3. 灯幻の森
南門を出てどのくらい歩いただろうか。
人工物まみれの背中、自然の広がるつま先。
人類の繁栄、君臨、存在、そんなものはこの世に無かったかのように、自然が支配した世界が広がる…… 食物連鎖の頂点から、じわじわと底辺に落とされていく。
「もう大都市の面影もありませんね」
「そういえば、レンさんはエイガル山の出身でしたね。自然の環境は、私より慣れてらっしゃいますよね」
「エイガル山とは、全く違う気がします」
「ほう、自然にもいろいろあるんですね」
ロークは首を傾げた。
「いえ、いろいろあるというよりは、森までのこの道が、ほかと違う顔をしています」
ロークは、わたしが言ったことをある程度理解ができたのか
「たしかに。足元の雑草は、私たちを歓迎してるようです。一歩一歩踏み込む度に絡みついて離れません」
「歓迎ならいいんですけどね……」
——ようやくの訪問者…… きみたちも楽しいのだろう。でも、山のみんなとは表情が少し違って見えるよ。きみたちは、わたしたちをまるで嘲笑っているかのような顔をしているね。
この先、どんな世界が待っているのか想像もつかないけれど、森へ向かっているだけで、呼吸が重くなる。
右手にうっすらとエイガル山が見える。そう、リオグラードへ向かうとき、それは今朝、わたしはこの場所を反対方向へと歩いた。目的が変われば、そして、向かう方向が変われば、生い茂った草木たちも表情を変える。きみたちも生き物だ。当然なのかもしれない。
エイガル山の左側面を迂回して、あの森の正体が肉眼に現れてくる……。
「彼は…… スウィン・ジョーは、晩年あの森でひとり、物書きに耽っていたといわれています」
「こんな森に…… ひとりで……」
「ええ、子供たちが持っていたとされる絵本。ご家族などの証言を照らし合わせていくと、いつも彼の名前と出会います。その時から、この森が私の頭から離れた瞬間はありません」
——「まさか、あの場所か」 あの時、取調室でロークが示した反応に、わたしはようやく辻褄を合わせることができた。
ロークは、ほかにも何かを隠しているのだろうか。わたしの知らない情報を。
「ほかには、この森に関する情報などはないのですか」
ロークの目線が逸れる。
「情報ですか…… 情報なんてもの私はおろか、憲兵全体でもほとんど持ち合わせていないでしょう。私たちが持っているものは、噂、可能性、そして、ある種の願望のようなものです」
「願望……」
彼は目線を空へと向けて、わたしの疑問に答えた。
「こんな鮮やかな夕暮れを見上げ、今から雨が降るなんて言って、だれが信じますか。降るかもしれない。降らないかもしれない。それと同じです…… 彼が関わっているのかもしれない。この森に答えがあるのかもしれない。あってほしい。真実を証明してほしい……。 その程度です」
「それが願望ですか……」
正直なところ、ロークの言っている意味を、わたしはすべて理解できたわけではない。しかし、情報と呼べる代物は、取調室で話したことがすべてなのだろう。だからこそ、わたしとともに、この森へ行くという選択肢しか残されていなかったのかもしれない。それが、ロークの言う『願望』なのだろう。
「そろそろ日が暮れる。今日はここまでにしましょう」
ロークの一言に、わたしは違和感をおぼえた。
——あれ…… おかしい……
「はやい……。 いや、おそい……」
異変に気が付いたわたしは、その違和感を無意識に口に出していた。
「どうしました、また、森に呼ばれていますか」
ロークの眉間には皴ができ、ゆっくりとした目線でわたしの顔をなぞる。
「わたしは…… わたしは、エイガル山を下ってリオグラードに着くまでに、三日ほどかかりました。山を下るのに半日、そして、この風景を背にしながら二日半ほど歩いたのです…… 灯幻の森はエイガル山のさらに奥なのに…… わたしたちは、もう森の一歩手前まで来ています」
普段は気にならない風音さえ、わたしたちの身体を舐めて、草木に擦れ、悪魔の息吹に仮装している。たったひとつの不可解な事実がそこに浮かび上がっただけで、足元から広がる景色は、姿を変える。
「そんなことがあり得るのか……」
ロークはその事実を否定したそうに…… しかしながら、自身もその不可解な事実をわたしと共有しているからこそなのか、混乱した表情を見せたまま地面を見詰める。
「気付かされた…… そもそも、一冊の絵本が子供たちの思考に触れ、この森へ足を運ばせているなら、そこまで不可解なことではないのかもしれない」
