86 エーレvsアデリシア(2)
今は髪飾りは、侯爵邸の侍女が懸命に洗ってくれて、ベッド横のサイドテーブルに置かれている。
「今度は一緒に、ルヴェルまで新しい髪飾りを買いに行こうか……」
ルフトヴェーク公国の西北部に多い、金色の髪に指を絡ませる。
「アデリシア殿下の手紙は、君が『イルハルトとの戦いの最中に負傷して、ずっと意識が戻らない』と、俺が連絡を入れた事への返信として、送られてきているんだ。それまでは、伝言を別に預かっていたからね……」
* * *
アデリシア・リファール・カーヴィアルは、外見的には、くすんだ赤紫――蘇芳色の髪と瞳、典型的なカーヴィアルの民の姿形をしているのだが、これほどまでに、瞳の奥深くに機知と知性を
逆に言えば、大叔父の存在があったが故に、表面上のエーレは、冷静でいられたのかも知れなかった。
「遠路はるばるお越しくださり御礼申し上げる、
「もちろんです、
部屋の空気が寒い――と言うか、書記として場に残るクルツの顔色が悪い。
エーレは、キャロルとの手紙のやりとりを通して、カーヴィアル帝国の公式語を身につけており、少なくとも、書記がクルツである必要はない。
「近頃、貴国の内側が、無事息災と言いづらい状況にあると、聞き及んでいるが……
敢えて〝第一皇子〟と言わないのは、事態の転び方次第で、カーヴィアル帝国が、ルフトヴェーク公国の内政に干渉、第一皇子を意図的に支援したと見做されないようにする為だ。
それが、帝国宰相として当然の対応と知るエーレも、表情は変えない。
「その件に関しましては、まずは
キャロル・ローレンスの存在があるとは言え、無条件で〝
そのようだ…と、アデリシアが、らしくもなく、低く呟いたのを、クルツは敢えて黙殺した。
現在ここは、カーヴィアルとルフトヴェークの、第一皇子同士の会話の場ではない。あくまで帝国宰相と、公国首席監察官との間の会話と
「既にお聞き及びのようだが、キャロル・ローレンスは後宮で今、
「………そうですか」
今度は、返すエーレの声が、氷点下まで下がった。
双方、本人不在の茶番と知って話しているのだから、クルツでなくとも、寒々しい事この上ない。
「彼女に会えないのは残念ですが…ぜひこれを、この度の慶事の祝いの品として、お届け願えますでしょうか」
「これはこれは。申し訳ないが、慣例として、中を拝見しても?」
皇族宛の贈答品は、例外なく内容を検閲される。
アデリシアは、既にキャロルが皇族同然である事を言外に主張し、読まれる事を前提に、書類を持参しているエーレも、個人的感情は別にして「どうぞ」と頷くより他はない。
クルツからすれば、本当に読んでいるのかと言いたくなるようなスピードで、アデリシアは書類をめくっているが、エーレにとっては、自分と同じくらいに見えるため、特に表情を変えなかった。
「……なるほど」
一通り読み終わったアデリシアの口元に、酷薄とも思える笑みが浮かんだ。
「細部に
キャロルにも、ジルダール商業ギルド長にも読み取れる書類が、アデリシアに読めない筈がない。
細かい補足さえ、アデリシアは必要としていなかった。
むしろ、この短期間で偽金貨流通の裏をとってこれるようなギルド長を、中央に引き抜きたいと思っているくらいだ。
「
「いや……むしろ仕掛けを始めて、こんなに早く発覚する事を、想定はしていなかった筈。発覚した時点で、チェックメイトとなるのが、本来の狙いだったと見て良いだろうし……」
「既に流通してしまっている金貨と言っても、この書類で見る限りは、まだ本当に、ごく一部のようだから、周囲の反
何でもない事のように言っているが、話を聞いてから、わずかな時間で、その対策まで纏まっていると言うのは、とても普通の
「…書類の信憑性を、お疑いにはなられないのですか」
念の為にとエーレが問いかけてみたが、アデリシアは何でもない事のように頷き、その直後、意味ありげにエーレを見返した。
「ご自身で原本を持って来られているのと、普段からの接点がない、クーディアの商業ギルドの助力を得ている点は、書類の中立性、真偽性、双方の点から言っても、棄却する要素がない。非常に私好みの書類です。わが
その「華」の意味を、察せられないエーレではない。
「…
「もちろん。どうせなら、
恐らくは、当該公爵家やその周辺が
このまま帰るなら、それも自由…と言外に言われているのは分かっている。
エーレは、息を一つ吸い込んだ。