88 目覚め
「殿下。娘は――」
侍女がデューイの帰還を告げてから、ほとんど時間はたっていない。
荷解きや、着替えすら惜しいと言った
「……っ」
「私が
さすがに、そこまで手紙には書けなかったエーレは、ここで初めて、正確な事実をデューイに告げた。
「彼女専属の護衛と、3人がかりで何とかイルハルトを地に沈める事は出来たものの、その護衛も、一人は腹部を
言外に、とても護衛を責められる状況にない事を示唆されたデューイが、憤りのやり場を失くして、唇を噛み締める。
峠は越えていると聞いて、何とか落ち着いたと言った感じだった。
「…これまで、領をお預かり頂いて、有難うございました、エーレ殿下。後は私が娘を
「……っ」
目に見えて、エーレの表情が揺らいだ。
デューイとしても、彼が本気でキャロルを欲している事は、疑うべくもないと――ここまできて認めない訳にはいかなかったのだが、今はそれ以上の、喫緊の問題があった。
「殿下。陛下のご容態が、抜き差しならないところまできているようだと、エイダル公爵より言付かっております」
「なっ…⁉」
「もしかしたら、殿下がここから
「陛下…が……」
「それと、エイダル公爵は、陛下に万一の事があれば、
公爵自身のお人柄…と、なるべくデューイはオブラートに包んだつもりだったが、要は遠慮斟酌なく、第二皇子派を
エーレも、それについては反論が出来なかった。
そして、今はこれ以上、
「支度は屋敷の者にさせますから、ギリギリまで、娘の側に居て下さって構いません。私は着替えと…殿下が肩代わりして下さっていた書類の確認を、急ぎ行います。必要であれば、後ほどまとめて確認に、顔を出させて頂きますので……」
「分…かった。では、出発は、明日の朝に……」
エーレの葛藤には、敢えて見て見ぬフリで、デューイが部屋を退出する。
エーレはしばらく、キャロルを見つめたまま、身動き一つ出来ずにいた。
* * *
長く眠っていると言う感覚だけが、キャロルの中にはあった。
「だけど陛下はもう、体調を崩してから長かったし、近頃、公務はずっとエイダル公爵と分担していた。実感が乏しいのは…君からすると、親不孝になるのかな……」
だが今日は、いつもよりハッキリと、エーレの声が聞こえているような気がした。
「キャロル」
頬に触れる
「いったん、
吐息さえも、耳元で聞こえるような気がした。
「首席監察官でも、第一皇子でも……もし、皇帝になったとしても、俺の気持ちは変わらないから」
皇帝?
皇子でさえも、
「だから君だけは――肩書きの向こう、皆と同じところで
エーレの掌が、頬からゆっくりと首の後ろ側に伸びて行き、ほんの少しだけ、頭を持ち上げられた気がした。
唇に触れる、柔らかな感触は――五年前の、あの日の
ゆっくりと
「……キャロル……?」
エーレの顔も、声も、近過ぎて、キャロルも絶句したままだ。
自分は無意識の内に、そんな展開を
目を見開いたまま、一言も声を発しないキャロルを心配したのか、エーレの掌が、不安気に、キャロルのこめかみから、頬の辺りを撫でる。
「キャロル……俺が、分かる?」
「…エー…レ……」
いったいどのくらい眠っていたのか、声を出すのも億劫になっていた自分に、キャロルは少し驚いたが、エーレは、そんな事は些細な事だとでも言わんばかりに、
「ああ。それで良いよ。――それが良い」
5年振りに顔を合わせて、あの時のまま、敬称を付けずに、自分を呼んでくれる。
充分だ。
エーレはそのまま、今度は深く、長い口づけを落とした。
あの日と同じ様に。
「ん…っ」
キャロルが驚いたように身体を跳ね上げ、それが右肩の怪我に
エーレの唇から逃れた僅かな隙間に「痛っ…」と、声が漏れた。
小さな声だったが、エーレの耳に届くには、充分だった。ごめん!と、愕然としたように、エーレがキャロルから離れた。
「怪我人に何をやってるんだ、俺も……あ、いや、とりあえず、レアール侯爵に知らせてくるから!」
口元に手をやり、僅かな羞恥を見せながら、慌てたようにエーレが寝室を後にする。
見送ったキャロルの