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2-1 Not Accepted

 新学期から2週間が経とうとしていた。あの夜、渋谷の展望台で一線を越えた宇奈月流雫と室堂澪は、恋人同士となっても相変わらずの日々を過ごしていた。
 ……思えば、流雫がかつての彼女、欅平美桜から告白されたのは、ちょうど1年前のことだった。あれからもう1年経ったのだ。その時は美桜と「別れ」、失意の最中に澪と出逢い……そして半年後に恋人同士になるなど、全く想像もしていなかった。美桜と「別れ」なければ、流雫と美桜は今でも恋人同士で、澪とは知り合ってもいなかったのだから。
 SNSではよく使われるネタに、今タイムマシンが有るなら何時に行って何をするか、と云うものが有る。もし流雫が、タイムマシンで1年前の自分に会い、1年後のことを話したとすると、一瞬の驚きの直後に露骨な不快感を見せ、それと同時に殴られているだろう。戸惑いながらも告白を受け容れ、ようやく美桜を好きになることを知った時に、最も想像不可能な最悪の形で失ったことを伝えられるのだから、殴られるだけで済めば御の字で、瀕死の重傷を負っても文句は言えない。
 それほど、この1年で色々なことが多過ぎた。

 流雫が通う学校、河月創成高校。2月、近くの教会を狙った爆破テロ事件の影響で校舎の一部が損壊し、3学期いっぱい閉鎖されていた。それがこの春休み……流雫がフランスに帰郷している間に復旧工事が終わった。ようやく、これまでとほぼ変わらない学校生活が戻った。
 その一方、変化が有ったのは政治だった。流雫がパリに着いた日、国会議事堂で国会議員の暗殺事件が起きた。そのため、欠員を補充する選挙が九州の佐賀県で行われ、大方の予想を裏切り無所属の新人が初当選を果たした。ただ、それは地方のことであり、連日何かにつけて揉める国会そのものは、或る意味では平常運転だった。
 入学して2年目を迎えた学校での話題は、専ら間近に控えた大型連休だった。社会人は多くて10日間だったりするらしいが、学生は暦通りの飛び石だ。尤も、流雫にとっては半分以上無関係の話ではあったが。 
 大型連休、流雫は1日だけ澪とデートの約束をしていた。それ以外の連休は、互いに都合が悪い。尤も、本人は親戚夫妻が営むペンション、ユノディエールの手伝いを意識していて、本当はデートをしている暇は無い、と思い何の予定も入れていなかったが。
 しかし、親戚は相変わらず寧ろ休日はペンションのことを忘れ、ゆっくりすべきだと言っている。ただ、やはり澪と遊ぶ以外にこれと云ってやりたいことは無い。
 よく晴れた大型連休前最後の週末、流雫は毎月恒例のホールセールストアへの買い出しに出た。普段より、特に日用品を多く調達する必要が有った。