本当にそうなのだろうか。もちろん、事実は事実でしかないけれど、ロークは本心からそう思っているのだろうか。わたしには、自分に言い聞かせているだけのように聞こえる。
今は、用意されたこの世界を受け入れ、身を任せるしかほかない。抗ってしまえば、わたしたちは一体どうなるのだろうか…… そもそも、抗うことなんてできるのだろうか……。
柿色に染まる空に、どこからか流れてきたであろう白雲さえ頬を染める。地上では、影の背が伸び、緑の世界に別れを告げ、一瞬の金色に輝く。そして、いずれは空も地上も分け隔てる色さえ失い、暗闇がこの世界を制す。
問題はわたしたちだ。この暗闇の中では進むことも、休むこともろくにできない。
「なぜだ……」
ロークがつぶやく。
「どうしたんですか」
わたしがロークのほうを向いた時には、彼の顔は真っ青だった。
「なぜ…… 私は、食料を置いてきたのだ…… 火の用意すらしていない…… すべてを置いてきている」
確かに、ロークはすべてを置いてきている。憲兵の上官であろう人物が、そんな過ちを犯すものだろうか……。
「なにかがおかしい。いや、すべてがおかしい。灯幻の森へ向かうと決めてから、すべてがおかしい。なんなんだ一体」
「悩んでも仕方ないと思いますよ。わたしたちにできることは限りがありますから」
いつも以上に落ち着いている自分に、思わず笑ってしまいそうになる。諦めからなのか、それともほかの感情なのか、どちらにしても今のわたしには、この世界の進む先に邪魔をできるほどの力は持っていない。
ロークも同じ意見だったようで、深く頷き、その場に胡坐をかいた。
「どうせこの場にいても、することなんてないんだ。すこし休憩したらまた歩きましょう」
「そうですね。行けるところまで進んでみましょう」
視界の色が落ちていく……。 夕日が沈み切ってしまえば、わたしたちの姿を照らす光は消える。ロークがどんな表情を浮かべ、どんな姿勢をしているのかも、今となっては見ることもできない。それはロークにとっても同じことだろうけど、わたしもロークも、お互いに一言も発さず、風の揶揄いに植物たちが身体を擦る音だけが、辺りを彷徨う。
どれぐらいの時が経ったのだろう…… といっても、ここでの「時間」と、わたしたちの認識している「時間」はまったくの別物。時間を気にすることさえ、無駄なような気もする。
今日に限って星のひとつも光らない。わたしたちの困惑するさまを見届けるために、すべてが揃っている。用意された舞台で見世物にされているようだ。
「ロークさん」
「ロークさん」
返事がない…… 寝ているにしては、気配も感じない。どこへ行ったんだろう。彼が動いた音も気配も感じることができなかった。
——消えた。
誰かが連れて行った様子も、ローク自身がここを離れた様子もなかった。暗闇に沈んだこの空間において、彼は当然、姿を失った。
再び、恐怖の感情がわたしの肩をつかんでくる。
「こわい……」
この場にとどまるのも怖い。この先に進むのも怖い。引返すべきなのか…… 背中を向け、歩いてきた道を戻れば、リオグラードへ帰れるのだろうか…… わたしは帰れない気がする。
恐怖に身体を震わせながら、わたしは、小さく前進する。いずれ、わたしも消えてしまうのかもしれないという可能性を、受け入れることはできないけれど、それでも、可能性としてわたしの中に暮らしていれば、可能性が事実に変わるその瞬間、取り乱すことを少しだけ抑えれるかもしれない。
ひとりになると、足が重い。一歩への疲労感が尋常ではない。ロークの存在意義は…… ひとりではないという意義は…… 失ってから気付く。
森へ向けて歩き続ける。ひたすら歩き続ける。歩いていることを証明できるのは、わたしの筋肉の動きでしかない。過ぎ去る景色も、近づいてくる森も、この暗闇の世界では、確認すらできないからだ。
ここまでの闇夜は、エイガル山でも経験したことがない。なにしろ、星ひとつ光らない夜なんて、わたしが生きてきた中では、そんな夜は記憶にない。そう、経験のないことばかりが起きている。異常事態の連鎖で、正常な存在こそが、むしろ異常になってしまうほど……。
足を撫でる草木が消えていく…… 雑木林を抜けたのか…… 依然として、辺りは植物の揺られる音がする。
わたしは屈んで、地面に手を降ろす。
芝生だ…… 開けた空間に出たのか…… 光のない世界で、自分が今いる空間を把握することが、こんなにも難しいと、地面から足裏へ伝わる感触の変化にこんなにも神経を割かれると、改めて実感させられる……。この暗闇において、実際に触れた感触や、触れたモノの反応を得てからはじめて、わたしは情報を得れる。この暗い世界では、現実とは思えない状況が続いている。これほど自分にとって都合の悪い環境も珍しいかもしれない。
