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3-7 False Flag

 澪が流雫のベッドの上で目を覚ますと、今日用にセットした目覚ましのアラームまでは未だ20分ぐらい残っていた。
 ……数時間前の余韻が、未だ残っている。2人がペンションに戻ったのは、日付が変わって30分ほど経った頃だった。そしてベッドで目を閉じたのは更にその5分後だった気がする。
 1日の最後に叶った奇跡が疲労を吹き飛ばしたからか、部屋に戻ると一気に眠気に襲われた。そして夢も見ないまま朝を迎えた。
 
 来客をベッドに寝かせる代わりに、タオルケット1枚だけでフローリングに転がっていた部屋の主は既にいない。その代わり、階下のキッチンでは、モーニングが振る舞われていた。
 その隅に流雫もいて、フライパンにガレットの生地を敷いている。澪が下りると、既に、澪の父やその後輩刑事、他の宿泊客はモーニングを済ませ、残るは澪だけだった。
 挨拶を済ませた澪がテーブルに座ると、流雫が切り盛りしたサラダと焼きたてのガレットを運んできた。
 蕎麦粉のクレープ、ガレットは彼の故郷でもあるブルターニュ地方の郷土料理で、中でもハムエッグを包むコンプレットは定番。ハムエッグトーストのクレープ版で、モーニングにも使い勝手がよい。
 正方形になるように端を畳まれ、露出する卵が中央に鎮座するガレットを前にナイフとフォークを手にした澪は、最初の一口で言葉を失った。5月に流雫がデートに持ち込んだのも美味ではあったが、持ち歩きのために少しアレンジした上、何より焼いて数時間が経っていた。しかし今は焼いたばかりで、熱を帯びている。
 先にトマトとサニーレタスのサラダを平らげた澪は、メインのガレットに神経を集中させる。……確かに、宿泊客に人気で、ほぼ毎日オーダーが有るのも判る気がした。
 無言で平らげた澪は、蕎麦粉の香りが残る口に濃いめのコーヒーを流し、微笑んだ。
「最高の朝だわ……」
そう呟く声が流雫には聞こえた。彼は安堵の溜め息をついた。
 モーニングを片付けた流雫はすぐに制服に着替え、鞄に銃とルーズリーフを綴じたバインダーを入れる。学校には行かないが、周囲の見た目が有る。
 流雫は玄関のドアを開ける。目の前に車が乗り付けられていた。運転席には弥陀ヶ原、ナビシートには澪の父の常願が座っている。高校生2人が後部座席に座ると、弥陀ヶ原はアクセルペダルを踏んだ。

 河月署に着くと、2人は昨日と同じ取調室に通される。扉の奥に入ると澪の父……常願と弥陀ヶ原の仕事が、そして流雫と澪の、一種の戦いが始まった。
 流雫が
「昨日あの後、2人でまとめたもので……」
と言ってバインダーを差し出すと、ベテラン刑事は手に取り、無言でページを捲っていく。
 数分の沈黙の後、常願は
「……やはり、マッチポンプ説と云うワケか」
と言った。
「昨日の件も、爆発前後の遣り取りで聞いたことが全て本当なら……」
流雫は答え、続けた。
「ただ、大町が嘘をついているとは思えなくて……。わざわざ東京から特急でも河月までやって来てまで、大嘘で貶めるなんて、どうも現実的ではなくて。OFA前理事の息子だと名乗っているし、顔出しなら尚更のこと……」
 東京から特急でも1時間半近く、そしてモール行きのバスに揺られること30分。高校生の身で片道2時間も掛けて、往復で数千円も使ってわざわざ行くには、それなりの理由が有る。大嘘で貶めるならSNSになり投稿すればよく、わざわざ相手の居場所に出向く必要は無い。
 「真実を直接ぶつけるために、衆人環視で公開処刑に持ち込み、父親殺しの真相を暴露したかった……?」
澪が流雫に続く。常願は2人に問うた。
「ならば、フードデリバリー風の男はどう見ている?」
 「……結果的に大町の口封じにはなったけど、大町がいなくても演説を妨害する連中が集まることは想定していて、自爆自体はその牽制のための既定路線だった」
と言い、出されたアイスコーヒーに口を付けた流雫は続けた。
「そして相手に罪を着せるか、そうでなくてもただの被害者に見せることで、自分たちへの同情を集められる。言論を、正論を、武力で抹殺しようとする卑劣な奴らの仕業だと」
 「……もしそうだったとしても、話を聞こうと集まっただけの人にとってはとばっちりだし、流石にやり過ぎだと……」
と、澪は流雫に続く。
「それに、その牽制のために自爆させるなんて……。それならわざと人を外して狙撃すればいいじゃな……、……えっ……?」
澪は続けていた言葉を止める。そして、あの日を思い出した。