 山梨県東部の都市、河月。内陸の人口15万人の地方都市で、都心からは特急列車で1時間半ほどで行ける。市の中心は北部の河月駅で、その周辺界隈は駅ビルが建つなどして比較的栄えている。その一方、少し行った郊外は山と川、河月湖と云う小さい湖が有り、ペンションやコテージが軒を連ねる。リラックスできる比較的近場の観光地としての需要が高く、それは南端の大規模工場で生産される電子部品に次ぐ主要産業だ。
 流雫が住み込んでいる親戚のペンションは、特にワーケーション……ワーキングホリデーと呼んだ方が正しいのか……目的のデイユースも好調だ。そして、数部屋だけの宿泊施設だが大型連休は既に全日予約で満室だ。
 ワンボックスに揺られて着いた郊外のホールセールストアは、開店と同時に駐車場が混雑する。それでも、店の建物に比較的近い辺りに車を止めることはできた。店内に入ると、流雫は大型のショッピングカートを押して歩く。
 あの2月の襲撃事件の痕跡は、綺麗に修復されていた。しかし、あの時何が起きていたか全て知っているだけに、流雫が無意識に無表情になるのは仕方ないことだった。
 その彼が肩から提げるディープレッドのショルダーバッグは、底に銃を忍ばせてある。……やはり、今の日本には銃は必要で、初めて銃を手にした日から持たなかったのは、日本を発つ日と帰国した日だけだった。海外に持って行くことができない上に預けられるようなサービスも無く、自分の部屋に置いていくしか他に無かったからだ。
 それでも、帰国した日は午前中に空港に着き、それから都心で夜まで澪とデートしたが、何事も無く平和そのものだった。日本も常に危険なワケではないのだが、平和と危険の差があまりにも激し過ぎる。
 次第に重くなっていくショッピングカート。しかし、1台分だけでは足りず、途中で一度精算してワンボックスに積み、再び店内に戻って行く。少し多すぎる程度に調達していなければ、連休が終わると同時に尽きて臨時の買い出しに行く必要に迫られることを、親戚は面倒だと思っていたのだ。
 嵩張ったのは日用品で、加工食品の類いも普段より多めだがそこまでではない。生鮮食品は別の店で毎日仕入れるため、ここで調達する必要も無い。
 これだけで、午前中が終わろうとしている。ペンションはワーケーション需要でデイユースも好調だが、日祝日は受け付けていない。帰った後は夕方からの宿泊客に向けての準備になるのだが、この日ワンボックスは河月駅まで寄り道し、流雫だけ降ろされた。少しだけ買い物をしたいと言うと、一度帰るより駅で降ろすと言われたのだ。
 河月市を代表する河月駅は特急停車駅で、2年前にリニューアルオープンした真新しい駅ビルが建つ。それまでは、安い土地を活用した郊外のショッピングモールとホールセールストアしかめぼしい商業施設が無かったが、これがきっかけで市内は勿論、周辺地域からも人が集まるようになった。
 駅ビルは5階建てで、雑貨屋とファストファッション専門のアパレルがメインテナントだった。地方都市の駅ビルの典型的なパターンだ。駅前のロータリーからはショッピングモールへのバスも出ているが、駅ビルも賑わっている。
 雑貨屋の入口のイベントコーナーでは、大型連休を間近に控えて行楽向けの商品が並べられていた。尤も、流雫は行楽客を迎え入れる立場の人間だし、遠方への旅行に関してはフランスとの往復で高校生ながら上級者のレベルで、彼にとって特に目に付くようなものは無い。その脇を通り、学校の授業で使うノートとミリペンと呼ばれる細書きサインペンをまとめ買いしようとした。

 1年分は有るだろうノートで膨らませたショルダーバッグを提げて、流雫は改札近くのホットドッグ屋に入ることにした。リニューアルオープンと同時に入居したテナントで、小さなテーブルと椅子が数人分。元々ToGo……持ち帰りが前提の小さい店だ。この言い方は日本では通じにくいが、寧ろ海外では割と一般的で、この言い方でなければ流雫は何か違和感を抱く。
 数人の行列の最後尾は、店の外だった。そこに並んでいると、十数メートル先のロータリーに黒いワンボックスが乗り付け、スライドドアが開くと数人が降りるのが見えた。最後に降りたのは、縮れた白髪交じりの中年だった。如何にも高そうなスーツを着ている。その近くでスピーカーや掲げる旗の準備が始まっていた。
 流雫はその男をテレビで見たことが有る。先日の補欠選挙で当選し、今回初めて国会入りを果たした。名前は確か、伊万里雅治。知っているのはそれだけだが、流雫は一目で生理的に受け付けない、と直感した。
 ……自意識過剰と云うか被害妄想と思われても仕方ないが、ワンボックスから降りた瞬間、一瞬目が合った。そして、不敵な……厨二病風に云えば暗黒微笑を感じたからだ。
 流雫は端から相手にしない、眼中に無いと云う表情をしていたが、オーダーの段階でガラス張りの窓際の席に座ることに決めた。軽く焦げ目が付いたバンズに入れた切り込みにチーズとレタスを敷き、ソーセージを挟んだ熱いホットドッグが乗った皿とアイスのストレートティーが注がれたグラスを、その小さな丸テーブルに置く。落ち着いた日曜日の昼下がりを装うが、あの男が始めるらしい街頭演説で何を語るのか、どうしても気になっていた。
 普段、政治についてあれこれと語るような趣味は無いが、自分に向けた目の意味はレイシストとしてのそれではないのか、確かめてみたかった。尤も、仮にそうであっても乱入などする気は毛頭無いが。
 流雫がそう思ったのは、彼自身の外見が周囲とは違っていたからだ。今この瞬間に周囲を見回しても、シルバーヘアは他にいない。そして、あの距離で判ったかは甚だしく疑問だが、アンバーとライトブルーのオッドアイをしている。それが、日本人らしく見えない少年、宇奈月流雫の特徴だった。それが「標的」になったのではないか、と流雫は読んでいた。
 やがて、眼鏡を掛けた男がマイクを持ち、スピーカーで声を拡散させて語り始めた。

