将来への不安
「はぁ…… 」
ふらりと入った書店で、つい資格本を探してしまう。
雑誌コーナーで、読みたい特集などを探すが、まったく心の琴線に触れるものがない。
「アルバイトも、結局辞めてしまった…… 何とか2年後にはきちんと稼げる職につかなくては…… 」
先月3月30日付で3年間正社員として勤めた会社で、ワークシェアリングが始まった。
一応週5回出勤することになっているが、勤務時間は半分に減らされてしまった。
空いた時間に外資系の飲食チェーン店で働いてみたが、労働時間が少ない割には仕事量が多くて、給料は安い。しかも周りは高校生や大学生が多いので、自分は浮いてしまう。
学生を雇えば、給料が安くても喜んで働くし、社会経験がないから文句もあまり言わない。雇い主としては良いことづくめだ。
自分はそれと正反対の、中途半端で使えない人材になってしまった。
先月まで充分な額の給料が貰えていたのだが、今月からは半減だ。将来への不安を感じてしまう。
「焦ってもしょうがないんだが…… 時間を有効に使って、数年後に繋げなくては…… 」
通勤電車の乗換駅であるM駅で、ふらりと駅の外に出て商店街を彷徨うように歩いていた。
目は虚ろで覇気がなくなっていた。
我卦 利行は、27歳。浪人したので、社会に出たのも遅かった。
新卒で1部上場企業で、総合職に就いていたが、社内で起きた事故が原因で業績が悪化し、先行きが怪しくなってしまった。
駅から離れると、段々店がまばらになる。
ふと左手が開けたと思うと、プレハブの建物から煌々と光が漏れていて、中が良く見えた。
「誠劉空手道連盟誠劉会館……!? 」
黒い縁取りに黄色い太字で書かれた看板と、入口から出てくる空手着の少年たちが目に留まった。
「押忍! 押忍! 押忍! 」
元気に挨拶をして、十字を切ると、親の元に皆帰っていくようだった。
「先月まで通っていたトレーニングジムも、続けられなくなってしまったな…… 何となく元気が出ないのは、運動しないせいかも知れない…… 」
そんなことを呟いて、気付くと道場の入口で足を止めていた。
「闘う少年たちか…… 昔ちょこっとだけ空手はやったが…… どうせ暇だし…… ちょっと覗いてみるか」
少年たちが放つ、眩しいほどのエネルギーに包まれ、街の喧騒から離れたい、という気分になった。
入口を入ると、もう一つドアがある。思い切って開けてみた。
激しい運動をしたときに出る、独特の汗のにおいが沁みついている。
床はマットが敷かれていて、しっかりした作りに見えた。
「あのう…… すみません。見学させていただいても、よろしいでしょうか」
近くにいた、青い帯を締めた道場生に声をかけた。
その道場性は、入り口側にある小さな部屋へ入ると、丸坊主の黒帯を締めた師範代らしい男を連れてきてくれた。
「見学希望ですね。どうぞ。こちらへ掛けてください」
背は高いが、まるで少年のような笑顔をたたえる、自分と同い年くらいの青年だった。
「運動の経験はありますか? 」
「昔、ちょこっと空手をやりました。最近はジムで筋トレをしています」
「おお。そうですか。じゃあ、アンケートに答えてください。もし入門を希望されるようでしたらお手続しますので、お声がけください」
「はい…… 」
しばらく待っていると、続々と道場生が集まって来る。
「押忍! 押忍! 押忍! 」
皆元気よく、お互いに向かい合って挨拶し合っていた。
「では、帯順に並んでください…… 」
さっきの師範代が、神棚の前に立っている。
「不動立ち。ほらタクミ。掛け声掛けて」
右前が一番上らしい。
ひょろっとした、あどけない顔をした少年が呼ばれ、声を出した。
「押忍! 本日の稽古をお願いします」
「神前に礼! 正面に礼! お互いに礼! 」
ここまで何回礼をしたのだろう。
すべて気合いをかけて、頭を下げてきちんと礼をしている。
何かに熱中している、という気迫をビリビリと感じた。
師範代の拳は、黒い拳だこができていた。誰もが基本を繰り返し、移動、形など決まった動きを誠実に繰り返そうとする。
初心者らしい、白帯の人たちも一生懸命に上級者の動きを真似て食らいついていく。
