第1話 そこは「癒し処 爽風」
1
「あれ、こんなところに喫茶店があったっけ?」
安祐美《あゆみ》がすっとんきょうな声を上げた。二人で古い商店街を歩いているときだ。安祐美の指さす方を見ると、真新しい喫茶店ができていた。
入口は京町家のようなたたずまいだ。玄関は『つし二階』と呼ばれる京町家独特の低い二階建て構造だった。『つし二階』の二階部分には虫籠窓《むしこまど》を設けて、表の格子は糸屋格子になっている。間口いっぱいに設けられた通《とお》り庇《ひさし》が道の方に突き出していた。軒下には駒寄《こまよ》せがあり、道と敷地とを区切っている。入口には、あずき色の暖簾《のれん》がかかっていた。暖簾の上に「癒し処 爽風」と白抜きの文字が揺れていた。和風喫茶のようだ。
私は三千院花楓《かえで》。横にいるのは大原安祐美。私たちは女子大の二年生。二人とも大学の同じクラスだ。二人は大学の帰りだった。
私は首をひねった。「爽風」は何と読むのだろう?
「ねえ、安祐美。あれ、何て読むのかしら?」
「うーんと・・そうふう?・・さわやかな かぜ?・・じゃないなあ?」
安祐美が携帯を操作した。
「あ、わかった。『そよかぜ』だ」
「ふーん。素敵なお名前ね。『いやしどころ そよかぜ』なんて」
「花楓。ちょっと寄っていこうよ」
安祐美が私の手を引っ張った。安祐美のくっきりした顔立ちが人目を惹く。大きな瞳、ちょっぴり赤い頬、柔らかそうな唇。ショートボブの髪がボーイッシュな安祐美にとてもよく似合っていた。ピンクの花柄のブラウスがかわいらしい。チャコールグレーのパンツが長い足にピッタリだ。
いつも長い髪を白いシュシュで束ねて、地味なブラウスを着て、地味なロングスカートをはいている私とは対照的だった。背が高く活動的な安祐美に比べて、小柄な私はのんびりタイプ。何をするのもゆっくりで、いつも安祐美に叱られている。そんな好対照の二人は大学入学と同時に意気投合し、今ではいつも一緒に行動する仲だった。
私は新しいお店は苦手だ。だって、どんな人がやっていて、どんな人がお店の中にいるのか分からないんだもの。
「待ってよ。安祐美。お店に入るのは、お店の中を外からよく見てからにしようよ」
そう言う私を安祐美がいつものように叱った。
「花楓。何言ってんの。そんなことで、どうすんのよ。入っても大丈夫だよ。こんな素敵な店だもの、きっと、素敵な男性がいるよ」
2
安祐美が私の手を引いて、さっさとお店の暖簾をくぐっていく。仕方なく、私も安祐美と一緒に「癒し処 爽風」の暖簾をくぐった。
入ってみると、10m四方ぐらいのお部屋があった。木の床に木の壁。しかし、喫茶店なのにテーブルや椅子がなかった。がらんとしたお部屋だ。本当に何もなかった。「爽風」というお店の名前にはふさわしくないお部屋だった。
「なに、ここ?」
安祐美が首をかしげる。
「安祐美、これ、どうしたの? どうして、テーブルがないの?」
私があせって安祐美に聞く。安祐美が笑いながら答えた。
「花楓。あんたねえ。何でも私に聞かないでよ。ちっとは、あんたも考えなよ」
「だって、このお店は喫茶店なんでしょ。どうして、何もないの?」
安祐美が私に何か言いかけたときだ。
奥から人が出てきた。
中年の男性だ。目鼻立ちの整った顔だった。頭を整髪料できれいになでつけている。薄い茶色のシャツに茶色のベスト。焦げ茶色のパンツ。焦げ茶の靴。茶色で統一した服装だ。渋くて、ちょっとダンディーないい男だった。いかにも、喫茶店のマスターという雰囲気がしている。マスターが言った。
「あ、さっそく、来てくれたんだね。私がマスターの早乙女《さおとめ》帝《みかど》です。えーっと、君たち、名前は?」
えっ、何で喫茶店で名前を聞かれるの?
私たちがどぎまぎして何も答えないでいると、早乙女さんがさらに言った。
「かわいい子をお願いしたけど、それにしても君たちは特別かわいいね」
私たちはかわいいという言葉に弱い。「特別かわいい」と聞いて、私たちの口から条件反射のように声が出た。
「大原安祐美です」
「三千院花楓です」
早乙女さんが笑った。
「安祐美君に、花楓君だね。じゃ、よろしくお願いしますね」
そう言うと早乙女さんは奥に消えた。
私は首をかしげた。
「ねえ、安祐美。どうなってんの? 私たち、何をお願いされたの?」
安祐美も頭をかしげている。
「さあ」
そのとき、玄関から人がお店の中に入ってきた。若い男性だ。私たちより少し年上だろう。くたびれたシャツに、アイロンの当たっていないズボン。肩を落としている。私たちを見ると口を開いた。
「あのう、予約した者ですが・・」
「えっ・・・・」
何? これ? この人誰なの?