揺れる草木も居なくなり、辺りは異様な静けさと、無の音が鳴り響く。むしろ、この世界において、こっちのほうが「普通」なのだろう。生命の呼吸も、羽で風を斬る摩擦音も、ここにはない。わたしだけ。ここにいるのはわたしだけ。
灯幻の森と呼ばれる地域に、わたしは足を踏み入れたのか、それとも、まだなのか、それすら把握できていない。
進んできた道に背を向け、ひたすら進む。すでに、感情による身体の支配と繁栄の時代は終わっている。怖くても、楽しくても、嫌いでも、足取りは変わらない。義務的な労働のように、ひたすら足を進める。
それは、突然現れる。
「うっ」
急に光が差し込んで、わたしの周囲を照らす。周囲は、太い幹を軸に上下左右と大きな枝を伸ばしている木々の世界が広がっている。その木々の間隔を、長めの芝生がつなげている。
美しい。そのことばでしか表現できる術を持っていないことが残念。空から降り注ぐ柔らかい光が枝葉に散らされ、何本もの天への梯子を、芝生や苔で装飾された地面に立掛けている。
空を見上げてみても、月も太陽もそこにはいない。あいかわらずの暗い空、この森だけが光り輝いているのだろう。ここにくるまで、この光を外側から見ることはなかった。この世界での非常識で、わたしの常識だと、この場所が光っていたなら、ここに足を踏み入れるもっと前から、この場所の、この光を、遠くに捉えていたはず。しかし、まるで自分の家のように、外からは真っ暗で、自分が部屋に入って明かりを照らして、はじめてその光を体感できるのと似ている。
光をというのは、人を安心させる。たとえそれが森の悪戯だとしても、暗闇の迷路に比べれば、それこそ我が家に帰ってきたような安心感がわたしの身体を染める。
おそらく、ここはもう「灯幻の森」なのだろう。ロークはこの光景を見たのだろうか、わたしと同じように、美しさに圧倒されたのだろうか、彼は一体どこにいるのだろうか……。
じわじわと、視界に靄がかかっていく…… 薄暗く辺りを照らす光が次第にぼやけ、時間がゆっくり流れて視界が遠ざかっていく…… 意識も虚ろになっていく…… これが、ロークの言っていた幻想の舞台なのか。わたしの瞼が落ちていく……。
青い月が雲を照らし、森を照らし、わたしの肌を照らす。
月光に染まる枯葉の絨毯に根を張る巨木が幾本も聳え立ち、枝に生っている赤い果実には顔が彫られていて、わたしを見詰めて笑う。
——森の表情がさっきまでと違う。
わたしは、違う世界の、違う森へと迷い込んだのだろう……。 不思議な体験を繰り返したわたしは、自分でも驚くほどに、心は落ち着いていた。
わずかに存在する並木道を進むと、そこには海が広がっていて、この海もまた、青く輝く月夜の中、海面に触れてしまいそうなほど低い霧とともに、薄暗い青に染まる。
この一帯が縹色に染まっている。
——おいで。
誰かに呼ばれた気がして、海を背にして振り向く。
継ぎ接ぎ人形のような男がひとり、そこには立っている。ボロボロな布切れを、これまた継ぎ合わせてつくったような褪せた色とりどりのスーツ姿でわたしを見詰めて立っている。
男の後ろに目を向けると、わたしが通ってきた並木道が消えている。わたしの歩いてきた景色は、いっさいの痕跡も残っていなかった。
「お待ちしておりました」
男は継ぎ接ぎの顔に皴を寄せ、にっこりと笑いながらそう言う。
この場所についてか、男の正体についてか、消えたロークについてか、わたしは、目の前に立っている継ぎ接ぎ人形に何を聞けばいいのか迷っていた。
ややあって、再び男が口を開く。
「ジョー・スウィン」
わたしは、すぐさま理解した。
「あなたがそうなの……」
「はい。わたしがジョーです。ちなみに、『スウィン・ジョー』ではなく、『ジョー・スウィン』が本名です。以後お見知りおきを」
「ジョー・スウィン…… あなたが書いた本には、『スウィン・ジョー』と記載されていたけど……」
「敢えてですよ。自身の名前を入れ替えるほど、調度よい違和感や、間抜けさを演出するにぴったりな文言は、なかなか見つかりませんからね。まあ、筆名のようなものです」
ジョーは、終始にこやかな笑みを浮かべ、話し続ける。
「しかしまあ、あなたたちは、気が付かないのか、一切の違和感も感じず、淡々と私の名前を記憶していましたね。がっかりしましたよ」
「どういう意味。わたしたちの会話を空から見ていたとでも言うの」
