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雲の国の住人

まどろみから目覚めると、世界がざわめいていた。夜よりも濃い暗闇に原色の吹雪が舞っている。
赤、緑、橙。その一つ一つが生き生きと独立した振る舞いで自己主張していた。

やがて、それらはフワッと噴き上げられ、天に吸い込まれていく。


「思い出が……みんなの思い出が空にのぼっていくんやね」

23年前の雪が降る夜。あの子はそう言い残して、翌朝冷たくなった。

だから、灰色の国から落ちてくる白い塊を見るたびに、あの顔が視界に重なる。
私にとって雪は冷たくて、重くて、悲しいものだ。
雪にほのぼのとしたロマンスを抱いている人は、そのままずっと幸せでいてほしいと思う。

23年前の1月17日。震度七の揺れがあの子は雲海に旅立った。。
その当時、私はまだ小学生。震災の前日は成人の日の振替休日で、いわば冬休みの延長戦のようなものだった。

親の言いつけに従って、家中に掃除機掛けをした。ちょうど正午を回ったころだろうか。
「慌ただしい新年が明けて、ようやく一息つける」

そう言って親が電気カーペットに腰を降ろした、ちょうどその時。
ガタガタと家が揺れた。
「ねえ、いまさっき揺れた?」
親がわざわざ訊いてくるほど微妙な振動だった。
私が天井をみあげるとサークラインからぶら下がった紐がゆっくりと振り子運動している。
「やっぱり、揺れてたよ」
「おや、地震かな」と親が珍しそうに言う。私が物心つく前から鉄板よりも固く信じられてきた事がある。
「ここ、関西には大きな地震が来ない」という都市伝説だ。それは神話を通り越して常識化していた。
関東や東海地方危険だが、関西は地盤が古くてしっかりしているから大丈夫。そんなことを老人まで実しやかに唱える。
大きな余震が来ないとみるや、親は私を追い出しにかかった。布団を敷いて横になるためである。
「子供は風の子や。外で遊んでき!」
容赦なく玄関へ責め立てる。
そこで私はいつもの安全地帯へ逃れることにした。ぬくぬくとした炬燵とお菓子食べ放題の楽園。
「わたし、美沙子ちゃんとこでファミコンしてくるー」


河本美佐子の家は学校に向かう橋のそばにあった。高度成長期に流行ったセキスイだかパナだか、そういうありふれたメーカーの建売住宅だ。
バブルが弾けて共働き夫婦は土日祝日とは無縁の暮らしをしていた。家族サービスの不足を友達との遊びで補うしかなかった。

それでファミコンに飽きたら、近くの公園へというルーティーンを繰り返していた。
彼女は私を「男子」として認識してくれる唯一無二の存在で、私の事を「アヤ君」と呼んでくれていた。
対して私は「美沙子」と呼び捨てにしていた。

その日もいつもの様に家の前で名前を呼んだ。しかし、待てど暮らせど返事が無い。
河本家に鍵はかかっていないようだ。そっと引き戸を開け、中をうかがう。
耳を澄ますとブーンという微かな唸りが聞こえる。冷蔵庫だろうか。
それ以外に、生気のわだかまりというか、あの何とも形容しがたい人の気配を確かに感じた。
玄関には子供用の運動靴が揃えてある。
私は勇気を出して呼んだ。
「美沙子~。おるのぉ~~?」
返事はない。
私は靴を脱いで廊下の奥をめざした。窓が開けっぱなしでカーテンが揺れている。
冷え切った部屋の隅に人影があった。


「あんた、何やってんのん?」

美沙子は魂がぬけたように壁にもたれかかり、両ひざの上にアルバムを広げていた。
その他にも写真が散乱している。
「あんた、大丈夫?」
「……」
手のひらを広げて、美沙子の眼前にかざしてみる。
すると、ガシッと手首を掴まれた。
「——、あんた、生きてたん?」
美沙子は私などお構いなしに続けた。
「ねぇ、あれ」
すっと人差し指で窓を差す。白い雪をかぶった六甲の山並みが広がっていた。
「アヤ君、見えへん?」
「え?」
「あそこらへん、いっぱい飛んでいるよ」

美沙子は肉眼で見ることが出来ない何かを追いかけている。
それが何か知らない。
私に透視能力はないが、共感することは出来た。
「どんな感じ? 教えてくれへん?」
「飛んでるの。写真がいっぱい。色んな人の写真。ううん、写真とはちゃう、何か」
「それって、もしかしたら幽霊?」
おそるおそる尋ねると、美沙子は否定した。
「ううん、生きてるよ。みんな、生きてる。飛んでいくだけ」