 インバウンドに目を向けた経済復興は、治安と云う観点からは大失敗だった。そして、治安悪化の原因を招いた外国人の入国制限と、合法違法問わず全て難民の即時強制送還を国に強く求める。それが外国人犯罪を撲滅する唯一の手段で、そうすれば日本は安心安全な国に戻る。
 また、一向に解決の糸口が見えない領土問題を含む国際問題に対して、対話での解決は最早不可能だとして、日本の軍事力を強化して普段から相手国を牽制しつつ、有事の際には積極的且つ迅速に軍事行動を執れるように、重ねて政府に強く働き掛ける。
 全ては、偉大なる日本人……とりわけ大和民族による偉大なる日本の構築。スローガンとしてワン・フォア・グレートジャパン、個々は偉大なる日本のために、を掲げる。そのためには、国民の積極的な協力が必要だ。それは意識の変化から始まる。さあ、たった今から国をよくするために変わろう!生まれ変わるのだ!

 流雫の読みは、残念ながら外れてはいなかった。あの黒い、薄気味悪い微笑もそう云う理由か、とは容易に断言できた。引っ掛かるものが多く、聞いていて愉快になる事など無いが、流雫はガラス越しに一部始終を聞いていた。
 流雫は日本人として帰化しているが、ルーツはフランスだ。日本人の血を引いているが、フランス人のそれも流れている。日本は、西欧と北米に対しては時折頭が上がらないように見えるが、それ以外の国……特に発展途上国に対しては基本的にマウントを取っているような態度に出る者が多いと感じる。
 それは、なまじ主要先進国と呼ばれる国、経済大国としてのプライドが大きいように思える。尤も、ここ数年は特に日本礼賛の流れが強く、その西欧や北米さえも、今風に言えばディスっている感が有るが。海外メディアへの日本に対する報道に関しても、日本を少しでも批判していると捉えれば、やれ内政干渉だ、口を挟むな、お前の国の問題は棚上げか、などと牙を剥いて噛み付く連中が増えた。それは愛国心が暴走を始めた末のものだ、と言っても差し支えは無い。
 流雫のトレードマークと言えなくもないオッドアイは、その意味で差別の標的になりやすかった。しかし、国籍そのものは日本で、また混ざった血は西欧の国のものだから、今まで大したことなかったと言える。今までは、だが。
 「……一生、相容れることは無いな」
と呟いた流雫は、溜め息を吐いてすっかり冷めたホットドッグに歯を立てる。ただ、冷めても風味が衰えないのがこの店の特徴で、それは彼に少しの安らぎをもたらした。

 今日のことは、澪には黙っているつもりではあったが、バレた。メッセージを送る時の文章のクセで、何となく直感するらしい。ただの文字の羅列でしかないのに、だ。……味方なら頼もしいが、敵に回すと相当厄介だと、流雫は白状しながら苦笑を浮かべた。
「ないわ……」
澪はドン引きしているような返事を返す。そして続けて打ってきた。
「よくそれで、国会議員になったものだわ……」

