い払う意味で仮装すると云う風習が有った。ただ、日本では何故かコスプレパーティーに変化している。それも日本と云う極東の島国にローカライズされた結果なのだが、流雫はやはり違和感を禁じ得ない。
 何度か秋葉原に行ったことが有る澪でさえも、その様子に軽く圧倒されていたが、その改札近くにとあるゲームのポップアップストアが出店していた。確かSNSでも告知されていた。
「ちょっと、あそこ行きたいかな」
と澪は言った。
 
 5月のゲームフェスでの発表時から注目していた澪が、今唯一ハマっているスマートフォン用パズルRPGゲーム、ロスト・スターライト……通称ロススタ。日本国内での人気度は指折りで、可愛いキャラクターも魅力だ。
 ゲームをする体力が無い日でも、無料のログインボーナス獲得だけはリリース日から欠かしたことが無いほど、澪がそれにハマっていることは流雫も知っていた。だが、グッズを扱うブースに行くのは初めて見た。
「ルナ……」
と呟いた澪は、アクリルスタンドに手を伸ばしていた。
 黒い衣装と鎧を纏い、真紅のケープをなびかせて構える、シルバーヘアの少女のイラストがアクリル板に印刷されている。
「え?」
と反応した流雫は、しかし何も知らない。澪は少し顔を紅くして言った。
「あ、自分で名前を付けられるから、彼女の名前……ルナにしたの。何か、流雫に似てる気がして」
 シルバーのヘアスタイルこそ、外ハネショートとポニーテールの違いが有るが、自分のシンボルでもあるアンバーとライトブルーのオッドアイも含めて、見れば見るほど自分に似ている。そう云う気がした流雫は、しかし恋人が自分の名をゲームのキャラに付けているのに顔を紅くし、
「ルナ、か」
と呟いた。
 ……この流雫と云う字も、後になって付けられたものだ。日本人として帰化する時に、フランス人の母が字を決めた。フランス人とは云え、日本に留学経験が有り、日本語は上手だ。そして、息子に付けた名前は父も絶賛していたし、流雫自身も大好きだ。
 ……両親、か……。
 ふと、そう思った流雫の隣で澪は、新作グッズに手を出して会計を済ませる。今回は、彼女がルナと名付けた美少女騎士の隣で微笑む、白いセーラー服調の衣装にブルーのケープを纏った美少女剣士と2人がセットになった、新しいキービジュアルが遇われているものがメインだったらしい。
 その会計用の長机の隣には、ハロウィンウィーク限定でキャラのコスプレ体験ができると書かれたラミネート看板が有った。ポップアップショップの購入者限定で、2時間だけロススタの衣装を着て街を歩けるらしい。
 「してみませんか?」
と、レジを担当していたスタッフが、看板を手で示しながら澪に言った。品物が詰められた紙袋をトートバッグに入れながら、澪は数人いるキャラの立ち絵からシルバーヘアのキャラを指して
「ティアでもいいんですか?」
と問う。
 ……澪は自分で名前を付けられるからルナと名付けた、と言っていたが、デフォルトはティアなのか。
「はい」
とスタッフが微笑を浮かべて答えた瞬間、澪は流雫を見つめると、言った。
 「流雫、……あたしの代わりに、やって?」
「……え?」
思わず声を上げ、流雫は固まった。
 ……コスプレ?あの夏冬の大規模イベントで見るような?僕が?
 最早仮装の範疇ではないし、そもそも興味が有るワケでもなく、時々SNSで少し見掛ける程度の知識しか無い。そして何より、性別が違う。
「髪の色も目の色も同じですし、似合うと思いますよ」
とスタッフが無意識に追い打ちを掛ける。その援護射撃を受けた澪の
「一度だけでいいから」
の一言がトドメだった。
 ……全力で拒否すれば、澪は仕方ないと諦めるだろう。しかし、一度だけなら悪くない、か……。
 そう思った流雫が腹を括った瞬間、スタッフが澪に言った。
「ご一緒にどうですか?」
「えっ!?」
まさかの一言に澪はスタッフに振り向く。
「折角ですから、特別にいいですよ?」
と言ったスタッフに続くように
「澪もやるといいよ。僕もやるんだし」
と流雫は言った。
 ……2人してゲームキャラのコスプレをするとは。しかも、残っていた衣装が今回のキービジュアルでティアの隣にいた剣士とは……。ロススタは、基本的にはこの2人の少女の話なのだが、まさかこの2人をあたしと流雫で……?
 ……流雫がやると決めた以上、自分だけやらないワケにはいかない。腹を括らざるを得なかったのは、まさかの澪の方だった。