「まさか、私は神ではありませんから、そんな非現実的な術は持ち合わせておりません」
こんな非現実の集合体のような男が、そんなことばを言うとは思ってもみなかった。
「この状況も充分非現実的だと思うけど……」
「まあ、そうですね。しかし、一度でも現実で起こってしまえば、『非現実』は『現実』となります。そういう意味では、あなたたちの会話を空から見ることも、一概に非現実的とは言い切れないのかもしれませんけどね」
相手の空気に飲まれている……。 掴みどころのない話し方に、この場のためにわざわざ着替えたのかというほど、調和の取れているその容姿……。
「ロークさんは……」
この空気に飲まれながらも、わたしは、みえみえの強がりと平然を装うほかなかった。
「ここではなんですから、私についてきてください」
彼に従うしかない。今の様子だと、ロークはおそらく無事なのだろう。ジョーはなぜ、わたしではなく、ロークを連れ去ったのだろう…… 明確な理由でもあるのだろうか……。
ジョーの後ろをついていくと、増々と、彼が人形に思えてくる。肩まで伸びたオレンジの髪を後ろにながして、桑の実色のスーツに所々鉛色のような、薄い灰色の継布が当てられている。袖の下からは、らくだ色の肌をした手が垂れて…… もっとも、身体も継ぎ接ぎなのだろう、手と、髪の隙間から覗く首筋、そして、先ほどまでわたしを見詰めていた彼の顔、それらすべてが色違いで、共通点といえば、人肌とは程遠い繊維質な見た目だということだけだ。
「あなたは生きているの」
わたしは思わず訊いてしまった。
「あなたにはどのように見えますか、生きるという定義が、人間の普段生活している環境下において、人間から認識できる物質であるということが最低限の条件ならば、私は生きているとは言えないでしょうね。魂や精神といった曖昧な存在を基準に落とし込み、生死の判断をするのであれば、私は生きているのでしょう。私だけではなく、神や霊も生きているといえるでしょう」
「つまり、この世界ではあなたは生きている。ということかしら」
「あなたがそう思われるなら、私は、この世界で生きているのでしょう」
曖昧に濁すジョーにすこしだけ腹が立つ。不思議者と思われたいのか、自身の身元に関係することは隠したいのか、理由はわからないが、回りくどい答えしか返ってこないことへの苛立ち。
「あなたは、わたしたちの正体を知っているくせに、わたしには自分の正体を明かさないのね」
この期に及んで…… こんな場所に連れてこられて…… 苛立ちを抑える必要もないと、わたしは、感情のままにそう言ってやった。
「あなた方の正体とは、私は『正体』という線引きされた概念に興味を持ちません。何をもって『正体』と判断しますか、人間は誰しも複数の顔を持っています。家族の顔、恋人の顔、仕事の顔、そして孤独の顔、もっと細かく別けることも容易でしょう。それぞれが独立して、時には連動して、それらすべてが正体であり、その集合体もまた、その人の正体といえる。つまり、今あなたの中で想像される私も、あなたの中での私の正体なんです」
わたしは完全に理解することが出来ないでいた。
「わたしの中のあなたが、あなたの正体……」
ジョーは、目を細くして、より一層笑みを深める。
「はい。例えば、私がどこかの子供を数人殺した…… としましょう。子供Aの母親からすれば、私の正体は、Aの命を奪った殺人鬼。子供Bの母親からすれば、私の正体は、Bを殺した殺人鬼。それ以外の人たちからすれば、私の正体は、十五年前に死んだ小説家。『死んだ小説家である私の正体が殺人鬼』なのか、『殺人鬼である私の正体が死んだ小説家』なのか、『Aを殺した殺人鬼』なのか『Bを殺した殺人鬼』なのか…… 結局のところ、それらすべてが私の正体であり、私を認識する立場や目的によって、それは変化する。それなのに、多くの人間は、『正体』という概念は不変の真理のごとく、強く求めてくる。私はからすれば、非常にくだらない情報にすぎません」
「すべてが、あなたで、すべてが、あなたではない…… ということかしら」
ジョーは、わたしに背を向けたまま、顔をこちらに向け、その横顔で笑って見せた。
「そろそろですよ」
青く照らされた植物の世界に、それは突然現れた。
まるで、エイガル山で暮らしていたわたしの家にそっくりな、小さな小屋。暗い外装を施しているのか、月の光を浴びても、尚暗く、光に対して心を許していないように、暗闇に溶ける。
「ここは……」