 5月の大型連休最終日、池袋駅の東口で演説を始めたばかりの街宣車が狙撃された。澪はあの時、同級生2人……結奈と彩花……と一緒にいて遭遇した。
 幸いにも死傷者は出なかったが、発生から2ヶ月経った今でも犯人は未だに逮捕されていない。
「澪?」
流雫は澪の名を呼ぶ。澪は数秒経って、ゆっくり声を発した。
「池袋で起きた銃撃も、牽制のため……?」
「牽制と云うより、偽旗作戦だろうな」
娘の言葉に、常願は返した。澪は初めて聞く単語を繰り返す。
「偽旗……?」
 「敵になりすまし、敵の攻撃に見せ掛けることを指すんだ。上手くいけば、社会からの同情を得られ、相手は濡れ衣だが社会から糾弾される。戦争で相手国の……つまり偽物の旗を掲げて仕掛けるから、偽旗と呼ぶんだ。日本でも、地下鉄サリン事件の前夜に起きた。警察の捜査撹乱と、事件を起こした団体のアンチの仕業だと見せかけ、世間からの同情を集めようとしたんだ」
常願は普段耳にしない単語の説明をした後で、アイスコーヒーに手を付ける。
 流雫は問うた。
「澪が遭遇した池袋の件も、モールの件と動機は同じだと……?」
「俺から答えることはできないが、同じ可能性は有る。違う可能性も有るが、な」
常願は刑事と云う立場上、答えをはぐらかした。しかし、2人の話を聞いていた澪は同じだと思っていた。刑事と高校生、の前に父と娘だ。17年近く聞いてきた、話し方の癖で察しが付く。
 「……流雫くんに1つ、質問する。この黒幕が、犯人が判ったところで、君はどうする気だ?」
常願は問うた。
 「殺したい、美桜の仇を討ちたい。……とは思わない。ただ、1発だけは殴りたい、かな……。好きな人を殺された絶望感がどんなものか、それで思い知らせることができるのなら」
流雫は珍しく、過激な言葉を並べた。
 ただ、それは家族や好きな人、親しい人を何の理由も無く殺されたことへの、残された者が今も抱える悲しみや苦しみ、そして怒りを端的に表していた。