 用意された簡易更衣室に同時に入って10分後、澪が先に出てきた。
 ヘソ出しでノースリーブの白いセーラー服とスカートをベースに、肩を覆う碧いケープが乗っている。白いロンググローブは、滑りやすそうで何だか落ち着かない。
 澪がルナと名付けたキャラのパートナーとなる、ロススタの主役。デフォルトの名前はミスティだったが、これも自分で変えられるために、澪はミオと名付けていた。
 ティアとミスティの2人は、しかし彼女の端末上ではルナとミオに名前が変わっている。……つまりは流雫と澪。普段遊んでいる同級生2人が知れば、大概引かれそうではあった。
 偶然、そして奇跡とは云え、或る意味念願だった流雫の美少女騎士のコスプレが拝めるなら、この高い露出度の剣士も受け入れるしかない……。そう開き直った彼女の前で、扉が開く。
 「……み、澪……?」
そう言って恐る恐る出てきた流雫に、澪は息が止まった。
 ヘアスタイル以外ほぼ同じ、どころか想像以上だった。流雫は男なのだが中性的な顔立ちで、恐らくそう言わなければ判らないほどだ。
 「すごい……」
澪は言葉を失っていた。スタッフも感嘆の溜め息をつく。それほどのことなのか……?と思いつつも流雫は、太腿と二の腕の露出に肌寒さを感じていた。
 黒で統一された衣装はノースリーブのトップにタイトなミニスカ調のボトム、それに樹脂で造形された鎧をベルトで固定している。深紅のケープは有るものの、澪のそれと同じように肩だけしか包まず、温かさは感じられない。
 イラストではティアとミスティには手首のブレスレットは無いが、流雫と澪はそれだけは着けていたかった。
 時間は正午前。流石に借り物の衣装を汚すワケにはいかないため、ランチタイムは返却した後だ。とは云え、今日は元々ノープランだったから、どうにでもなる。
 スタッフが、2人のスマートフォンを使って2人の写真を撮るが、2人揃って初めてのことで緊張する。しかし、最初の1枚で吹っ切れた。
 ……折角のレアな体験だし、羽目を外さない程度に楽しむ。そう決めた流雫は、澪の隣で微笑む。
 微笑を忘れた美少女騎士のキャラだが、数日前の大型アップデートで公開され……そして澪は既にクリアした最新エピソードでは、ついに微笑みを取り戻していた。
 その表情と隣の恋人が重なる澪は、これだけで今日は満足していた。尤も、今日は澪の家に泊まって明日もデートだが。

 樹脂製の剣を構えたり、剣を手にしたままルナがミオを護ろうとしたり、2人背中合わせになったり、今回のキービジュアルの再現をしてみたり。スタッフが乗り気で指定してきたポーズの撮影が終わると、スマートフォンを返された2人は、簡単な説明を受けた後で、電気街に放り出される。
 大通りを挟んだ電気街一帯を自由に動ける。自分たち以外にも仮装や、その範疇を超えたようなコスプレの集団もいる。そして30分前までは有り得ないと思っていたことに手を出している。流雫は、色々と不思議な感覚がした。
 しかし、澪は既に感無量だった。推しが隣にいる感覚の意味が判った気がした。ただ、ルナがミオを護ろうとしたシーンのポーズ指定では、2人がテロに遭った時を思い出した。
 ……今まで2人で遭遇したのは3回。臨海副都心のアフロディーテキャッスルと東京ジャンボメッセ、そして東京中央国際空港。
 その全てで、流雫が体を張って戦った。澪が引き金を引いたのは空港だけだったが、流雫は彼女が撃ったことを自分の過ちだと思っていた。自分が撃った弾が、犯人が着ていた防弾ベストに弾かれなければ、澪が撃つことは無かったのに、と。
 ただ、澪は過ちだと思ってほしくなかった。防弾ベストのことなど、あの咄嗟の速射で想定できるハズも無かった。それに、銃口を向けさせるほどあの黒幕の政治家を追い詰めたのは流雫だった。
 だから、澪は自分が流雫曰く「手を汚した」ことは、彼の過ちなんかではないと思っていたし、寧ろ今まで自分を護ってきたことを褒められ、讃えられるべきだと思っていた。それしかできないことに、少しの無力感を抱きながら。
 ふと我に返った澪は、自分の頬を軽く叩く。精一杯愉しみたいのに、何を思い出しているのか。

