友達より好き 彼氏より好き
西の茶店
いつもより二時間遅れて乗り込んだ電車は、「ちょっと一杯」の後のサラリーマンでラッシュ並みだった。
ビールのにおいを漂わせているリーマンたちに顔をしかめつつ、千春は電車の窓ガラスに映る疲れた顔をしている自分の顔を見ていた。
残業しているのに、文句を言われてばかりじゃやってられないなぁ…。
上司がかわいがる若い子たちとは五つほど年が離れている千春、二十八歳。
時折嫌がらせのように「これやっといて」の一言で、たった一人で居残りが決定してしまう。
残業がしたくない訳じゃない。
きちんと手当もつく。
けれど、年下の女の子たちにまで「いい小遣い稼ぎですね」なんて言われた日には、だったら「代わりましょうか?」くらい言ったらどうなの?と思う。
同い年の彼氏はいても、週末しか会えない。
いつ電話しても、眠そうな声。
lineもめんどくさいと、送っても既読も付かずに放置されることもめずらしくもない。
そしてそんな隆也に慣れて、千春もだんだんと電話もしなくなった。
毎週末会うのも億劫になって、回数が減ったのは気のせいではない。
仕事の不満より、隆也に対する不満の方が千春の心に解けない雪のように降り積もっていた。
声が、聞きたいな…。
ラッシュの電車を降りて、コンビニに向かって歩く途中、あまり早くない指使いでlineを送った。
相手は、半年前に辞めてしまった、元同僚の和樹だ。
転職してきた千春と違い、新卒で入社していた和樹は三つ年下の二十五歳だが千春の先輩だった。
年下ながら千春のよき友人だった和樹は、一人っ子のくせに甘え上手で弟のように接していて、時々ランチを一緒にしたりしていた。
もちろん和樹にも彼女はいるし、千春にも彼氏はいるとお互いわかっている。
友人というには少しばかり仲がいい、というような関係だった。
比べる気はないのだが、のんびりしていて、めんどくさがりの千春の彼氏の隆也よりは彼氏らしい――和樹は気配りのうまい男の子だった。
突然、「やってみたいことがある」と、かなりサッパリと退職願を出した時は、ショックで涙が出そうになったけれど…。
『俺、頑張るからね。ちーねえ』
千春を「ちーねえ」と呼んで慕ってくれていた、三つ下の和樹。
『もしさ、ちーねえに彼氏がいなくて、俺に彼女がいなかったら、どうなってたかなあ』
一度だけ、真面目な顔をして、聞かれた。
でも、それはあり得ないことだった。
千春は四年隆也と付き合っていたし、和樹にも二年付き合っている彼女がいた。
それは、覆しようのない、事実だったから。
『たら、れば、はないよ』
そう言った千春に、和樹は笑った。
『ちーねえのことだから、そう言うと思った』
付き合うとか、付き合いたいとか、という思いではないのだけれど。
それでも、そばにいれば、楽しかった。
一緒にいたかったのは、嘘じゃない。
それはたぶん、和樹も同じ…。
【久しぶり、元気?
今日は残業で今帰り。
疲れたー ( ;∀;)】
なんてことのない、短い文章を送る。
コンビニでサラダとレンジで温めるだけのパスタを買って出たところで、スマホの着メロが鳴った。
…和樹?なんで、電話?
めずらしいと思いながら、3コール目で、スライドした。
「もしもし、和樹?」
「おー、俺。なんか、声聞くの久しぶり。元気だった?」
甘えるのがうまそうな、年の割にはやや高めのトーン。
「うん、まあ。忙しくはしてるけどね。どうしたの、電話かけてくるなんてめずらしいじゃない?」
「え、だって、ちーねえなんかあった時しか、俺んとこlineしてこないでしょ。なんかあったんなら、話聞こうかと思って」
ドキッとした。
私、無意識に和樹に頼ってた?