いったい、美沙子はどうしてしまったのだろう。普段の彼女は明るい性格で、こんなオカルトめいた事の対極にいた。

「縁起でもないこと。言わんとって!」
私が叱責すると、美沙子はかぶりをふった。

「ううん。生きてはるよ。飛んでいくだけ……〇〇先生ぇ……×△先生ぇ……四組も五組のみんなも……飛んでいくねん」
「何アホなこと言うてるの? 明日から学校やで!」

この時、私は美沙子が仮病を演じているのだと思った。気がふれたフリをすれば、勉強しなくて済む。

遊びたい盛りである。二日も休めば学校が疎くなる。
事実、私たちはよく「学校がなくなればいいのにね」と冗談めかしていた。
しかし、美沙子は真剣な表情で訴えた。
「アヤ君は見えへんの?」

「そんなもん、見えたら怖いわ」
「じゃあ、アヤ君は大丈夫なんや」
「さっきから、何をわけわからんことを言うてるの?」
「もうすぐ、いっぱい飛んでいくの。私にはみえるね……考えてはることも、思い出も、みんな、飛んでいくねんね」

彼女は冒頭に述べたようなイメージを微に入り細を穿つように教えてくれた。
その間にも美沙子はみるみるうちに蒼白していく。

「もうええから、わかったから。美沙子、うちに来る? うちのおかーさんおるから。車で病院、連れていってもらおうか?」
「もう、ええねん……もう、澄んだことやから」

彼女は援助の申し出をきっぱりと断った。遠い目をしていた。

すっかり恐ろしくなった私は一目散に帰宅した。親に「様子が変だ」と伝えると、干渉するなと叱られた。

「放っておき! 河本さんの親御さんには後で電話しとくから!! あんた、明日の準備できてるのん?」

物凄い剣幕で勉強部屋へ追い立てられた。

教科書の出番はしばらくなかった。
河本家も我が家も震度七の直撃を受けて一階部分が潰れた。
美沙子は瓦礫から救出されたものの、その三日後。
急に冷え込んだ雪の降る朝、雲海へ舞い上がった。