 駅前で、すれ違う人たちが2人に振り向く。同じように衣装を借りた他の人たちより、注目されているように感じる。それが何処か落ち着かないが、しかし澪は流雫がこの似合いっぷりだから仕方ないと、寧ろそれは流雫の恋人として誇っていいものだと、思っていた。
 スマートフォンを持った女子大生などから、ロススタが好きで一緒に撮ってほしいと言われてそれに応えたり、その流れで頼まれるまま2人で剣を構えてみたり。はたまた、小さな子供がたどたどしく
「トリック・オア・トリート!」
と言って近寄ってくると、コンビニで手に入れた個包装のクッキーやチョコレートをしゃがんで手渡したり。
 「こんなハロウィンも、偶には悪くないかもね」
と言って微笑む流雫は、何だかんだで今日のハロウィンを楽しんでいる、そう澪には見えた。……事件の話も取調も絡まない、久々のデートは始まったばかりだ。もっと楽しまないと。
 そう思った澪の後ろから
 「あれ?澪!」
と後ろから名を呼ぶ声が聞こえた。その特徴的な声に振り向いた澪は
「え?結奈!?彩花も!?」
と声を上げながら、目を丸くした。
 2人の同級生が並んでいた。澪の名を呼んだ、ライトブラウンで澪より短いセミロングヘアの少女は立山結奈。そして黒いロングヘアを大きな三つ編み2本に結い、眼鏡を掛けた少女は黒部彩花。
 澪と普段から一緒にいる2人は百合のカップルとして、澪が流雫と顔を合わせるより早く結ばれていた。
「今朝、暇だから行ってみようと決めて、今着いたばっかで」
「澪も来てた……って、あれ?流雫……くん!?」
結奈に続いた彩花が、澪の隣の美少女騎士に気付く。
「あ……」
思わぬタイミングでの再会に、顔を紅くしながら言葉少なに頭を下げる流雫。
 流雫は澪の同級生2人とは、5月のゲームフェスで澪のツテで知り合った。結奈の父親から招待券を回されたから行こう、と澪に誘われて行ったことがきっかけだった。
 ただ、流雫は初対面の2人との距離感を掴めないままテロに遭遇し、仕切り直しで台場で遊んでも、終始乗り遅れていた感に苛まれていた。ただ、3人が無事だったことが幸いだった。
 それから5ヶ月ぶりの再会。流雫はこれで2度目で、距離感が掴めず緊張していた。ただ、結奈と彩花は流雫に対して好評価で、また澪も絡めた4人で遊びたいとは思っていた。
 「流雫くん、澪の推しのコスプレしてるの?澪、役得じゃない!」
と彩花が言うと、その隣で結奈が続いた。
「澪も似合ってるし!あ、セルフィーしよう?流雫くんもいい?」
その言葉に一瞬戸惑う流雫は、しかし折角だからと頷いた。

 駅前のロータリーから、その反対側の大きなビルへと延びるペデストリアンデッキに上がり、背後に他の人たちが入らない向きで、4人が集まってフロントカメラを見る。広角レンズとは云え、少し窮屈なぐらいに固まっていた。
「いくよー」
と結奈は言い、互いにポーズを決めるとディスプレイに浮かぶシャッターボタンを押した。
 シャッター音が聞こえると、次は澪ががスマートフォンを取り出し、結奈に続く。そして最後は彩花の番だった。
「……しかし、2人揃ってゲームから出てきたみたい……」
とシャッターボタンを押した後で彩花が言うと、澪は頬を少し紅くする。流雫は微笑みながらも、ふと駅の改札前を見下ろした。
 そこには、今まさしく流雫と澪がしているのと同じロススタのコスプレをした2人組がいた。彼女たちも、流雫と澪が今着ているのと同じ衣装を身に纏っている。
 そして、人気のゲームの人気キャラの宿命か、2人のプチ撮影会が始まっていた。仮装した連中に撮られるコスプレ……それは何処かシュールだった。
 自分たちはただの体験で、罷り間違ってもああ云う注目とは無縁だ、と思いながら、流雫は笑い合う澪と同級生を微笑ましく見つめ、3人についていく形で階段を下りようとした。
 コスプレと仮装の境界線が曖昧なのだが、それが混ざる秋葉原のハロウィンも年に一度ぐらいは、そして澪がいるなら楽しいものになる。後は何も起きなければ、の話だが。
 「何っ……やっ!あっぐ……っ……!」
高めの声が、コンクリートに跳ね返る。
 流雫が階段の途中で止まり、顔を上げて駅前のプチ撮影会に目を向けると、1人……自分と同じ黒い衣装のコスプレイヤーが前屈みになり、それと同時に
「何するんだ!」
と怒号が聞こえた。それに反応した澪が無意識に、眉間に皺を寄せた恋人に振り向き
「流雫……!?」
と声を上げた。
 結奈と彩花と、惨劇に変わった駅前の光景を目の当たりにした。その瞬間、流雫は剣をペデストリアンデッキに置いたまま、紅いケープをはためかせて階段を駆け下りる。
「流雫!」
澪は彼の名前を呼び、後を追う。結奈と彩花も、それに遅れる形で続いた。