 流雫からのメッセージに、澪は軽くキレた。
「ないわ……」
当然、その矛先は流雫ではない。
「よくそれで、国会議員になったものだわ……」
澪はメッセージを打ちながら、同じ事を呟く。
 「それこそレイシズムよ。……誰が投票したんだか……」
「これが日本のリアルだってのは、何となく判ってはいたけど、でもここまでだったとはね」
「どっちにせよ、あたしが支持することは一生無いわね。誓ってもいいわ」
澪は怒りに任せるように、流雫に連投する。話を直接聞いた当事者の方が冷静で、又聞きした方が怒りを露わにしたが、それだけ澪にとっては有り得ないことだったのだろう。
 そして彼女は問うた。
「ルナは、話を聞いてどう思ったの?」
「正直、アナクロニズムだなと思った。ただ、怒りや呆れも通り越して、逆に清々しくなるぐらいだった。それぐらいの度胸が無いと、国会議員は務まらないんだろうな」
と流雫は打ち返した。
 正直、伊万里雅治は愛国心の塊だと云うのは聞いていて判った。しかし、いくら難民の不法入国が問題化していると云っても、難民を排除し、外国人を規制することで、日本は安心安全な国になると云う主旨のあの街頭演説だ。国内外からの、批判どころか非難は必至だった。
 しかし、本人や支持者はそれも内政干渉だの何だのと、拒絶反応を起こす。数年前、それで日本は世界から嘲笑の的になったのに、懲りていないらしい。否、寧ろ周囲の頭が悪く、自分たちについていけない、と言うだろう。
 「ただ、あたしは納得しない、と云うか落ち着かないわ」
と澪が打つ。
「寧ろ、そこで声を上げたところで、いい餌食にされるだけだから。沈黙は肯定を意味するか、無関心こそ最大の否定か。個々の解釈は変わってくるけど、僕は否定になると思ってる。……昨日何かの記事でそう書かれてて、その受け売りだけどね。ただ、連中にとっては前者だから……」
流雫はそう打ち、悪びれるように続けた。
「折角の夜だってのに、こんな話に付き合わせて……」
「流雫が悪いワケじゃないよ。全ては、あの演説でしょ?」
と澪は打つ。……こう云うところは、流雫は弱い。その意味でも澪は強いと思う。
 「……ところで、今度は何処に行く?」
流雫は話を変えた。連休中のデートの約束はしていたが、何処に行くかは何も決めていなかったことを思い出した。
「また、青海に行く?」
澪は打つ。青海……アフロディーテキャッスルは2度
 あの最悪の出逢い方をした日をリセットしたい。夜こそ幸せだったが、如何せん始まりが最悪過ぎた。何が悲しくて、銃声と警察署で半日潰さなければならないのか。それは2人、同じだった。文句なしで決まった。
 待ち合わせが朝、東京テレポート駅なのも、数秒で決まった。

