57 最善と次善
「まず、明日ルフトヴェークに
「ヒューには、前にも話したよね?
恐らくは、誰かに聞かれる可能性を警戒してか、敢えて「父」と言わないキャロルに、ヒューバートが僅かに眉を
「それは…確かに多少は聞いたが……」
「イルハルトに先行するためには、ディレクトア側から入る方が早い。とは言え、向こうはもうカーヴィアルを出ているだろうから、なるべく早くこちらも
「…っ、分かった!ディレクトア経由で、ルフトヴェークに出発するって言うのは、分かった!ディレクトアで、第二王子に繋ぎを取るって言うのも、分かった!けど、婚約って何だ⁉誰と誰の婚約だ⁉」
ふい、とキャロルが視線を逸らした。
「何で、こんな時だけちゃんと聞いてるかなぁ……」
「おい!」
「多分、もう何日もしないうちに、このあたりにも話は流れて来ると思うんだけど…私が、アデリシア殿下の側妃として、近衛を離れて、後宮に入る……って」
「はあ⁉」
「フランツ、声が大きい」
冷静に、ルスランがヒューバートを
「何故、そんな話になっているんだ?君は――」
「何やってんだって、言われる話なのは分かってますよ!だけど、これしか
「おまえ…っ、誰が開き直れと――」
「二人とも、落ち着け」
パン、と、ルスランが両手を叩いて、感情的になりかけていた、キャロルとヒューバートの話を中断させた。
さすが諜報担当と言うべきか、今の一言で、キャロルの意図した事を察したようだった。
「分かった。責めるような物言いをして、すまない。確かに――言われてみれば、それが最善なのかも知れない」
「おい、ルスラン⁉」
「重要なのは、事実じゃないんだ、フランツ。彼女がしばらく
「なっ……」
「はい。否定はしないので、代わりに出来れば、ここだけの話にしておいて下さい」
視線を向けられたルスランが、軽くため息をついた。
ヒューバートは、どこから怒って良いのか、分からないと言った感じだ。
「…エーレ様には、どう説明しろと?」
ルスランが、やや意地の悪い問いかけをすれば、キャロルも、聞かれたくなかったとでも言いたげに、顔を
「多分、詳しく言う前に気付くと思います。そう言う人だと思うので……。ただ…嫌われないと良いなぁ……」
「え?」
「何でもないです…。あの、ちょっと、お願いがあるんですけど」
「お願い?」
唐突なキャロルの「お願い」話に、ルスランも、ついうっかり、聞く体勢をとってしまった。
「
「読める字を書ける人?」
「とりあえず急ぎの案件なので、綺麗な字、とまで贅沢は言いません。読める字を書いて貰えればOKです。――写しが、欲しいです」
この世界には、コピー機なんて文明の利器はないので、アナログに手で書き写すしか、やりようがないのは、仕方がないが、もどかしい。
「必要なら、この書類ごと、君が持っていけば良いんじゃないのか?エーレ様も、元は君に渡すつもりで――」
当然の疑問を口にするルスランに、やんわりとキャロルが首を横に振った。
「この原本は、アデリシア殿下に渡さないとダメなんです。原本がないと、殿下は動いてくれません。そこはもう、自信を持って言えます」
「……どんな自信なんだ」
「私は写しを持って、ディレクトアのアーロン殿下と、ルフトヴェークのレアール侯爵に、それぞれ見せます。原本は、アデリシア殿下が持っていると言えば、そっちは全然通用する筈ですから」
「…
「………それは」
その途端、物凄く言いにくそうな表情を、キャロルが見せた。
何となく、ピンときたらしいヒューバートが、ルスランを見やる。
「おまえしか…いねぇよな、ルスラン」
「は?」
「は、じゃねぇよ。この書類の何たるかを、正確に説明出来るのって、エーレ様とお嬢ちゃんと、おまえくらいしかいねぇだろ。俺じゃ、謁見するに足る地位はあるにしても、中身はタダの伝書鳩になるぞ」
「……自慢げに言う事か、それ」
「ってコトだよな、お嬢ちゃん?」
どうだ、と言わんばかりのヒューバートに、苦笑しながらキャロルも頷いた。
「半分イエスであり、半分ノーでもあるかな…。クラッシィ公爵家や、その子飼いに怪しまれずに、殿下に直接謁見する唯一の方法は〝公国首席監察官エーレ・アルバートが、友人キャロル・ローレンスに、側妃の祝いを届けたくて、彼女を訪ねて来た。併せて、第一皇子の外遊に関する打ち合わせもしたい〟――この理由一択だから。エーレの意識が、もし戻れば、エーレに殿下に会って欲しいし、どうしてもダメだったら、その時はお願いしたい…って言う感じかな…」
「色々ペテンだなぁ、おい。そんなんで、
「むしろ、全部がペテンだから、それを分かっている殿下は、その〝謁見希望者〟に会わなくちゃダメだって言う事が、分かるんだよ。誰が来たにせよ、差し向けたのは、私しかいないって言う、隠れた主張になっているから」
「……面倒くせぇ……」
ヒューバートは、心底面倒だと言う風に顔を
「いや…エーレ様が、もし早期に気が付かれたとしても…
キャロルの顔が、哀しげに歪む。
「酷な事を言ってるのは、分かってるんです。ただ殿下は、最悪、私が本当に後宮に入って来ても構わないと、陛下におっしゃったくらいなので…殿下を動かすに足るだけの事は、しなくちゃならないんです」
「―――」
「有無を言わせず、後宮に閉じ込められるところから、レアール侯の暗殺阻止に動く許可を取るまでだけでも、結構苦労したんですよ…。殿下は、最善の策の次の手も、次善の策の次の手も、両方出せる人だから……」
アデリシアは、例え自分が思う「最善の策」があったとしても、誰かがそれを「最善だ」と声を上げて、理由を証明してくるまでは、万人が最善と思う策――言わば「次善の策」を
独裁者になる訳にはいかない、と言うのがその主な理由で、アデリシアを動かすには、明確な根拠と、本人の覚悟が必要になる。ただ
その代わり、一度「最善」を決めて動けば、やる事は、苛烈を極める。貴族間のしがらみなど、歯牙にもかけない。
後には雑草も残らない、と言うのは、決して誇張ではない。
「私はこの後、クーディアの商業ギルドに行って、この、マルメラーデ側の書面に関しての根拠の部分を確認して貰います。ここのギルド長、すこぶる優秀な
泣き笑いの表情のキャロルに、ヒューバートもルスランも、言葉が出ない。
「手紙は書きます。殿下にも――エーレにも。でも…もし、エーレに呆れられて、嫌われたとしても…私は…何も言えないなぁ……」
これでは断れない…と、ヒューバートとルスランは、天を仰いだ。