 階段の最後の3段を飛び下りながら、流雫は一瞬、7月の惨劇に似ている……思った。
 ……河月のショッピングモールの外で起きた、フードデリバリーを装った自爆テロ。今は亡き政治家の演説会を狙った連中の仕業に見えなくもないが、あれも黒幕のマッチポンプの一環だったことが、その後明らかになった。
 あれが或る意味、トーキョーアタックに端を発する一連のテロ事件のターニングポイントになったと、流雫は思っている。ただ、それと引き換えに澪の同級生が1人、命を落としたことは流雫にとっても大きかった。
 「っ……」
流雫は無意識に唇を噛んだ。
 ……流雫が日本人らしくない見た目だからか、今時の言葉を使えばディスってきた男、大町誠児。愛国心を少し履き違えた感が強く、澪や同級生も生理的に受け付けない存在だった。
 しかし、東京に住んでいるハズの大町が、山梨の河月へと出向いてまで政治家に噛み付いた。OFAとの関連が取り沙汰されていた貿易商社、帝都通商を経営していた父親を殺されたと、演説会のど真ん中で大声で怒鳴っていた。
 流雫は、その直後に起きた自爆テロに遭った大町の助けに駆け寄ったが、目の前で支持者に射殺された。流雫は撃ち返して無事だったが、あの瞬間のことは4ヶ月近く経った今でも、鮮明に覚えている。
 ……それだけじゃない、全てのテロの瞬間が、忘れようにも忘れられない。トーキョーアタックも、あの台風の空港も。
 それらを振り切るかのように、流雫は走った。

 うつ伏せに倒れている1人と、その隣で混乱している1人。流雫は前者に駆け寄った。地面に血が流れている。刺されているのか。
 流雫は同じ衣装を着たコスプレイヤーの隣で両膝を地面に突き、
「救急車を!」
と、澪と同じ白セーラー服ベースの衣装を着た、同行者らしいコスプレイヤーに強く言った。彼女は
「……は、はい……!」
が震えながらスマートフォンをバッグから出そうとする。しかしバッグから落とし、慌てて拾っていた。……混乱するなと云う方が無理が有る。
 流雫を追ってきた澪は、しかし彼の隣で
「ひっ……!」
と顔を引き攣らせた。流雫は思わず
 「またかよ……」
と呟く。
 ……またかよ。そう聞こえた澪は身震いがした。……それが意味するのは……今までと似た事件の臭い……?
「流雫……?」
と恋人の名を呼んだ少女の後ろから、結奈と彩花も駆け寄ってくる。流雫が先刻置き去りにした剣の小道具は、結奈が抱えていた。
 そのすぐ近く、駅舎に隣接した商業施設の前には人集りが有った。ディスカウントストアあたりで買ったような警官やピエロの仮装をした男4人組が、周囲から囲まれている。しかし、囲んでいる側も動けない。
 10人ほどの人集りの隙間から、刃物のようなものが見えた。それには、血がこびり付いている。
「まさか……!」
「そいつを捨てろ!」
「何やってるんだ!」
と男たちの怒号が響く。
 しかし、ふと漂ってきた異臭に流雫は手で口を覆う。ガソリンスタンドの前を通った時のような臭い……!?
「澪!」
シルバーヘアの少年が、剣士の衣装を纏った恋人の名を呼んだ、と同時に、人集りのほぼ中心から大きな火が上がる。囲んでいた集団が
「逃げろ!!」
と叫びながら四散した。
 ……コーヒーのボトル缶に入れていたガソリンを盛大に撒き、オイルライターで火を点けた。まさかの光景に
「流雫!」
と澪が叫ぶ。流雫は結奈と彩花に向かって
「逃げて!早く!」
と叫んだ。しかし彩花が
「でもこの人が……!」
と、少し混乱気味に言った。……倒れたコスプレイヤーの同行者はいるが、混乱している。……救急車が着くまでは動けない。……それなら。
 流雫の答えは1つだった。
「2人は逃げて!僕がいる!」
と答えた流雫に、結奈が
「でも流雫くんは……!」
と被せる。流雫はボーイッシュな澪の同級生に向かって、
「僕なら……死なないから」
と言った。……それは、自分自身に言い聞かせているように、澪には思えた。その言葉に潜む悲壮感に気付いた澪は、同級生に振り向き、言った。
「結奈と彩花は逃げて。あたしも彼女についてるから。早く!」