声を聞いて、早乙女さんが奥から出てきた。
「あ、ご予約の山田和夫様ですね」
「あ、はい、そうです」
「では、さっそく癒しをお届けしましょう。今日はどのような癒しをご所望ですか?」
「あの、ぼ、僕は先月に会社をリストラされまして、どうしたら、いいのか、途方にくれているんです。そ、それで、何か、元気がでるようなのをお願いしたいんですが・・・・」
「元気がでるような癒しですか?」
「はい、そうです。何というか、世の中の荒波にドーンとぶつかっていけるような、そんな癒しはないでしょうか?」
「世の中の荒波にぶつかっていく・・・・そうですか。わかりました」
早乙女さんが持っていたタブレットに何か入力した。
私たちは呆然と二人のやりとりを聞いていた。
何をやってるの? 癒しって何なの?
私の疑問は長く続かなかった。周囲の景色が急に薄くなった。隣の安祐美の姿が薄くなって・・・・消えた。
3
水しぶきが私の頭から降ってきた。
「キャー」
私は頭を手で覆った。
白黒の海が見えた。冷たい風がびゅうびゅうと吹き荒れていた。私の髪を留めていた白いシュシュが風に飛んで、海の向こうに消えていった。お気に入りのシュシュだったのに・・。
私の髪が顔にかかったと思ったら、次の瞬間、大きく宙になびいた。そして、また顔にかかった。私は髪を手でかき上げた。風向きが始終変わっているのだ。その顔に小雨が横殴りに打ちつけてきた。
荒々しい波が次から次へと足元に寄せてきた。そのたびに波しぶきが宙に飛んだ。波打ち際だった。ゴツゴツした岩場に私は立っていた。私のスカートが風を含んで、大きく広がった。また、私の髪が宙になびいた。横を見ると安祐美がいた。少し離れて、早乙女さんとさっきの山田さんが立っていた。
みんな、黙って海を見ていた。
私は前の海に眼を奪われた。いや、心も奪われた。何という荒々しい海なんだろう。黒い海に白い波頭が無数に立っていた。黒い海のはるか向こうに灰色の空があった。こちら岸は岩ばかりだった。どこを見ても小雨に濡れた灰色の岩ばかりだ。
色がなかった。黒と白だけの世界だった。
大きな黒い波がやってきて、岸の岩にぶつかった。どーんという大きな音がして、また波しぶきが舞った。
波しぶきと小雨で私の身体はびしょぬれだった。
思わず、私は安祐美の腕を取った。安祐美の腕もびっしょりと濡れていた。
「安祐美。ここは、どこ? いったい、どうなってるの?」
安祐美が首をかしげた。
「さあ」
すると、早乙女さんの声が聞こえた。
「冬の日本海ですよ」
早乙女さんが私たちを見ている。風が吹いて、彼の整えられていた髪がぼさぼさに逆立って揺れていた。小雨が顔に当たって、早乙女さんが顔をしかめた。
「日本海ですって」
安祐美の声が風の中に飛んだ。耳元でびゅーびゅーと風が鳴っている。私のスカートが一旦しぼんで、また大きく膨らんだ。膨らんだ方向に私の身体が飛んでいきそうになった。私はかろうじて、パンプスのつま先を岩に当てて身体を支えた。私は思わず安祐美の腕にしがみついていた。耳元で安祐美の声がした。
「日本海? どうして、私たちが、そんなところに・・・・」
「癒しですよ」
「癒し?」
「ええ、山田様が希望された癒しのためです。これが世の中の荒波です・・・・」
早乙女さんが眼の前の海を指さした。私は安祐美の腕にしがみつきながら、早乙女さんの横に立っている山田さんを見た。
山田さんは蒼白な顔で日本海を見つめていた。山田さんの顔にも波しぶきと小雨が打ちつけていた。山田さんの身体が小刻みに震えているのが私の眼に入った。また安祐美と早乙女さんの声が聞こえた。
「この海が世の中の・・荒波なの・・・・」
「そうです。山田様は、この海に立ち向かわねばならないのです」
この海に立ち向かう? 荒れ狂う海の前で山田さんは震えていた。私の眼には、この傍若無人な海の前では山田さんはあまりにも無力に見えた。
風の中に山田さんの声が聞こえた。弱々しい声だった。
「こ、この海に、ぼ、ぼくは、どうやって立ち向かえばいいんでしょうか?」
早乙女さんが答えた。
「さあ、それは・・山田様、ご自身がお決めになることです・・」
私には早乙女さんと山田さんの会話をそれ以上聞き取ることができなかった。大きな波が私にかぶさってきて、私は一瞬にして波にのまれてしまった。
顔を上げると、私は岸から10mほど離れた海の中にいた。岸辺で安祐美と早乙女さんがあわてているのが見えた。その横で山田さんが突っ立ったまま、茫然と海の中の私を見ている。
私は岸に向かって泳ごうとした。こんな華奢な身体をしていても、私は水泳が得意だった。しかし、私は荒れ狂う海の中では無力だった。泳ごうとして手足を伸ばそうとしたが、波の力で海の中に深く引っ張り込まれてしまった。
海の中で私は何度も回転した。海水をたらふく飲んだ。息が苦しかった。ようやく、海面に顔が出た。肺の中に空気を吸い込むことと、肺の中の海水を吐き出すことを同時に行った。私は荒れる海面ではげしく咳き込んだ。咳がやむと、ようやく一息空気を吸い込むことができた。ヒューという声が私の口から洩れた。そして、私は波に揺れる頭で周りを見まわした。
私は岸から20mほど離れたところに浮いていた。さっきより、岸から離れているのだ。
私の頭は恐怖で真っ白になった。私の身体から血の気が引いていった。身体が鉛のように重くなった。
もう、いや。こんなの、いやよ。私は、私は、ここで死んじゃうの?