体操服にカーディガンという軽装で表に出る、
ジャンパーやジャージなどの厚着は「甘えである」として許さない風潮があった。
しかし、実家にはもう一つのルールがあった。
「待ちなさい! あやこ!!」
親が箪笥を開けた。一枚取り出して
「スカート、ちゃんと履いて。お上品にするんやで!」
「え~~」
仕方なく私は体操着にスカートを重ねる。
雪が降っていた。
空を見上げると、真っ黒な雲がどこまでも広がっていた。
まるで夜が降りてきたみたいだ。
美沙子の言葉を思い出す。
「ほら、見てみて、みんな、飛んでいくの。お爺ちゃんも、おばあちゃんも、お父さんもお母さんも、お兄ちゃんも弟も、みんな、飛んでいくの……」
「うそやぁ!」
「ほんまや。私には見えるねん」
「嘘や、嘘や!」
「ううん、飛んでいくの。わかるの」私は自分の言葉を信じたくはなかった。
あの日の美沙子のように、雪を眺めていた。
灰色の世界から、たくさんのものが天に吸い込まれていく。
私は目を閉じた。
瞼の裏に焼き付いた光景が浮かんでは消える。
赤、緑、橙。その一つ一つが生き生きと独立した振る舞いで自己主張している。
やがて、それらはフワッと噴き上げられ、天に吸い込まれる。
だから、灰色の国から落ちてくる白い塊を見るたびに、あの顔が視界に重なる。
まどろみから目覚めると、世界がざわめいていた。
灰色の国が、この世の全ての色を飲み込んでしまったかのようだ。
私は立ち上がってベランダに出た。
凍えるほど冷たい空気が肌をさす。息を吸うと、肺の中まで氷漬けになりそうだ。「あはははははっ!」
笑い声が聞こえた。
私は反射的に振り返った。
そこには誰もいない。
見渡す限りの灰色があるだけだ。
私はベランダの手すりにもたれかかった。
「美沙子、あんた今どこにいるん?」私はつぶやいていた。
返事はない。
私はもう一度、呼びかけた。
「美沙子、美沙子!」
その時だった。
私の頬に水滴が当たった。
雨だ。
ポツ、ポツと顔に落ちては消え、また、落ちる。私は慌てて部屋に駆け込み窓を閉めた。
それからは堰を切ったように土砂降りになった。風が吹き荒れ、窓ガラスを揺らす。
雷鳴が轟くと、一瞬、部屋の明かりがついた。
停電だ。窓の外が明るくなったので、私はカーテンを少しだけ開けてみた。
一面の銀世界で、そこだけが切り取られたかのように光っている。
雪の粒一つひとつに命があるのかと思うと不思議な気持ちになる。美沙子も、あの雪の中に紛れてしまったのではないか?
「ねぇ、美沙子、そこに居る?」
返事は無い。
「美沙子、どこ?」
「……」
「美沙子ぉ!!」
「……ぃ、ゃ」
「美沙子、いま、なんか言った?」
「ぅ、、」
「美沙子、美沙子ぉぉ!!!」
「ぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ、、」「ぉぉぉぉぉぉ、、、」
幾重もの悲痛な叫びが耳を貫いた。
私は怖くて耳を押さえた。
しかし、それは私の声ではなかった。
「美沙子ぉぉぉぉぉぉ!!!」美沙子を呼ぶ私自身が発したものだ。
「あんたはここに居ってええん?」
誰とも知れない低い女の声がする。
窓が叩かれた。誰かが手を伸ばして叩いている。ドン、と鈍い音がして鍵のあたりが割れた。「なに?何!?何が起きているの?」
必死でドアを押えて叫ぶが、「開けぇや!」と、女の荒々しい口調が返ってくる。
「何ですか? あんた、だれ? どうして私の名前を……」「ええから、ここ、開けぇや!」「ちょっと!やめて!いや!」バリンッ!!ガラスの破片が散らばる。玄関の戸を破られた。靴を脱ぐ間もなく私は引きずられるようにして外へと引きずり出された。「いや、いやや!離して!」抵抗するが力では到底敵わない。私は引きずられて一軒の家の前に立った。「あそこ! 美沙子があそこで待ってるから!!お願い! 美沙子を先に行かせて!」「嫌や!絶対にいや! あんな、死んだ人間をいつまでも生かしておくのは可哀想やんか!」「美沙子は生きてるよ!」「死んでるわ!」
すると、いつの間にか人だかりが出来ていた。どこからか読経が聞こえてくる。そして、私は見た。
一軒の家から出てきた亡者たちの姿を。
「美沙子は生きてる!」私は叫んだ。「美沙子は生きてるよ!」「死んどるわ!」「美沙子は生きてるよ!」「生きてへんわ!」「生きてるよ!」
そこへ白いワンピース姿が割り込んだ。冷蔵庫さんだ。
『成仏しましょう。これ以上、娑婆の人々に迷惑をかけちゃいけない』「美沙子は生きているの! 冷蔵庫さん、あんたにだって見えるでしょ? 美沙子は、美沙子は、飛んでいくだけなんでしょ?」
「せや!美沙子は飛んでいくだけや!」
亡者の一人が叫んだ。『飛びましょう。極楽へ』
冷蔵庫さんが叫んだ。「美沙子は生きてるの!! 飛んでいくだけじゃないの!! 生きてるの!! 飛んでいくけど、飛んでいくだけで……それだけで……」
「うるさい!! 黙れ!! 美沙子は飛んでいくねん! それでええねん!」
わたしは南無阿弥陀仏と唱えた。しかし、彼らは止まらない。次々と亡者が湧いて出る。
「美沙子は生きてるの! 生きてるんだよ!!」
私は泣きながら訴えた。
「お前こそ目ェ覚ませや!!」
亡者の群れの中から一人の男が歩み出た。「美沙子なんて女、知らんわ」
私は呆然とした。
彼は私が中学生の時に亡くなった、隣のおじさんだった。
私は彼の葬式で喪主を務めた。
「おばさんはどこ? まだ来てないの?」
「あんたの親御さんは?」
「そんなことより、あんた、まだ気づいてないんか? あんた。死んでるんやで」
指摘されてわたしは自分の足元をみた。足がない。「美沙子は飛んでいくねん。それが幸せなんや」
おじさんはそう言うと、再び、歩き出した。
「美沙子は飛んでいくねん。飛んでいくねん」
「美沙子は飛んでいくねん。飛んでいくねん」
人々は繰り返しながら燃え盛る街の中に飛び込んでいった。「待って! 置いていかないで! 助けて! 美沙子!!」
私の絶叫が灰色の街にこだました。
しかし、誰も振り返りもしない。
私は助けを求めるように手を伸ばした。
しかし、その手を取る者は居なかった。
「みんな、どこへ行くん?」私はつぶやいた。
その時だった。
空が輝いた。稲光が走る。続いて、轟音。雷だ。
天から無数の稲妻が降り注ぐ。まるで空が泣いているようだった。
私は空を見上げた。灰色の空の向こうに何かが見える。
目を凝らすと、それは雲海を突き破ってこちらに向かってくる。
美沙子だ。
「もう、いいの。みんな。ありがとう。静かに眠らせてください
」美沙子の口元が動くのが見えた。
彼女は雪のようにふわり、と舞い上がった。
私は彼女を追いかけた。追いかけた。しかし、届かない。
灰色の空から雪が降ってきた。
私は走り続けた。
雪が降る。灰色の国から降ってくる雪が。
私の体を包んでいく。
やがて、私の体は雪に包まれ、溶けていく。
灰色の世界から雪が降り続く。
私は雪に埋もれていく。
灰色の世界が真っ白に染まっていく。
私は灰色の国の住人だ。

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