 2人の言葉を受けてペデストリアンデッキに逃げる、結奈と彩花の背を見送った澪は、流雫に身体を向ける。
 樹脂製とは云え鎧は動きにくく、流雫はこの目立つ黒と真紅の衣装を脱ぎたいが、例の簡易更衣室は閉鎖されている。……借り物の衣装のまま、どうにかするしかない。汚した時は汚した時だ。
 「澪も早く……!」
と言った流雫に澪は
「流雫が残るなら、あたしも残る」
と声を被せる。それと同時に、ロータリーに乗り付けた救急車のサイレンが止まる。リアハッチを開ける救急隊員が遠目に見えた。
 この役目は終わった、そう思った流雫は火の方へ目を向けながら、立ち上がる。それと同時に火の奥から4人が飛び出し、そのうち1人は2人に向かっていた。手には血が付着したサバイバルナイフが握られている。
 小道具の剣は有る、しかし所詮は樹脂製で脆い。自分の身を護ることすら無理だろう。ならば……。
 剣を地面に置いたまま流雫は
「澪!」
と呼んだ恋人を突き飛ばした。
「あっ!」
と声を上げた澪と反対に動いた流雫、2人は文字通り男の猪突猛進を避ける。1秒判断が遅れていれば、澪は今頃腹部を血に染めていただろう。
「このっ……!」
流雫は黒いショルダーバッグを力一杯振り回した。中には銃が入っていて、その分多少重い。それは背中に命中するが、まるで効果は無かった。
 ……抑止力は1つだけ有る。ただ、それはあくまで最終手段だ。そのことは、流雫がこの日本で誰よりも判っていた。

 トーキョーアタックを機に施行された改正銃刀法。テロや凶悪犯罪への抑止力と云う意味でのパンドラの箱だったそれは、銃に対して世界一厳しいとさえ言われていた日本が、一転して……当初は時限的なものだと言われていたが……銃社会となったことを意味していた。
 そして、この1年で日本での銃の流通量は、国民の半分が持っていることに相当する6千万丁に達していた。何時からか、何に対しても自衛と自助を要求されるようになった日本では、事実上持たないと云う選択肢は無かった。
 そのうちの1丁から、銃声が鳴り響く。それも6回。
「うっわあぁぁぁ!」
と悲鳴が上がる中で
「ざまぁ!」
と高らかに叫ぶ声が混ざっていた。澪はそれに、瞬間的に恐怖を覚え、流雫の隣に寄る。
「!まさか……!」
無意識に上げた澪の声に流雫は頷き、そして事が最悪の方向に転がり始めたことを覚悟した。