「ああ。こんなにひたむきな時間を過ごせたら、自分も復活できるんじゃないだろうか…… 人生が充実したものになるんじゃないか…… 」
何か、自分が求めているものがここにある気がした。
結局利行は、最後まで稽古を見てしまった。
本物の情熱を感じた。
何もしていない自分にも熱が伝わって、身体が火照る気がした。
「入門します。手続きをお願いします」
そのまま入門手続きを済ませた。
翌週には道義が来るということだったので、楽しみにしていた。
「よし! 今日は帰りに寄って、一丁やってくるか」
仕事帰りに昨日の道場へ入った。
「あの。我卦と申します。先週入門手続きをしました」
「おお。そうですね。道着が来てますよ…… えっと、これです。ちょっと、この方に着方を教えてあげてくれるかな」
指導員室にいたのは、道場の師範らしく、貫禄があった。
凄く元気が良くて、声が大きい。
「こちらへどうぞ」
緑帯を締めた道場生が、丁寧に教えてくれた。
「では、パンツ一丁になってください」
ちょっとユーモアを感じる語り口で、慣れた様子だった。
「返事はすべて『押忍』です。人に挨拶するときには十字を切ります。出たらやってみましょう」
道着を着ると道場へ出る。
「押忍! 」
道場へ礼をして、周囲を見渡し帯が上の人から順に礼をする。移動するときは必ず小走りで行く。
確かにゆっくり歩いて近づいて来ると、印象が悪い気がする。
一つ一つの動作に気遣いがある。
「何だか心地良いな。社会人として、これだけ周囲に気遣いする習慣があるだけで、営業成績が上がりそうだ…… 」
朝夕は皆挨拶するが、これだけ徹底して一つ一つの動作を考え、繰り返すことはない。
清々しい気分になってきた。
「では、帯順に並んでください」
師範が出てくると、皆集まってきて十字を切って挨拶している。
利行もそれに倣った。
柔軟体操を兼ねた独特の動きで、全身をほぐしながら空手の理を感じた。
「いつ、いかなる時も武の心を持って警戒してください」
一通り準備体操が終わると、
「じゃあ、今日は初心者の方が多いから後ろで、初心者教室をやりましょう」
先ほどの緑帯の方が後ろへ促した。
「まずは、拳の握り方です」
これが、利行が初めて身に着けた空手だった。
拳の握り方。これがとても重要で、ずっと忘れられない思い出でもあった。
「小指から順番に握って、親指を締めます。力を抜いても開かないようにしてください。握り方3年と言います。始めはこれだけでも難しいですが…… 」
握ってみると、力が入ってしまう。
力を抜いて維持することなどできそうもなかった。
「では次に…… 」
「組み手を行います。皆さん入ってください」
指導して下さっていた緑帯の方が
「押忍! 」
と返事をすると、皆で列に入った。
向かい側に青帯の道場生がいる。
向き合って立っているので、これから何が行われるのか、空気でわかった。
「うっ…… いきなりか!? 」
「では、1分測ります! 」
ピッ、ピッ……
タイマーの操作音がする。
問題は、これから目の前の人と組み手が始まることだ。
握り方しか教わってない。
師範は、わかっているのだろうか。
自分はそこらを歩いているサラリーマンと変わらない。
まだ初心者道場生レベルですらない。
「お互いに、礼! 」
「押忍! 」
「構えて…… 始め! 」
これは、ほとんど事故だ。
一般人が道場へ迷い込んで、殴り合いを始めるようなものだ。
見学をしたので、素手で当てることは知っている。
だが、まさか素人相手に手加減するだろうが、こちらも形だけでも攻撃するべきだろう。
「こんなの…… 漫画でしか見たことないぞ」
利行は格闘技ファンではない。
ボクシングは何回か見たが、他の格闘技や武道には疎い。
見よう見まねで、一応自分の身体の前に両手を上げた。
相手もどうしようかと、考えあぐねている様子だった。
30秒ほど経った。
正直怖い。
自分には拳という武器以外なにもない。
防御する術すら知らない。
パンチの仕方もわからない。
蹴りなど、足を上げただけでバランスを崩すかもしれない。
だが、さすがに何もしないで終わるのは稽古にならない。
踏み込んできた。
パパパン!