 翌日。澪の学校でも、休み時間の話題は専ら大型連休の過ごし方だった。
 黒と白のセーラー服を着た3人のグループが、1つの机を囲んでいる。その中心は、澪だった。女子生徒とは基本的に仲がよいが、特にこの2人とは遊ぶ頻度も高い。入学当時からの仲だが、クラス替えも乗り切った。
 「澪はどうするの?デート?」
「うん。ちょっとね」
澪はライトブラウンの髪を姫カットにしたボーイッシュな1人、立山結奈の問いに微笑みながら答える。
 机に置いた澪のスマートフォンの壁紙は、シブヤソラで東京の夜景を背景にしたセルフィーだった。2人にとって初めての1枚、それは2人が恋人同士になって最初の1枚でもあった。あの告白の後、帰る直前に撮った初めてのセルフィーだったが、意外と上手く撮れていた。
「顔がもうリア充って感じ。羨ましいな」
「フランス人の血も混ざってるんだっけ?何か、澪には勿体ないな」
と結奈に続いたもう1人……黒部彩花に向けて、
「それどう云う……!?」
と澪はやや怒り口調になってみせるが、目は笑っていた。大体、戯けるのは彩花の役目だ。
 その戯れるような3人の話を遮るように、1人の男子生徒がニヤつきながら
「室堂も変わり者だな、こんな奴が好きだとは」
と、澪のスマートフォンを勝手に手に取ろうとする。澪は表情を消しながら、すぐに手に収め、胸元にやる。このデリカシーの無さは、元から生理的に受け付けない。
 「ドコまでヤッたンだ?」
その嘲笑うかのような低い声を無視する澪は、完全に無表情だ。この生徒は、それでも構わず続けた。
「そんなワケ判らないガイジンなんざ捨てて、俺のような混じりっ気無しの日本人に乗り換えるべきだよな、高尚な日本人なら。ほら返事は?はい、だろ?」
 この男、元から愛国心の塊ではあることは3人揃って知っていた。ただ、方向性を著しく間違えている時点で、どうしようもない。しかし、だからと云って無碍にすると余計に絡まれる。
 澪は女子生徒とは仲がよいが、男子生徒とは最低限の会話しかしたことが無い。だから流雫は、その意味でも彼女にとって特別だった。
 「……うるさいな!」
結奈が立ち上がると同時に声を上げる。
「結奈!」
「彩花、ちょっとこいつは度が過ぎてる!一発しばかないと!」
結奈が目を向けた彩花も、大きい三つ編みの黒いロングヘアを揺らしながら立ち上がっていた。眼鏡越しに結奈を見る彼女は、しかし本気で止めようとは思っていない。
「しばくのは別に止めないけど……!」
結奈と彩花、澪と最も仲がよい2人が彼女の代わりに噛み付く。その光景に他の生徒も注目する。
 「そんなんだから女子全員からディスられてんだよ!」
と言った結奈は、澪に振り向いて続けた。
澪、あんたも何か言いなよ!」
しかし澪の返事は
「何も言うことは無いわ」
だった。2人……特に結奈とは正反対に、至極冷静だった。
「平気なの?散々カレのことディスられてんだよ!?」
 「相手にするだけムダじゃないの」
結奈の予想外の反応への驚きに、澪は淡々と返す。
 この男子生徒のことなど、端から相手にする気は無いことを、少女は露骨に示した。好きの反対は嫌い、ではなく無感心。無反応こそが、最大の拒絶反応だ。
 「そうは言って、本当は俺の事が気になるんだろ?」
「大概黙らないと……!」
ヒートアップする2人の言葉を遮るように、澪は軽く溜め息をつくと
「……あたしに入ってくる余地は無いわ」
と一言だけ、男子生徒に鋭い目線を向けて言った。軽く遇う気でいたが、それで通じないなら、一言で黙らせたかった。
 こう云う時、澪はヒートアップもクールダウンも、一瞬で切り替えることができる。室堂澪を怒らせると、或る意味結奈より怖い。女子生徒の間では定説だった。
「……面白くねえな!」
手応えの無さを痛感した男子生徒は、そう吐き捨てて去っていく。愉快犯にとって、自分が主導権を握る話に乗ってこないのは、不愉快極まりない。
 呆気ない結末に一気にクールダウンした結奈は、澪の顔を覗く。
「澪……?」
「……あたしには、流雫しかいないから……」
澪は初めて、2人の前で彼の名を声に出した。唇を噛みながらも少し頬を珊瑚色に染め、あの日のことを思い出す。
 ……あの少女のことは決着を付けられていない、それでも澪は流雫への想いを留めることはできなかった。
 結奈は
「流雫、か……。いい名前じゃない」
と言い、彩花がそれに続く。
「るな……月みたいね。何か、暗い世界に浮かぶ、ほんのり明るい月。……例えば、澪の足下を淡く照らすような……」
「流石は才女。喩え方が違う」
「もうっ!」
と、結奈に笑いながら反応する彩花。
 この2人も互いに恋人同士なのを、澪は知っている。この数年、同性愛などの所謂LGBTについての認知が深まってきたが、彼女たちもそれに該当するカップルだ。
 結奈が彩花に告白したと聞いたのは、2月も終わりの頃の話か。思えば、澪がホールセールストアの事件に遭遇した流雫の安否に安堵したあの日、普段は帰りの列車は別方向なのに一緒の方向に向かった。あの後、2人きりになって何処かで告白したのだろう。
 ……2人が恋人同士になった1ヶ月半後、それまて恋愛とは無関係だったハズの澪は流雫と恋人同士として結ばれた。それでも、3人の仲に変化は無かった。実際のところ、長く付き合えるだけの関係と云うのは、そう云う変化でもブレないものだ。
 「ところで、連休どうする?ボクは何時でも」
結奈は切り出す。彩花も答える。
「私も」
澪が何時がよいか、それだけが全てだった。当然ながら流雫とのデートの日だけは避けた。
「あたし、最終日なら空いてるよ?」
「じゃあ、その日で」
結奈が言うと、次の授業を担当する教師が入ってきた。澪の机を囲んでいた2人は、自分の席に戻った。
 ……こんな普通の日常が、今や少なからず贅沢に思える。あの非日常と背中合わせである以上、澪はこの贅沢を存分に享受したかった。

 放課後、澪は3人で駅へと向かう。残りの2人は、言わずもがな。その駅前のロータリーはちょうど帰宅ラッシュが始まるところで混み始めていた。
 黒いセーラー服を着た3人の目に、人集りが見える。その中心には縦長の幟が4本立っていて、そこには伊万里雅治と書かれていた。昨日流雫から話を聞いた澪が、生理的に受け付けないと唾棄した国会議員だ。
 その眼鏡を掛けた男が現れる。幟の囲まれるように立った伊万里はマイクを持ち、低めだが特徴的な声で語り始めた。