 ……最悪。それは犯人の返り討ちに遭うこと。そして、本来は護身のためにと銃を持った連中が暴走することだった。
 あの音と反動、そして犯人を鎮めたと云うヒーローとしての達成感に酔い痴れる危険性は、銃の講習会でも何度も言われていた。オンライン対戦で流行りのファーストパーソンシューティングゲームと混同しないように、と強調していたのが印象的だった。
 「どうして……僕ばっかり……」
と流雫は呟くと、ショルダーバッグのジッパーを開けて銃を取り出す。ブレスレットで飾られた手首の先に、その重さが伝わる。
 銃は6発のオートマチック、と云う仕様が統一されているが、数種類から1丁だけ選べる。流雫が選んだのは、サイズも口径も最も小さいタイプだった。乱用を避けるべく、特殊で複雑な販売システムで売られる銃弾も、最も火薬量が少なく直接の威力は他の銃より低い。そのために至近距離に特化した形だが、しかしその分、音が小さく扱いやすい。
 澪も、小さなトートバッグから流雫と同じタイプの銃を出す。一度だけ……8月に空港で撃ったが、あの時の反動と音は脳から消えない。それでも、流雫と自分が生き延びるためには、避けて通れない。
 ……流雫は、銃を悪魔だと言った。その意味が、澪には痛いほど判る。それでも。
 流雫は手に握った銃を構えず、男を睨み付けた。
「撃てるもんなら撃ってみろ!」
と男は大声で挑発したが、流雫は動じない。……動じないが動けない。そして、あの火の燃料……連中が未だ持っているなら厄介だった。
 台風の空港でも、全ては火炎瓶と化したタンブラーの爆発から始まった。あの時の光景を、流雫は一瞬だが思い出して唇を噛んだ。
 「撃て!」
「やれ!」
何時しか流雫と澪、そして犯人の周囲をヤジ馬が囲んでいた。……戦いが見世物扱いにされていることを、2人は思い知らされる。怒鳴っても、無視されるのは目に見えている。
 「あたしが……行きたがったばっかりに……」
澪は小声で言う。
 秋葉原でハロウィンイベントなんて、全く知らなかった。ただ、ホットケーキが有名なカフェに行きたいだけだった。
 しかし、偶然ロススタのポップアップストアを見つけて、思わず買い物をして、ノリで流雫にコスプレさせて……自分もすることになるとは思わなかったが……、でも楽しくて。それが一転、こんなことになるとは。
 ……そもそも、秋葉原に行くと言わなければよかった。澪はそう思いながら俯く。
「澪は悪くないよ……」
と流雫は言った。ただ、2人……澪の同級生も入れれば4人の運が悪かっただけだ。
 突然囲みの外から、一気に十数発の銃声が聞こえ、歓声が上がる。……2人の犯人が、集中砲火を浴びて公開処刑された。その凄惨な光景に何人かが気を失い、何人かが嘔吐するも、
「っ……!」
流雫は対峙する犯人から目を背けた。
「流雫……!」
と呼んだ澪は彼の左腕を掴む。今流雫が何を思っているか、痛いほどに判る、だから見ていられない。
 それと同時に、警察車両のサイレンが聞こえてきた。ようやく助かる……澪はそう思った。
 「何やってる!」
とサイレンを掻き消すようなヤジ馬の罵声が飛ぶ。流雫と澪だけが、その理由を知っていた。
 ……あの6発の銃声が本当に破壊したのは、群衆の理性だった。それに触発されたようなあの十数発は、箍が外れた群衆が文字通り犯人を蜂の巣にしたのだろう。
 そして、今は流雫か澪が残る1人を撃ち殺すことを期待している。まるで……。
「デスゲームじゃないんだ!」
流雫は叫んだ。それに澪も続く。
「こんなの私刑じゃない!」
 ……ゲーム中の戦闘シーンで見せる表情と寸分違わぬ、流雫と澪の表情に、ヤジ馬の一部は歓喜の声を上げる。ただ、これは現実に起きている、生き延びるための戦いだ。ゲームじゃない。
 その顔に触発されたからか
「早く撃て!」
「殺せ!やれ!」
とヤジ馬はヒートアップするばかりだ。
 サバイバルナイフを手にしたピエロ風の、少し太り気味の男は、10月下旬で多少なり肌寒いのに汗をかいている。予想外にヤジ馬が多いことに追い詰められているのか。
 ただ、追い詰められているのは流雫も澪も同じだった。
 「だ、黙れ!」
男が叫び、左手に持ち替えたナイフを振り回しながら流雫に向かってくる。……銃を除けば流雫の武器はその軽いフットワークと、アクション映画で見た知識だけしか無い。無いが、やるしかない。
 澪は咄嗟に流雫の腕から離れて左に逃げ、流雫はそれと反対に動く。標的に左右に避けられた男は足を止めた。流雫は下げたままの右手に持っていた、文字通りガンメタリック色の銃を左手に持ち替え、グリップを強く握る。手の甲を三角形に覆う黒のオープンフィンガーグローブは、幸い掌や指が露出していて握りやすい。
 しかし、引き金には指を掛けない。
 「ふっ!!」
軸となる左足に力を入れた流雫は、男の手首を狙って銃身を振った。真紅のケープが華麗に舞う。鈍い音を立てると同時に、振動が流雫の手に伝わる。
「ぐっ!」
男が低い声を上げ、右手で手首を押さえる。痛みに歪む表情から、恐らく骨を折ったか。しかし銃は落とさない。
 「撃て!撃て!」
「やれ!」
漸く動いた展開に、完全に他人事のヤジ馬は更にヒートアップしていく。それに苛立ちを覚えた澪は、シルバーの銃を強く握る。しかし、やはり引き金には指を掛けない。流雫同様に碧のケープをなびかせ、がら空きの脇腹に銃身を叩き付けた。グリップが滑らないように、グローブ越しに力が入る。
 「ごほっ!!」
男は目を見開きながら前屈みになり、ついにサバイバルナイフを落とした。しかし衣装のポケットから、別のコーヒーのボトル缶を取り出し、キャップを外す。
 「澪!!」
流雫が声を上げると同時に、澪は後ろに下がる。
「このっ……!」
と叫びながら、男が液体を撒く。澪が1秒前までいた場所にも透明の液体が飛散し、燃料の臭いが流雫の鼻を突く。
 「くっ……!」
顔を歪めた流雫は、ピエロの男がオイルライターのリッドに指を掛けたことに気付くと、咄嗟に地面を蹴った。……間に合え!

