115 黒の森(シュヴァルツ)
「来たか」
中に足を踏み入れると、キャロルが入って来たのを目に留めたエイダルが、案内の士官が下がるタイミングで、書類から顔を上げた。
その斜め後ろに、エイダルよりも若干年下か…と言った壮年男性が、窓際で
その容貌が、どこかで見た気がしつつも思い出せずに、キャロルは思わず小首を傾げていた。
「…やはりおまえのところも、似ていると言う事じゃないのか、ソユーズ」
「レアール侯とご息女程ではないと思いましたがね」
揶揄するように声をかけるエイダルに、男性は苦笑している。
「ソユーズ……あ」
「ファヴィル・ソユーズ――おまえの知る、ルスラン・ソユーズは、この男の息子だ」
ソユーズの名で理解したらしいキャロルに、エイダルも、そう言って頷いた。
「表向きは宰相書記官として宮殿にいるが、この男が
エイダルのため息は、心底呆れていると言った感じだった。
一方のキャロルは、突然のこの情報開示に、目を丸くしている。
思わず辺りを見回してしまったが、それにはファヴィルが「立ち聞きなど、この私が許していませんから、大丈夫ですよ」と、キャロルの危惧を酌み取ったように、
「あの…ルスランは、自分は没落してしまった貴族の、家名だけをかろうじて維持している程度の庶民だ、と……」
キャロルが、おずおずと片手を上げて二人を見比べれば、無言のエイダルを見やって、ファヴィルがそれに答えた。
「間違いではないですね。実際に『ソユーズ』と言うのは、我々が生まれる遥か昔から、既に断絶していた子爵家の家名です。恐らく
「…だから、あんなに暗器いっぱい持ってるんだ……」
そして道理で、誰もがルスランを苗字ではなく、名前呼びをする訳だ。
ここにソユーズ家の当主がいるのだから。
思わず納得、と言った
「そう言えば、ルスランから取り上げた
ファヴィルの笑顔は、ルスランのそれを彷彿とさせる。
そう言えば――人の首が落とせる糸だと言っていたような。
「いやっ、取り上げてないです!借りただけです、借りただけ」
「使い勝手が良さそうだから、自分の分も融通して欲しいと言ったとか」
「……何で筒抜けなんですか……」
そう言う組織だ、と言ったのは、ファヴィルではなく、エイダルだった。
「普通にしていて
「ルスランもリヒャルト様と同じで、とてもフェアラート公爵家やルッセ公爵家に膝は折れないと、エーレ様にお仕えしていましたが、第一皇位継承者には仕えない事が前提の〝
自分の存在に怯えるどころか、単に〝暗器をいっぱい持った人〟で片付けられたのは、ルスランにとっては、ちょっとしたカルチャーショックだったらしい。
「エーレ様ですら、
深い笑みを見せるファヴィルに、むしろエイダルが、呆れた視線をキャロルに投げた。
「ルスランは、あれでも次期
「ええ。表に出ていない連中まで、面白がって、キャロル様に使わせてみてはどうかと、暗器を取っ替え引っ替えルスランに押し付けていたようですから。私がお会いするのは、もちろん今日が初めてですが、実働部隊がこぞって認めている以上、今更、私が見極めをする必要はないですね」
「…あれ、じゃあ、ルスランって、次期『ギィ公爵』なんですか?本人が知らないだけで」
そうなりますね、と、ファヴィルが頷いた。
「存在を表に出せない皇統ですが、継承権は維持させる必要がある。ですから我々は、代々、取り潰しに遭ったような上位貴族の中から、連座が避けられないものの、本人が極めて優秀な場合に限り、ソユーズ一族として引き抜く事で、誰にも知られないまま、皇統を維持してきました。場合によっては、名前さえ変えさせてね。今回も、表向き潰される家は多いですが、ある程度を、そうやってすくい上げるつもりですよ。ルスランにも、その中から伴侶を選ばせる事になるでしょうね」
「そうなんですねー……」
「…気にするのは、そこなのか。
珍しく、突っ込む側のエイダルに、ファヴィルが面白そうな表情を見せたが、キャロルは小首を傾げただけだった。
「そこはもう、ルスランみたいな、
「―――」
そこで初めて、ファヴィルの表情から、
気付いたエイダルが、一瞬だけ、そんなファヴィルを見やった。
「私やルスランが、エーレ様の地位を脅かすと、お考えですか?」
「今は大丈夫だと、思ってます。だけど、彼が今の自分を見失って、貴方やルスランが、仕えるに値しないと、思い始めたなら?そうでなくとも、直系が平凡以下で、傍系の方が優秀だった場合に、欲が出た時代だって、きっと、ありますよね?直系当人が納得して、養子にするとか、
エイダルも、すぐには答えを返さなかった。
エーレの隣に立つのが、キャロルであれば、膝を折れる。
ルスランがそう言った意味を、エイダルもファヴィルも、ここで初めて理解したのかも知れない。