 彼女は報復など望んでいないハズだ、とサスペンスドラマのように誰かが言ったところで、流雫は聞く耳を持たないだろう。仮に美桜がそう思っていたとしても、1発は殴らなければ気が済まない。
 ……綺麗事を説いてくる連中は得てして部外者で、君のためを思って言っているんだ、を口癖とするような、アドバイスに見せ掛けたマウントを取りたいだけの偽善者だ。当事者にしか判らないものも有るが、連中には知る気など毛頭無い。
 澪はその言葉を聞いて、自分も彼と同じ境遇ならば、同じことを言うだろうと思った。ただ、流雫が殺されたとなると、本当に相手を殺しかねない……それもかなり残虐な方法で。そう思って澪は、少しだけ目を細めた。
 少しの沈黙の後、
 「……もうすぐ、あの政治家の取り調べが始まる。俺も立ち会うが、その情報を俺から洩らすワケにはいかん。……とは云え、県警の記者クラブ連中が押し寄せているんでな、今夜のニュースあたりに出るだろう。……尤も、お前らは鋭いからな……」
と常願は言う。
「鋭いなんて、褒め言葉だわ」
と戯けた娘に父は
「褒めているワケじゃないぞ」
と釘を刺す。
 「……しかし」
流雫は言う。常願は彼の顔を見る。
「どうした?」
「もうあれから1年が経つってのに、未だテロがこんなに起きてて……」
「俺もこんな風になるとは、思ってなかったぞ」
少年の言葉に被せるように中年刑事は言って、コーヒーを飲み干した。それに続くように後輩刑事は言う。
 「何がどうなっているのやら。しかし、我々が目を背けるワケにはいかない。何としてでも、今日本で起きているテロの謎に早く迫り、真実を明かさねば、次何が起きても不思議じゃない」
弥陀ヶ原の言葉に、流雫は警察関係者としての苛立ちを見た。
 ……あのトーキョーアタック以降、警察をも嘲笑っているかのように何件ものテロが発生した。再編成された特殊武装隊の配備は、政府の期待とは裏腹に根本的な抑止力にはならず、ただ不穏な空気が長期に亘って漂うだけだった。
「次、何処で何が起きるか……」
「人が多い場所を狙った……トーキョーアタックのようなのが最も厄介だ」
弥陀ヶ原の言葉に答えるように常願は言った。それは流雫も判っている。
 「自爆テロは、安全に対する人間の生理的本能、つまり自分の身の安全の確保を前提とした対応と云う、セキュリティの前提を根幹から覆す」
そう続けた刑事は、使い古された分厚い手帳を手にした。
 「例えば、この手帳が爆弾だったとしよう。俺がこいつをこの部屋で爆発させたい場合、普通は腕時計を改造したタイマーか、リモート起爆装置を仕掛ける。そして、トイレに行くなどと言って然り気無く退室する」
「前者ならセットした時間に合わせてそうするだけでいいし、後者なら時間を気にせず起爆スイッチを押すだけだ。そうすれば、俺は安全にこの部屋を爆破できる」
「これが、普通の手口だ。公共施設や駅なんかで、不審物には手を触れず近くの警備員や駅員などに知らせろ、と云っているのは、それがそう云う形でセットされた爆発物だったりするからだ」
常願はそこまで続けると、弥陀ヶ原は言った。
 「アメリカ同時多発テロ、名前だけは聞いたことが有るだろう?あれが不審物への対応の呼び掛けの発端だ。東京の地下鉄だけは、地下鉄サリン事件が発端だが。まあ、手帳なら誰かの忘れ物だろうと、まさか爆弾が仕掛けられているとは思わないだろうから、その盲点を突く意味では犯人にとっては有効だが」
その隣で、常願は手帳を自分のスーツの中に入れ、腹部を押さえる。
 「ただ、自爆テロはその前提が崩れる。実行犯自身が死ぬ前提だからな。例えば俺が自爆テロ犯だとして、今此処に爆弾を抱えているとは判りにくいだろう。確かに、少し腹は不自然に出ているかもしれんが、不審な点はそれだけだ。それまで警戒しようものなら、世の中の全てを疑わなければならん」
「モールの実行犯が装った、フードデリバリーだってそうだ。あのバックパックには、見知らぬ誰かが頼んだ何処かの店のメシが入っていると誰もが思う。まさか爆弾が積まれているとは思うまい。しかし、だからと全ての配達員が爆弾を積んでいる、そう疑って生活などできるか?」
ベテラン刑事の説明を、流雫はじっと聞いていた。
 「……防犯の常識が大きく変わった。そして、手口が多岐に亘る以上はこれから更にテロ……特に自爆テロと云う恐怖が生活を蝕む。俺も半世紀近く生きてはきたが、これほど四六時中張り詰めた緊張感を強いられる社会は初めてだ」
常願は言った。それは、流雫だけでなく澪もよく判っている。

 3月、東京の地下鉄車内で、線路に飛び下りた乗客が置き去りにしたバッグが爆発した。偶然乗り合わせた澪は辛うじて無事だったが、初めて遭遇した爆発物テロの惨劇に発狂しそうになった。東京を夜中に発つ12時間超のフライトを終え、パリのシャルル・ド・ゴール空港に着いたばかりの流雫に向けて、通話ボタンをタップしたから、どうにか正気を保てたようなものだった。
 「疑心暗鬼になっちゃうわ……」
澪の一言に、彼女の父は反応した。
「生きるために疑心暗鬼で、誰も信じることができない。悲しいかな、それが今の日本の現実だ。だからと云って、それに流されるのも間違っている」
その先輩刑事の言葉に、後輩刑事は続く。
「テロへの不安などに怯えることなく、安心して暮らせる社会を取り戻すのは俺たちの仕事だ。次のテロで更に犠牲者が出る前に犯人、黒幕を捕まえなければな」
 安全神話がとっくの昔に崩れた日本では、全てを疑わなければ生きることができないのか。だとすれば、人生そのものがあまりにも厳しい……と流雫は思った。
「さて、そろそろ俺は行く。弥陀ヶ原は引き続き2人を頼む」
常願は言い、取調室を出た。