 支持者諸君。私は日本人が日本人の誇りを持って暮らせる日本を再建したい。思い起こせば、あの東京オリンピック後の経済政策が間違っていた。困窮する日本経済のカンフル剤として、あの井上武雄元議員が推進したインバウンド強化による外国人マネーを頼った結果、外国人、難民が押し寄せた。その難民による治安の悪化が無ければ、日本は世界一平和な国家だったのだ。先の東京同時多発テロも、難民とその支援組織が引き起こした重罪だ。
 そして今では、奴らはサイレントインベージョン、つまり日本を内から侵略しようとしているのだ。このままでは、日本は外国人に乗っ取られてしまう!来年は戦後80年の節目、日本の地を護らんとして戦った祖先、英霊にどの面を提げて参れと言うのか!
 我々の祖国は日本だ!日本人が安心安全に暮らせる日本を取り戻すことが、先の補欠選挙にて私が掲げた公約であり、今国会議員のバッジを着けているのは、それが支持された証なのだ。外国人犯罪を撲滅すれば、日本人の日本人による日本人のための日本を再建することは可能だ。それこそが、この国に明るい未来をもたらす唯一の方法なのだ!

 ……その演説には、澪には別の意味で刺さった。日本人ファーストの愛国心が暴走した過激派だと思った。あの男子生徒を、もっと過激で悪質にするとこうなるのだろうか。これに心を打たれる者もいるだろうが、同時に敵に回す日本人も多いだろうと思えるのも事実だ。
 ……流雫を睨んだのも、シルバーヘアにオッドアイと云う特徴が、あの生徒が言うところの「混じりっ気無しの日本人」に見えなかったからか。そう思うと、合点がいった。
 演説を大絶賛し、握手を求める支持者と、ビラを道行く人に配布する後援会の連中は、澪から見て異様でしかなかった。そのうちの1人が、3人にビラを差し出して
「日本の真の指導者、伊万里先生をよろしく」
と言ってきたが、誰一人として見向きすることは無かった。その男はビラを持ったまま少し不愉快そうな表情を浮かべていたが、彼女たちには知ったことじゃない。
「何か、色んな意味でヤバい気がした」
結奈は言い、彩花も頷く。
「別に信条や思想を語るのは自由だけどね、でもあれはヘイトだと言われても文句言えないわよ」
澪は2人に頷きながらも、何も言わなかった。

 3人は改札を通ったあたりでそれぞれ別れる。澪は跨線橋の階段から最も近いレディースカーに乗ったが、両開きドアの戸袋あたりに立つのがやっとだった。
 辛うじて見える、毎日見ている何の変哲も無い車窓に目線を向けながら、今し方聞いたばかりの演説を思い返していた。
 ……流雫が聞いたのも、今のとほぼ同じだ。彼の顔が曇るのは当然だ。しかし、だからこそ澪に黙っていようとした理由は、彼女にも判った。

 やはり、日本にはレイシズムが多過ぎる。それも、社会に組み込まれ、無意識に働いているシステミック・レイシズムが。
 十数年前から、日本では自国礼賛が増えた。書籍にせよテレビ番組にせよ、そう云う中身のものが人気だ。自国礼賛は尤もなことではあるが、他国を貶めてまでするほどのものなのか。それが引っ掛かる。
 そして、それに賛同しなければ「左側」すなわち左翼的だとする短絡的なレッテルの貼り方が急増した。それは納得がいかない。ただ、相手に対して優越感に浸りたいだけのレッテル貼りでしかない。
 その弊害が、過剰な愛国心による外国と外国人に対するマウントだった。彩花が言った通り、あの演説はヘイトスピーチだと受け取られても文句は言えまい。尤も、それすらも正論で論破されていて反論できないから、ヘイトスピーチなどと言って貶めようとすることしかできないのだ、と言い出すだろうが。
 言論の自由と云うものを盾にするのは目に見えているが、一方で相手にはそれは無いと云うスタンスが見え隠れしていた。
 深い溜め息を吐き出す澪は、月曜日からとんでもないものを見たと云う表情を露わにした。今週の学校は残り4日。溜め息しか出ないが、それさえ乗り切れば5月だ。

しおり