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 例の祭り囃子が聞こえてくる。茜空を喜ぶようにたぬきときつねが立って踊っていた。不思議な店が、そこにあった。六時と十八時のみ営業する神出鬼没な出汁の名店・書き出汁屋。

「いらっしゃいませーー。どうぞこちらへ」

 頭に葉っぱを載せた小さなたぬきが僕を店の中へ誘う。こちらは店頭の二体とは違い四足歩行だ。かわいい仕草といい匂いに根負けして、のれんをくぐる。

「すごい」

 タイル張りの床が飴色に輝いている。六畳一間の、決して大きいと言えない店内には透明のポットに入った出汁が所狭しと並べてあった。一角にカウンターがもうけられ、小さな椅子と食器棚、それからレジが置いてある。

「これが書き出汁」

 煮干しやかつお節・昆布はもちろん、えび・かに、しいたけ、貝、野菜、畜肉、天体とその種類は幅広い。そのすべてに文字が浮いている。異物混入ではない。文字が、書き出しが気泡とともに浮かび上がっているのだ。ポットなのに沸騰しているらしい。

「試飲してみますか?」

 胸の高さに小皿がふたつ飛んできた。空中で静止している小皿のひとつを受け取る。僕には出汁の種類で気になっていることがあった。

「あの。天体ってどういうふうに作っているんですか」

 そう。馴染みのあるものからあまり意識しない種類の出汁があるなかで、天体だけが異彩を放っていた。ないとは思うが「そのへんの泥水を濾過して作りました」と言われたら困る。

「天体固有の歴史を乾燥させています。あとの工程は普通の作り方と同じですね」
「さっぱりわからない」
「よく言われます」

 そのための試飲ですので、と笑った店員たぬきは小さな椅子に座ってペットボトルの麦茶を飲み始めた。そこは出汁じゃないのか。年中無休と聞いているし、毎日出汁を飲むのは飽きているのかもしれない。
 それよりも書き出汁だ。まずは僕が好きなかつお出汁から試飲してみる。

「いただきます」

 小皿に注いだ出汁に口をつける。おいしい。言葉で表すには陳腐すぎるが、それしか言えない。文字が浮いているのも気にならなかった。今ならどんな書き出しでも書けるという自信がわいてくる。
 これが書き出汁のちから、なのか。
 飲み干し終わった小皿はというと、僕の手を離れて店の奥にある食器棚へと戻っていった。

「衛生面なら大丈夫ですよ。魔法できれいにしてから、しまっております」
「そうなんですね」

 タイミングがいい。たぶん聞かれ慣れているのだろう。魔法って便利だな。最後の小皿を手に取る。出汁がおいしいのは理解した。だとすれば僕がやることはひとつ。
 一番種類の多い天体から選ぶことだ。これは無謀な挑戦なのかもしれない。天体の歴史を乾燥させたという時点でよくわからないのだから。

 しかしだからこそ価値がある。フグもこんにゃくも先人の勇気と犠牲と知恵のうえに今があるのだから。僕が犠牲になることはないだろう。こうして商品として売られているのだから。

 プロキオンのポットを手に取る。プロキオンは冬の大三角形を構成する、こいぬ座の星だ。おおいぬ座のシリウスより先に上がってくることから重要視されていたという、控えめだけど大切な位置づけの星になる。まさに書き出しにふさわしい書き出汁だろう。

 プロキオンの書き出汁はギリシャ語だ。歴史と星にまつわる出来事に由来するのかもしれない。いただきます、と断ってから慎重に飲み干す。

 目の前で火花がはじけた。鼻の奥まで言いようのない香りが突き抜けてくる。不愉快ではない。どこか懐かしい味と匂いに視界がゆがむ。あとからあとから溢れ出てくる涙が頬を伝ってタイルへとこぼれ落ちていく。世の中には、こんな書き出しもあるのか――。

「あの、購入、しても」

 袖で涙を拭き取りながら店員たぬきに告げると、いかにも出汁ですといったサイズの小ぶりな箱がひとつ出現した。
 小皿と入れ違いに手元へやってきた商品をレジへ持っていく。代金を支払い、店の敷居をまたぐ。

「ありがとうございましたーー」

 のんびりとした声に見送られて店を完全に出る。祭り囃子がぷつりと途切れた。振り返った先にもう店はない。
 どれだけあの店にいたのだろう。あたりはもう真っ暗だ。
 書き出汁の素を手に帰路をたどる。
 空には星がまたたいていた。

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