 殺風景な部屋に残された3人。話を切り出したのは弥陀ヶ原だった。昨日のショッピングモールの件が話の中心だった。とは云え、流雫は昨日の時点で既に自分が知っていることは出し尽くしていた。特にそれ以外、何か変わったことが有るワケではない。
「……それにしたって、よく生き延びたものだ。何度テロに出会しても、怪我も無いのは幸運としか言いようが無い」
の弥陀ヶ原の言葉に
「死に損ない、かな」
流雫はそう言って苦笑を浮かべる。ただ、その一言が最も的確だった。
「……こんな所で死なない、殺されない。それだけで、どうにか生き延びてきたように思う……。だから、僕は生かされているんだと思ってる……」
と流雫は続けた。自分自身に言い聞かせるように。
 一瞬でも引き金を引くタイミングが遅れていれば、間違いなく殺されていた。それに、先に銃口を突き付けられていても、撃たれなかったことさえ有った。運がよかっただけでは説明がつかない、最早何かの力によって生かされているとしか思えなかった。
「あたしも、流雫は生かされてると思ってる。流雫はあんなテロなんかで死んではいけない、と思っている神様に」
と澪は言った。
 「神様」が美桜を指していることに、流雫は気付く。流雫しか会ったことが無い神様だった。流雫は思わず、呟くように名を呼ぶ。
「澪……」
その少女の目は、少しだけ凜々しく見えた。
 「テロで死ぬべき奴なんて誰もいない。本来、テロなんてものは起きてはいけないんだ」
と言った弥陀ヶ原の言葉には、説得力が有った。それは理想論に過ぎないが、それでも正しいことではあった。そもそも、理想論でしかなくても、だから理想論を語ってはいけないと云うルールなど、何処にも無いのだから。
「神様がついているのはいいことだが、神様を過信するなよ?如何せん、人間は不死身じゃない。寧ろ簡単に死ぬ動物だからな」
と弥陀ヶ原は言った。時々憎まれ口を叩くような言い方だが、言っていることは間違っていないと2人は思った。

 常願が重要参考人2人から遅れて取調室から出たのは、夕方だった。高校生2人を相手していた弥陀ヶ原は、成り行きとは云え途中で安いながらもランチを奢ったりもしていた。だからか、半分働いたような感じがしない。
「伊万里、どうでした?」
高校生2人を取調室に残したまま、弥陀ヶ原は問う。
「……あくまでも、あの自爆テロに関しては自分たちは被害者だと言っている」
と常願が答えると、弥陀ヶ原は更に問う。
「白水も同じですか」
「弁護士の接見が有るまで黙秘を続け、来た後はあくまでも関与を否定している。伊万里と同じように、我々は被害者だとの一点張りだ」
そう言って、常願は続ける。
「ただ、選挙戦の出端を挫かれた上にニュースにも上がったあの動画で、恐らくは逆風があの陣営に吹き付けている。どう逆転勝ちを狙うか、今頃頭を悩ませているだろうな。その伊万里は20時発の福岡行きの飛行機で佐賀に戻るらしい」
 「……選挙戦、気になりますね。ちょっと下へ行ってきます」
と言い、弥陀ヶ原は階下へ下りる。トイレ前の自販機で飲みたい缶コーヒーが売り切れで、下のフロアの自販機を目指した。
 常願は1人、自分が担当した取調を思い出していた。警察に対しても終始高圧的で、取調に対して抗議すると言っていた。
 ただ、それは予想通りだった。そして、その硬化した態度は逆に、自爆テロや一連の事件への関与を自ら示唆しているように思えた。関与していなければ、こう云う態度に出るとは思わない。
 「室堂さん、昨日のモールの自爆犯ですが、DNA鑑定の結果該当する人物は見当たりませんでした」
と弥陀ヶ原は言いながら、A4の紙を1枚持って戻ってくる。自販機の前で、県警の刑事から渡されたらしい。
「見当たらない……?」
「外国人の可能性も有り、入国記録も参照しましたが、そっちも出なかったようです。何者だ……?」
と弥陀ヶ原は言う。
 常願は、20年以上の刑事キャリアで最も大きな難題に直面したように思っていた。そして今、その頭で弾き出せる限りで最悪の事実である可能性が急激に高まっている。
「何か、思い当たる節でも?」
県警の刑事は問う。常願は言った。
「……駒だと思う」
「駒?将棋の駒のような扱い、ですか?しかし誰の?」
と問うた後輩刑事に
「……誰のかは、これから明らかになるだろう」
と先輩刑事は言い、呟くように続けた。
「少しでも平穏裏の結末を期待したいがな……」
 しかし、同時にシルバーヘアの少年がベテラン刑事の頭に過る。娘の恋人が1人で辿り着いた答えが正しい、と現状では思わざるを得ない。
「大した奴だ……」
と呟いた常願は、無人になった取調室に戻った。