 リッドが開けられ、ライターの火が点いた瞬間、美少女騎士の衣装を纏った少年が動いた。真正面から全体重を掛け、銃の底面を右の掌で突きながら男の懐に飛び込んだ。バレルの角度を寝かせ、銃身全体を無防備の喉仏に押し付けると、
「がっ!」
と醜い声が周囲に響く。流雫は飛び込んだ勢いのまま、ピエロを後ろに押し倒し、馬乗りになる。重心が高い位置を狙ってバランスを崩させたのが奏功した。
「ごほっ!げほっ!!」
と噎せる男の手から離れたライターは、男の頭の先から2メートル離れた地面の上に落ちた。火は点いたままだったが、周囲に撒かれたオイルに引火することは無く、ただ風防からはみ出た火が空しく揺れているだけだ。
 澪が男の膝に手を押し付けて全体重を掛ける。暴れて流雫が振り落とされないように。
 それと同時に
「退け!」
と大声を上げながらヤジ馬を押し退けた、ダークグレーのスーツを着た男が1人。
「警察だ!!」
と叫んだ男は、ピエロの衣装を着た男に馬乗りになりながら顔を上げた、美少女騎士のコスプレをした少年に目を見開き、その名を呼んだ。
 「流雫くん……!?」
「え!?あ……!」
流雫は刑事に見覚えが有った。しかし、まさかこのタイミングで見られるとは。流雫は一瞬気まずくなり、思わず声を上げたが、喉仏に銃身を押し当てたままで、ピエロを取り押さえる力は弱めなかった。
「みっ……、弥陀ヶ原さん!?」
澪は流雫の前に立つ刑事の名前を呼びながら、その顔を見上げた。
 弥陀ヶ原陽介。警視庁に勤める刑事で澪の父、室堂常願の後輩。一連のテロに関する取り調べで、流雫と澪は何度も世話になっている。
 弥陀ヶ原は流雫が馬乗りになったままの男の腕を掴み、手錠を掛ける。流雫が
「ふぅ……っ……」
と溜め息をついて男から離れると、澪は立ち上がり、その隣に寄った。
 「流雫……!」
と彼の名を呼ぶ少女に、怪我は見られない。流雫は安堵の表情を浮かべた。……助かった。
 弥陀ヶ原は犯人を警察官に引き渡し、オイルライターのリッドを被せた。男は澪に脇腹を殴られたからか足取りは安定せず、半分引きずられるように警察車両に連れられていった。それと同時に
「何だよ!つまんねーな!」
「邪魔しやがって!」
とヤジ馬が次々に声を上げる。それに弥陀ヶ原は
「見世物じゃないぞ!散れ!」
と大声で噛み付く。
 ……人気ゲームのコスプレをした2人が、男を撃ち殺す。その痛快な様子を見ることができなかったことに苛立ちを露わにした連中が
「臆病者!」
「ヒーロー気取りしてんじゃねえよ!」
「期待外れが!」
と吐き捨てて去って行く。それと入れ替わるように結奈と彩花が
「澪!流雫くん!」
と呼びながら駆け寄ってきた。
 2人は、先刻4人でセルフィーしたペデストリアンデッキの最上段に避難していて、遠目に流雫と澪を見ていた。そして、8月に起きたこの界隈での青酸ガステロ事件で、河月にいた流雫を除く3人の事情聴取を担当した弥陀ヶ原をデッキ上から見掛けて、澪と流雫の元に駆け寄ったのだった。
 「結奈!彩花!無事!?」
澪が2人に問い掛けると、結奈は
「ボクたちは無事だけど、2人は……!?」
と問い返す。
「あたしは無事。流雫も多分……」
と答える。しかし、流雫の返事は無い。
 「流雫……?」
澪は目の前の恋人の名を呟くが、流雫はその衣装に不似合いな銃を握ったまま、4人から目を背けて俯いている。
 「……しかし、何が有ったんだ?」
と弥陀ヶ原は問う。
「それは、僕が知りたいぐらい……」
そう言った流雫は、唇を噛む。その表情が曇っていることは、澪には容易に想像がつく。
 「……流雫……」
澪はもう一度、彼の名を呼ぶ。今流雫が何を思っているのか、彼女にだけは判っていた。
「……澪……」
震える声で、最愛の少女の名を呼んだ流雫は背後へ振り向く。悲しげなアンバーとライトブルーのオッドアイの瞳で、ダークブラウンの瞳を捉えると、しがみ付くように澪を抱きしめる。
「るっ……!?……な……?」
「澪……!……澪……っ……!」
そう何度も呼ぶ流雫。耳から脳に刺さる震え声が、泣き声に変わった。