「ごめん、そーいうつもりじゃなかったんだけど…」
「えー、何いまさら気ぃ使ってんの。ちーねえ自分から電話するの嫌いでしょ。lineくれたら、俺からかけてやるからいいじゃん」
「なんて入れるのよ」
「声が聞きたいって」
三秒ほどの沈黙。
吹き出したのは同時だった。
「恥ずかしいでしょー!」
「いーじゃん!だって俺はちーねえの特別でしょ」
サラリと、何でもないことのように、和樹が言う。
「なんだ。知ってたの」
慌てた方が負けだ。
「和樹は特別だよ。好きだもん」
「知ってる。彼氏の次に、だろ?」
「そう。だから、私も知ってるの、知ってた。隠してないでしょ」
「ちぇー。手ごわいな、ちーねえは」
それでも、声が笑っている。
なんだか嬉しくて、少しホッとした。
「ありがとね…。なんか、和樹と話すの、好きだわ」
「うん、俺って、癒し系だから」
めいっぱい甘えた声に、ウインクいている姿まで目に浮かぶ。
「お茶くらい、いつでもOKだからさ。ちーねえ一人で考え込むなよ」
「んー、わかってるつもりなんだけどねー…」
「彼氏には、言えない…?」
語尾を濁した千春に、和樹の言葉が引っかかる。
「…そんなんじゃ、ないけど…」
愚痴りたい話を彼氏にしたい、というのではなく、彼氏の話を愚痴りたいというのだろうか…。
私は、やっぱり、和樹に甘えてるのかな…。
信号を渡り、自動販売機のある角を曲がる。
誰もいない、一人暮らしの真っ暗なアパートの部屋。
時々、帰るのが嫌になる。
無意識にためいきが漏れた。
「もしもし?ちーねえ?」
「もうすぐ部屋着く」
「一人じゃさみしいだろ?」
「そうだけど、今から晩御飯だし」
カツンカツンと階段を二階に上がり、突き当りの部屋のドアを開ける。
「暗い部屋に帰るのって、なんか嫌よね」
パチッと部屋の電気をつけて、目をしばたたかせた。
「じゃ、俺が毎日待っててやろうか?」
「バカ。彼女が怒るでしょ」
ローファーを脱ぎ、パスタをレンジに入れる。
いつものように茶化して言ったのだと思って軽く流すと、思いの外、長い沈黙が流れた。
「…和樹?」
「俺、彼女と、別れた…」
ただ、事実だけ。
「…え…?」
だから、というのは、なにもなかった。
以前からなんとなく、予感はしていた。
折り合いが悪いと、時々愚痴を言っていた和樹を思い出す。
だけど…。
「…そう、なんだ…」
誰かのために誰かを捨てたら、次に捨てられるのは、きっと自分だ。
それでも、優しい手を、取ってしまいたくなる時がある。
たぶんね・・・私、和樹が思ってるよりも、ずっと、和樹が好きかもしれない。
でも、それは言わない。
「ダメじゃない、ちゃんと、捕まえてなきゃ…」
揺さぶられている自分を、隠して、ふざけて笑うしかない。
「ダメだったんだよ、彼女じゃ…」
バクバクと鼓動が早くなる。
聞きたい台詞。
聞いてはいけない台詞。
聞いてしまったら、戻れなくなる台詞。
「ちーねえ…」
「それ以上言ったら、ダメ」
天秤にかけて、捨てようと思うほど、隆也が嫌いなわけじゃない。
ただ、優しい言葉を言ってくれる和樹が、欲しい言葉をくれる和樹が…。
私って、なんて、嫌な女。
心の中にこんなにも、和樹って言葉が降り積もっているのに。
見ないふりして。
気付かないふりして。
「ちーねえ。俺、待ってる」
「え…?」
「それくらい、できる。待ってるから…いつか、言わせて」
優しい優しい、甘い声。
ささくれだった心に、じっくりと染み渡る…。
「だからちーねえも、俺のこと、考えてて?」
考えてないわけ、ないじゃない!
体中が、熱くなる。
手が、足が、震えて止まらない。
「…わかった…」
もう、自分に、嘘はつけなかった。
自分の口から、ポロリと本音が零れてしまいそうだ。
「よかったあ…。ブチ切れられたら、立ち直れないとこだった…」
安堵した声が聞こえて、千春は思わずくすりと笑った。
「とりあえず、今日はありがと。また、連絡するね」
「おー、待ってる。めちゃめちゃ待ってる」
「そんなに待たないで。連絡しづらくなるから」
互いにクスクスと笑いあって、ピンと張った緊張の糸が解けた。
「パスタ冷めちゃった。また温め直すわ。じゃ、またね」
「わかった。ちーねえ…好きだよ」
和樹は言い逃げをして、電話はプツっと切れた。
「もうっ!言わないでって、言ったのに!」
顔が火照って、恥ずかしくて、嬉しくて、目が潤む。
同時に、四年の月日を過ごした隆也の存在が重くのしかかる。
喜んでいる場合ではないのだ。
「あーもう…どうしよう…」
嫌いじゃないのに。
隆也のこと、嫌いじゃないのに。
でも、和樹には、敵わない。
じっくりと、ゆっくりと、存在を薄く、遠く、めんどくさいものへと変貌させていった隆也…。
会いたいときに会えない。
欲しい言葉をくれない。
もうなんでいるのかもわからない。
逆に、陰ながら、そばで支えてくれた和樹。
甘え上手で、癒し上手で、会話も楽しい。
短いlineですぐに気づいて、電話をくれる。
もう無理だよ、隆也。
私のこと、当たり前にし過ぎたよ。
恋愛じゃなかったはずの「好き」は積もり積もって「恋人の好き」に変わった人。
枯葉を散らすように、恋愛対象から消えていった人。
恋愛じゃなかったはずの「好き」は、ふわりふわりと降り積もって「恋人の好き」に変わった人。
枯葉を散らすように、恋愛対象から消えていった人。
どんなに言い訳しても、この「想い」は本物。
さあ、悪いけど。
私をめんどくさいと言った落とし前、つけてもらおうじゃない。
「私だって、めんどくさい彼氏なんか、返品するわよ!」
ピロリンと三度目のパスタの温めが終わった。
ちょうど明日は金曜日。
昔の歌にあったよね。
どんな歌かはあんまり知らないけど。
「決戦は金曜日~♪ってね」
友達より好き。
彼氏より好き。
そんなこと気付いちゃったら、自分に嘘なんてつけないじゃない?
女は切り替えると、早いのよ。
了