 河月署の前には、黒塗りの車が止まっていた。高級セダンが2台、それはOFAが手配したものだった。
 コメントを求める報道陣の呼び掛けを全て無視して、伊万里と白水はそれぞれ別の車の後部座席に乗る。2台はハイエナのように群がる集団をクラクションで威嚇し、連なって動き出した。
 その後に父の常願と弥陀ヶ原、そして流雫と澪が1台の車に乗り合わせ、河月駅へと向かった。
 駅のロータリーで流雫が降りると、父は言った。
「澪も此処から列車で帰ってほしい。俺と弥陀ヶ原はこれから臨海署へ行って、昨日からのことを報告書にまとめねばならん。列車代は帰って渡す。……早く帰れ」
「判ったわ。……気を付けてね?」
と澪は返し、シートベルトを外した。
 帰宅ラッシュで混むロータリーから、澪の父と後輩刑事を乗せた車が出て行くのを見送った高校生2人。此処から流雫はバスで帰り、澪は2時間掛けて列車で帰ることになる。
 豪雨災害の影響で、特急は復旧するまで運休らしく、快速列車しか無く時間が掛かる。それに河月駅から甲府方面は、先に復旧した高速道路を走る代行バスが鉄道の補完の役割を果たしている。その影響か、駅前は鉄道とバスの乗換客で普段の帰宅ラッシュよりも混んでいた。
 ……この2日間も、色々なことが起きていた。そして、流雫と2人きりでいられたのは夜だけだった。それでも、7月7日最後の数分間が魅せた魔法に酔い痴れた。2人で見上げた天の川は、澪にとっては今まで見てきたどの星空より綺麗だった。
 「……じゃあ、行かなきゃ」
澪は言う。そう早く切り出さなければ、何時までも動けない気がした。
「うん。……気をつけてね。次は夏休みだね」
と言った彼に
「うん!流雫、またね!」
と声を弾ませてみた澪は、流雫と掌を合わせて離した。
 少しだけ伝わる熱に、互いの存在を感じている。しかし、何度そうやっても物足りない、そのもどかしさも滲ませていた。

 昨日の夜中の余韻に浸りながら列車に揺られていた、澪のスマートフォンが鳴る。同級生からのメッセージ通知だった。
「今日、やっぱり教室が重かった」
と吹き出しの中に書かれている。飼い犬のポメラニアンの写真を使ったアイコン、その下に結奈と書かれた送り主に、澪は返す。
「仕方ないよ、何だかんだで同級生だもの」
結奈と彩花には、ただ用事で河月にいて、今日は学校を休むとだけ伝えていた。
 昨日何が起きたかは、クラス用のグループメッセージを経由して全員に伝えられている。そして澪だけが、その真実に触れようとしていた。それは、触れざるを得ないからだったが。
 「しかしテロの犠牲って……」
と結奈は打ち返す。
「ジャンボメッセの時もそうだったけど、何時何処でどんな形で被害を受けるか判らない。疑心暗鬼になっちゃうよ」
澪は答える。
 明日、結奈だけでなく彩花も交えてこの話をすることになるだろう。楽しい話ではないが、事情が事情だけに仕方ない。澪はそう思いながら目を閉じた。

 翌日、澪は学校へ向かった。結奈と彩花が真っ先に出迎えたが、教室の雰囲気は重苦しく感じた。……流雫の学校も、あのトーキョーアタックの直後はこんな感じだったのか、と思うと朝から気が重くなる。
 確かに大町は、普段の言動から疎ましく思われていたが、テロの犠牲になることは誰も予想できなかったし、望んでいなかった。
 6月に殺された父親の無念を晴らそうと、一矢報うべく河月に行き、返り討ちにされた。ニュースでも流され、そして今もSNS上では拡散と削除が繰り返されている動画は誰もが見ていた。
 その感想として、バカなことをしたと嘲笑う生徒もいたが、澪は笑うことはなく、それは結奈や彩花も同じだった。