 流雫の苛立ちは、既に限界を超えていた。そして思い知らされた、テロ犯より厄介なのは、真の敵はヤジ馬なのだと。
 ……その目で見ていないが、1人目の犯人を撃った6発の銃弾は、正当防衛だったのかもしれない。だが、
「ざまぁ!」
と勝利宣言を放っていた。わざわざそう言うのは、犯人は自業自得とは云え恐らく死んだのだろう。
 それに触発されたのか、次の銃声は十数発……数人で集中砲火を浴びせたのか。そして歓声が上がったと云うことは、2人も死んだに違いない。正当防衛どころか、澪が叫んだところの私刑でしかない。
 そして、残る1人については、流雫と澪が殺すことを周囲は期待した。まるでデスゲームとして見ているかのように。
 無責任なヤジは止まない、だから流雫は、最後まで引き金を引かなかった。もしあの場で撃っても、外してヤジ馬に誤射するとは何故か思わなかったし、何より正当防衛が成り立つのは判っていた。しかし、撃てば連中にとって思い通り、最上級のSNSのネタになるのは目に見えていた。
 ……銃の引き金を引く。それがどう云う意味を持つのか、痛いほど判っている流雫と澪は、不正解だったとしても引き金を引かないことを選んだ。
 それは、人を撃つことを娯楽扱いされない、見世物にされないために、2人に残された唯一の選択肢だった。

 澪は、自分の耳元で泣く流雫の腰を真紅のケープ越しに触れながら、反対の手でシルバーヘアの後頭部を撫でた。しがみつく流雫の腕に力が入って、腕と肩が少し痛む。しかし澪は、顔を歪めつつも痛いとは言わなかった。
 ……生きること、死ぬこと、あたしを殺されないこと、そして流雫自身が生き延びること。その全てをバカにされているような気がして。……美桜さんの死さえも、バカにされた気がして。
 今感じているこの痛みは、しかし流雫が今抱えている痛みのように思えた。……だからあたしは……流雫の力に、癒やせる存在になりたかった。
「流雫……」
澪はただ、最愛の少年の名を囁くことしかできなかった。混乱に陥った秋葉原の繁華街で、彼が自分自身を見失わないように。

 アキバハロウィンウィークの初日は、即時打ち切りとなった。仮装の連中も減っていく。
 コスプレ体験会の最中だった2人は、当初の予定を1時間切り上げる形で衣装を返すことになった。グッズの会計で澪に体験会を勧めたスタッフは、別れ際に2人に
「すごく似合ってましたよ」
と微笑みながら言った。
 リップサービスだとしても2人は嬉しかったが、自分のスマートフォンで撮らせてほしいと頼んできて、感無量の表情を見せていたから、それは完全に本音だろう、と澪は思うことにした。
 ……流雫は、澪が満足していただけでよかった。澪は澪で、流雫が予想以上に似合っていたし、何だかんだでハロウィンイベントを愉しめていたことに満足していた。それだけに、あの事件でイベントを打ち切られたことが唯一の、そして大き過ぎる不満だった。
 高い露出度の衣装と樹脂製の鎧やブーツ、風に舞うケープから漸く解放され、動きやすさを取り戻した2人は、3人が待つロータリーの端に向かった。駅付近では鑑識と現場検証が行われている。
 「しかし流雫くんが、まさかコスプレとはな」
再会するなり、弥陀ヶ原は言った。
 1ヶ月ぶり……東京の刑事と隣県山梨に住む少年の間柄としては異様な頻度だが……に弥陀ヶ原と会った流雫は、しかしよりによって、あのタイミングで会うとは思っていなかった。そもそも、自身もあの1時間前には、自分が美少女騎士になるとは想像もつかなかった。
「流雫、似合ってたでしょ?」
と、コスプレ体験の張本人の澪が微笑みながら言った。
 ……少しだけ無理して笑ってみたが、完全には笑えなかった。澪自身も思うことが有るし、何しろ流雫は何も言わず、ただ表情を殺しているだけだったから。……あの惨劇を、たった数十分で振り切れと云う方が無理だが。
 「……さて、遊びに出ている最中に悪いが、また話を聞かせてほしい」
弥陀ヶ原は言い、LEDの回転灯を点滅させるシルバーのワンボックスのスライドドアを開けると、高校生4人を乗せた。

しおり