私の質問には、まったく反応を示さず、彼は無言のまま腰を折り曲げ、人形のような長い手で促す。そして、どうぞ。と、一言だけ口に出し、わたしを家の中へ誘導する。
恐怖や警戒もすこしは考えたが、ここまで来ている時点で大して変わらないような気もして、わたしは彼の誘導に従い、その家に入る。
わたしの背丈と同じほどの小さな扉を開く…… 部屋の中は壁一面本棚と、本棚に収納された本で埋まっていた。後ろを振り向くとこちらもまったくの同じ風景が広がっている。
「すべて私の作品です」
頭を下げながら、小さな扉を潜ってくるジョーの姿は、不気味さを増すと同時に、微かに美しささえ感じる。その容姿がそうしているのか、彼の話し方なのか、おそらく両方だろう。常に微笑む継ぎ接ぎの表情、余裕綽々な態度、そんな彼が、この部屋へ入ることには苦労しているかに見えるからなのか、そこに、不気味さと美しさが共存している。
「ロークさんはどこ。あなたは何のためにわたしをここへ連れてきたの」
「彼はもうここにはいません。といいますか、私は彼の行方を知りません」
ジョーが正直にそう言ったことに、わたしは驚いた。いままで散々濁した答えを寄越しておいて、ロークの行方については、はっきりと答える。おそらく本当に知らないんだろう。
「ロークさんは生きてるの…… ロークさんをここへ連れてきたのは、あなたでしょ」
ジョーは鋭い視線をわたしに向けた。そこには不気味さも美しさもない、ただの恐怖だけが漂っている。
「人間は正義と不義、善と悪を早々に結論付け、その結論を軸に話を進める。私が嫌う愚かな考えです」
鋭く冷たい視線のまま、ジョーは続ける。
「彼は確かにここへ来ました。しかし、私が呼んだわけでも、連れてきたわけでもありません」
「じゃあ、ロークさん自身が、自分の意志でここへ来たというの」
「それです。それがまさしく、早々に結論付けているということです。意志、原因、理由…… 議論には必ずと言っていいほど、これらが柱となります。そして、人間はそれらすべてを理解しきっていると勘違いをして、ああでもない、こうでもない、お前が原因でなければ、じゃあ、隣のお前しかありえない。など、滑稽な時間を過ごしているのです」
「つまり、どちらでもないの……」
また、曖昧な答えが返ってきたことに、微々たる安心を感じたが、ジョーの視線と、視線から感じられる、ジョーの怒りと哀れみに、わたしの身体は震えていた。
「誰かが消える。そうすると、そこには必ず攫った人間の存在をこの世につくり出す。実在するのかさえ確かめず、被害者と加害者の関係性に当てはめる。頭の中に蔓延る固定概念が生み出すそれはまさに『幻想』。 自身の人生で経験した事柄を基準として、人間は勝手に善悪に振り分ける…… ですが、思い出してください。あなたは、あなたの人生しか歩んでいません。あなたが過去に選択してきた物事、それらすべてが、正しかったか間違っていたかなんて、あなた自身でさえわかりません。あのとき、Aではなく、Bを選んでいたら、現在と違っていたのか…… 違っていたのなら、どちらがあなたにとって幸せだったのか…… そんなことは、あなたという存在を、もう一人用意しなければなりません」
「何が言いたいの」
「善も悪も存在しない事例。あなたも彼も、人間という生物自体、己惚れすぎています。この世のすべてを知った気でいるだけです。私がこの場でなにを言おうと、あなたには理解ができないでしょう。これは、彼にも同じことを言いました。そして、彼はここから立ち去りました。それだけです」
——善も悪も存在しない…… ロークは自ら消えたわけでも、ジョーが連れてきたわけでもない……。 消えた子たちもそうなのだろうか…… わたしを呼ぶ声は……。 たしかに、わたしたちは無知だ。それはロークも同じだろう。この場所にいることが何よりの証明になっている。
しばらく考えている間、ジョーは壁を埋める本棚を物色している。そして、一冊の本を持ち出し、わたしに差し出す。
「言葉をしらない人が、必死に熟語を思い出そうとしても出てこないでしょう。まずは認知することです」
「これは……」
「書籍というのは、それを書いた人間がどういう世界を観ているのかを知ることができます。この部屋にある本はすべて私の世界が詰まっているので、好きなだけ読んでいただいてかまいません。あなたが私を理解したいと思うのなら、ですけどね」
ジョーは再び、優しい笑みを浮かべて、わたしを見詰める。
部屋に唯一ある、革でつくられた一人掛けの椅子。そこへ腰をおろし、わたしは、ジョーの世界へ瞳を連れていく……。