 放課後、ようやく重苦しさから解放された澪は、大きな安堵の溜め息をつくと席を立つ。
 結奈や彩花の3人と、少し寄り道することにした。駅前のドーナッツショップに入り、ドリンクとドーナッツをトレイに載せて4人用のテーブルを囲む。
 「澪は河月で何してたの?」
と、結奈はウェットティッシュで指を拭きながら切り出した。
「流雫がテロの場に偶然居合わせて……」
と澪が答えると、目を見開いた彩花は
「偶然って、彼……怪我してない?」
と問う。澪は
「うん。無事だった」
と答えた。
 ……それは正しくも、間違ってもいた。流雫は怪我していなかった、但しあの細い体に限って言えば。
「ただ父も流雫のことを知っていて、今回のことで話を聞きたいからって。それについて行っただけよ」
と言った澪に結奈は言う。
「それだけ気になるんだ、流雫くんのこと」
「当然じゃない。……でも、それだけじゃないの。……話していいのか迷うんだけど……」
と澪は言い、テーブルの真ん中近くまで身を乗り出して小声で言った。その目付きは険しい。
 「……流雫、死に目に会ってるの」
「死に目って、大町の……?」
結奈と彩花は同時に口にした。目を見開き、背筋が凍る感覚に襲われる。
「……うん。その一部始終を見てて……。辛いのを抱え込んでいると思うと、つい……」 
と澪は言った。
 ……流雫からの着信を受けた澪は、話しているうちに彼が銃を撃ったと知る。そして澪に会いたがっていた彼に
「2時間だけ待ってて。絶対行くから」
と言った。
 2時間、それは埼玉県とのほぼ境界線から、河月市街地までの最短所要時間。逆に言えばこれより早くは着けないのだが、2時間と云う時間がこれほど長く感じたことは無かった。
「死に目って……」
彩花は呟くような声で言う。
 「ジャンボメッセでディスってきた、でもだからと死にそうな人を見捨てるワケにはいかない。それが流雫の強さだし、……弱さだと思ってる。そのために自分が苦しみ、泣いていいってワケじゃないから……」
澪は言い、背もたれに体を預けた。あの時の流雫の声も表情も、全てが鮮明に蘇る。
 「……こっちは昨日からあんな感じだった。朝、この件で特別授業が有って、そこから授業は普通通りだったけど。命の尊さや重さ……、言いたいことは判るけど、テロ犯にそれが通じるなら、誰も死なないよ」
結奈が言うと、彩花が続いた。
「何か、授業中も誰もが上の空だった感じがする。私もノートは書いたけど、板書をただコピーしていただけで、説明は何も入ってこなくて」
3人は同時に溜め息をつき、気を取り直そうとそれぞれがオーダーしたアイスドリンクに手を付けた。
 「雰囲気が元通りになるまでは、もう少し……掛かるかな」
彩花は言う。結奈は
「多分」
とだけ答える。しかし澪は、そう思っていない。元通りになることは無い、それが彼女の答えだった。

 教室に1つだけ取り残された、主を失った机と椅子が目に入る限り、かつてそこに同級生が座っていたのだと思い出させる。だからと云って、教室から排除すれば済む話でもないし、それは違う。
 ……流雫も、あの彼女の席だけが置き去りにされていて、毎日思い出していたのだろうか。そう思うと、自分が彼の存在を未だ知らなかった頃、どれだけ辛かったのかが垣間見えた気がして、澪は言葉を失った。
 例えば、今この場にタイムマシンが有って、タイムスリップしてあの頃の彼に会うことができたとしても、澪は多分何も言えないし、近付くことすらできないだろう。
 ただ、彼の苦悩を目の当たりにしながら、何もしてやれない自分への、遣り場を失った怒りに苛まれた挙げ句
「タイムスリップなんて、しなければよかった」
と、嘆きながら今に戻ってきただろうから。
 唇と舌を濡らすノンシュガーのアイスラテは、溶け始めた氷で少し薄くなっていたが、普段より苦い気がした。チョコ掛けオールドファッションの甘味に助けを求めたが、それも期待外れに終わる。何時もは好きな味なのに、やはり気が重いと味まで変わるらしい。
 だからと云うワケでもないが、3人は話題を切り替えることにした。夏休みをどう過ごすか、或る意味では重要な話だ。ただ、ああでもないこうでもない、と好きなように想像……もとい、妄想するこの時間が実際のところ何より楽しい。
 3人は数日ぶりに笑った。少し気が楽になった。そう思えるだけでも、大きく違う。そして気付けば、もう1時間が経っていた。揃って店を出たが、澪はふと足を止めた。

 この3人で一緒にいる日々が、誰かの手で終わりを迎えることは避けたい。流雫と同じぐらい、結奈も彩花も好き。だから、自分が死ぬワケにはいかないし、2人も殺させはしない。
 ……そう澪は思いながら、一足先に改札に消えようとする2人の背中を追った。

しおり