腹が鋭い音を立てた!
立て続けに拳を受けて、驚きのあまり後ろに飛んで逃げた!
「全然効かないが、やっぱり殴られるのはショックがデカい…… 」
そんなことを考える暇はないはず……
距離をまた詰めてきた!
今度は利行も手を伸ばしていった!
スカッ! スカッ!
手前で素振りをしただけだった……
「全然距離がわからない…… 」
ピピピピ……
1分経った。
ほとんど様子見をしただけだった。
一つ右にズレて、相手を変えてまた行う。
何人と組み手をしただろうか……
まさに無我夢中だった。
痛みはないが、拳と蹴りをやりとりするという、人生初の経験である。
小学生のとき、何度か取っ組み合いのケンカをしたが、これほどまでに人と殴り合い蹴り合ったわけではない。
子どものケンカは、1、2発かませば終わる。
だが、ここでは何発食らったかわからないほどだった。
「ジムで鍛えていなかったら、効いていたかもしれない…… 」
そう思う一撃もあった……
こうして初日の稽古を命からがら終えた。
また何度も礼をして、掃除が始まる。
掃き掃除をした後、雑巾がけ。
これも足腰の鍛錬のためである。
更衣室へ戻っても、興奮してアドレナリンが止まらなかった。
「どうでしたか? 初めての稽古は」
緑帯の方が、話しかけてきた。
「いえ…… 頑張ります」
感想など、自分のような何もできない人間にはおこがましい。
なぜかそう思って、頑張るしかないという意味のことを言った。
道場から出るときにも全員に対して礼をして、最後に道場へ礼をする。
ずっと頭はフル回転だった。
「何とか生き延びた…… こんなに必死になった自分は、久しぶりだな…… 」
家に帰ると、教わった正拳中段突きをやってみた。
体が火照っていて、疲れは感じなかった。
風呂に入ると、落ちるように寝てしまった。
翌朝……
「うっ…… イテテ…… 」
アバラが軋む。
太ももも腫れているようだ。
「そういえば、足に蹴りをたくさん受けたな…… どうやって対処するのか知らないから蹴られるばかりだった…… 」
駅を歩いていると、腹にも熱を帯びたようなダメージを感じた。
体のあちこちにある痛みや重さが、生きた証のように感じられた……
「何だか、晴れやかな気分だ…… また道場へ行きたい」
そうつぶやく。
「いつもの通勤電車の混雑も、組み手の恐ろしさに比べれば、大したことないな」
心からそう思えるのだった。
「我卦さん。空手やってるんだって? 流派は? 」
職場の同僚の石田さんが話しかけてきた。
「はあ…… 誠劉会館って書いてありました」
「ええっ!? マジ? どうしちゃったの? 」
「そうですよね。あんなに激しいなんて、やってみるまで知らなかったんです…… 」
「フルコンタクトじゃんか。強くなりたくなったとか? 」
「いや。全然…… そんなんじゃないんですよ…… 」
利行は壁の先を見据え、遥か遠くを見つめていた。
「うひゃあ。こりゃあ。凄いことだね」
丸一日経つと、身体の痛みは大分退いた。
筋肉疲労は、激しい運動をした翌日の午後に反動がくる。
酷いときには、低血糖のような症状になり、うずくまるほどの疲労感を感じる。
フィットネスジムに通っていた利行は、運動した後の症状を良く知っていた。
午後には軽い疲労感があったが、マシントレーニングと違い、有酸素運動だったためか、さほど反動がなかった。
「しかし、このまま道場へ行っても昨日の繰り返しだ。帰りに本屋へ寄って調べて自習するしかないな…… 」
帰りに書店に寄ると『趣味・スポーツ』のコーナーを探した。
いつもふらりと来てしまう、資格コーナーの隣だった。
