「お嬢様、もう少し腕を上に」
「え、ああ、ごめんなさい」
あの後、結局夢を見ることもなくスッキリと目覚めた私は、朝食もそこそこにさっそく準備を開始していた。
任務の関係で通常軍服で妖魔族の王城に登城することはあっても、礼服で登城するのは叙任式以来だ。着慣れていないというか、着付けられる事に慣れていないため、侍女に手間をかけさせてしまう。
ヘルモーズ隊の軍服は、血染めの謂われを持つ朱殷が基調色となっており、礼服でもそれは変わらない。
上は、純白のシャツに同色のアスコット・タイを結び、家紋をあしらったリングを通す。朱殷の開き襟ジャケットの前身頃は太もも丈、後身頃は膝裏丈で、尾の邪魔にならないよう中心にスリットが入っている。フリンジの付いた銀色のエポレットを通して、魔王の色である漆黒のサッシュを右肩からたすき掛けし、魔王軍の勲章で留める。銀色の飾緒と腰丈の漆黒のペリースを纏えば、ほぼ完成形だ。
左胸とペリースに国章、両腕上腕に部隊章、肩章と袖章で階級を示し、刺繍はすべて銀糸であしらわれている。
下は、伸縮性のある生地で仕立てた漆黒のジャストサイズのパンツに、側面に朱殷の側章。漆黒の革ブーツをブーツインスタイルで合わせる。
これらの礼服は、妖魔族の王城を警護する近衛及び儀仗隊である、スノトラ隊に倣ったスタイルで、当然ではあるが普段の通常軍服はもっと動きやすく簡略化されたものになっている。
「お嬢様。着付けはもう最後でございますから、今しばらくご辛抱を」
「…はい」
着付けの最後、徽章を左胸の国章の真下に並べて付ける。
魔王軍は、生来の魔法耐性に加え、闇属性魔法で物理防御結界を張るため、鎧などの防具は着用しない場合が多い。また、その中でも徽章が与えられた者は一線を画す実力を示す存在である。
私が賜っている徽章は、光属性の上位魔法である治癒系魔法が使える者に与えられる【ヘイムダル徽章】と、調合士の中でも特に優秀な者へ与えられる【ミーミル徽章】、そして最後に、殲滅戦や制圧に特別に貢献した者へ与えられる【エインヘリヤル徽章】だ。なお、魔王軍に褒章はない。
『徽章を与えられた者は、命ある限りその任を全うせよ』
これこそが、魔王の存在が絶対であり、徹底的な実力主義社会である妖魔族の誇り。弱きを助け強きを挫く高潔な精神を持ち、賜った徽章に恥じないよう命を賭して使命を全うする。
私の所属するヘルモーズ隊は、魔王軍の中で最も規模が大きい前線部隊だ。平時は、街の巡回や他国からの要請に基づく魔獣狩りなど、多岐の任務を請け負う。任務によっては遠征もあるため、他の隊に比べると人間族や獣人族など他種族と接する機会も多い。
ヘルモーズ隊は、お義母様のお祖父様、つまり私の曽祖父であるグラディウス・ヴェストリ将軍閣下が率いる、戦闘経験豊富な猛者しか生き残れない生粋の戦闘集団であるが、中でもエインヘリヤル徽章持ちは「死してなお戦う者」として他種族にも恐れられている。
本来、エインヘリヤル徽章など一般兵が付けるものではない。しかし私は、お父様譲りの槍術で身の丈を優に超えるハルバードを得物とし、常時発動している自己修復の治癒魔法のおかげで、自分で言うのも何だが対集団戦に滅法強い。ただこの見目もあってなのか、未だ一兵卒に過ぎない身分なのである。
(それに…、四家に連なる生まれだというのに竜とも契約できていないし…)
リントヴルム竜騎士隊は、妖魔族なら誰もが憧れる花形部隊だ。
始祖の森に棲まう竜と契約した者のみで結成された特殊部隊で、有事の際に招集がかけられ、魔王様の指揮の下、最も危険で高度な軍事作戦を担う。竜と契約できるのは祖先に近い血を持つ実力者のみであるため、妖魔族にとっては誉であり最高峰の称号となる。
将軍級が所属していることも多いため、各隊には代行して指揮が取れる副官が数名配置されており、それが副将軍だ。
(私もいつか、リントヴルム徽章を付けられる日がくるのかしら…)
「さぁ、お嬢様。お次は御髪でございますよ」
「はい…」
もう肩が凝りそうだ…と嘆くとの同時に、お父様が不在で良かったと心の底から感謝する。お父様が私を着飾るとなれば、決まりきった礼服でもアレやコレやと3時間は捕まってしまうのだもの。それに比べれば、侍女の手早く正確で無駄のない着付けのなんと楽なことか。
私はそう自分に言い聞かせて、鏡台へ座った。
しおり