「武道関係の本は、意外と多かったんだな…… 」
始めて見るまで、風景の一部だった。
武道の本を眺めると、フルコンタクト空手の技術指導書が数冊あった。
その中に基本・移動・形を写真付きで解説している本を見つけて、買い求めた。
「よし。早速やってみよう! 」
家に帰ると、その本に書いてある通り、一通りの基本技をやってみた。
「武道は1にも、2にも基本の繰り返しだ。反復練習を毎日やろう」
とりあえず、正拳中段突きを100本やった。
これは、引き手を取って、相手のミゾオチに拳を捻じりながら突き入れる技である。空手の基本中の基本で、これを応用してあらゆる攻撃の体系ができている。
「なるほど。打ち合いになったときには内側へ攻撃を集中するのか」
フットワークなど組み手のテクニックは、ビデオで研究した。
そして、半年が経ち初めての昇級審査を受けることになった。
筆記試験、基本、移動の後、
「では組み手の審査をします」
名前を呼ばれた人が組み手をして、技を見るようだ。
「我卦さん! 」
「押忍! 」
元気だけは良いが、内心不安が一杯だった……
相手は自分より年下のようだ。
ちょっと茶髪で、ヤンチャをしてきた雰囲気を纏っていた。
「正面に礼! お互いに礼! 」
「押忍! 」
「構えて! 始め! 」
「押忍! 」
利行は距離を取って、左回りに足を捌いて回転していく。
ビデオで見た世界選手権で、ある選手が体格が大きい選手に対して回り込む動作をしていた。
それを見よう見まねで組み手に取り入れていた。
このような組み手テクニックは、誰も教えてくれない。
道場では、基本、移動、形を繰り返すのみで、実戦的な技は自分で工夫するのだ。
「セイ! 」
相手が前蹴りを見せた。
あまり、膠着しているのも印象が悪い。
思い切って前に出た。
正面に立つと的になりやすい。
体を左右に振り、フットワークでフェイントを繰り返しながら懐へ潜り込んだ。
「セイ! 」
練習していた、左右の突きから下段廻し蹴りに繋げる、ワンツーキックを見舞った!
見事にヒットした!
だが相手もカウンターを取ってミゾオチに前蹴りを返す!
「ぐうっ! 」
体を捻って衝撃を逃がしたが、技の思い切りがいい。
そのまま捻じる動きを繋げて鍵突きで脇腹を捉えた!
だが同時にカウンターで中段突きをモロに食らった!
「はあっ、はあっ! 」
こういうヤンキーっぽい風体の道場生は多いが、大抵思い切りよく攻撃してくる。
そして、ナチュラルに強い。
利行は、ことごとくカウンターを取られ、攻め手を失った。
「それまで! 」
「押忍! ありがとうございました」
こうして、オレンジ帯を貰った。
体はいつも痣だらけだったが、心は満たされた。
死んだようになって彷徨っていた、利行の魂は復活したのだ。
「飲みにも行かないし、車も持たないし、結構金は貯金できてるな…… 」
実家に帰り、パラサイトをしはじめたためか、さほど出費もなかった。
「空手の勉強をしながら、再就職へ向けて準備していけばいい…… 」
打ち込むものができると、精神的に安定してくるものだ。
心の不安も消え、空手のことを考える時間が増えた。
体を極限まで追い込み、組み手が上達することだけど考え、家でも基本稽古を欠かさず繰り返す。
「ねえ。我卦くん。空手やってるんだってね」
職場でもその話題で、いろんな人から声をかけられるようになった。
「空手が自分を前向きにしてくれた。まだまだ始まったばかりだが、できる限り続けていこう…… 」
今日も近所の公園で、一人稽古に励む利行の姿があった。
了
この物語はフィクションです