意識が遠くなった。山田さんが海に飛び込むのが見えた。
・・・・・・・・・・
私の身体を誰かが支えてくれていた。私は波の中で誰かに抱かれていた。頭が空を見ていた。灰色の空が見えた。私は口を開けて空気を激しく吸った。その口の中に小雨が降りこんできた。舌に雨粒が当たった。私のすぐ横で声がした。
「しっかりして。そうすぐ岸だよ」
山田さんだった。山田さんが私を抱いて泳いでくれていた。私は答える元気もなく、かすかにうなずいた。
波が来て、山田さんの顔が海の中に没した。次の瞬間、また彼の顔が波の中に現れた。山田さんはブルブルと頭を振って、顔の海水を払った。顔に赤みがさしていた。キッを前を鋭く見た眼が光っている。私は美しいと思った。そこには、さっきのように波打ち際で震えている山田さんの姿はなかった。
やがて、私の背中が海中の岩にこすれた。岩場だった。助かったと思った。波の中を走る音がして、安祐美と早乙女さんの手が私を抱え上げてくれた。
私は岸に上がった。大きな岩に四つん這いに倒れて、激しく水を吐いた。しばらく水を吐くと、お腹の方から何か苦いものが上がってきた。私は苦いものも吐き出した。私は喘《あえ》いだ。
ようやく息をついて、私は立ち上がった。私の顔が涙でぐしゃぐしゃだった。安祐美がハンカチを差し出してくれた。ハンカチはびっしょりと濡れていた。私は「ありがとう」と言って、濡れたハンカチで顔をふいた。顔からハンカチをとると、山田さんが立っているのが見えた。私は山田さんに頭を下げた。
「山田さん。ありがとうございました。おかげで、命拾いしました」
山田さんが私の手を握った。
「よかったです。助かって、ホントに良かったです」
山田さんは泣いていた。
後ろから早乙女さんの優しい声がした。
「では、戻りましょう」
早乙女さんがまたタブレットを操作した。私の周囲が薄くなった。
4
気がつくと、私たち四人は「癒し処 爽風」の中に立っていた。あの何もない殺風景なお部屋だった。四人ともびしょぬれだった。私たちの服から落ちた水滴が、木の床にたちまち水たまりを作った。
早乙女さんが言った。
「タオルと着替えを持って来ましょう・・・・と、言っても、山田様は私の着替えでいいとして・・・・安祐美君と花楓君はどうしようかな・・・・女の子の着替えがあったかな?」
そう言って一旦奥へ戻ると、早乙女さんがタオルと服を持ってきた。
「あの・・女の子の服がないんで・・ハロウィン用の衣装なんですが・・取りあえず、これでも着ていてください」
そう言って早乙女さんが私と安祐美に渡したのは・・・・なんと、ネコとタヌキの着ぐるみの衣装だった。タヌキの着ぐるみには股間に大きな丸いものが二つぶら下がっていた。腰にはとっくりと大福帳をぶら下げている。
安祐美がすばやくネコの着ぐるみを手にとった。
「あ、安祐美。ずるい。ずるいわよ。私、タヌキなんてイヤよ」
「ダメ。もう、ネコは私がもらったわよ。花楓はかわいいから、タヌキでも充分似合うよ」
「いやよ。私もネコがいい」
「ダメよ。着ぐるみはこれしかないのよ。花楓、わがまま言わないで、がまんしなさい」
そう言って、安祐美は奥に引っ込んでさっさとネコに着替え始めた。
私の身体はすっかり冷えていた。
しかたがない。安祐美、後で着ぐるみを交換よ。
私は胸の中でそうつぶやきながら、安祐美と一緒にタヌキに着替えた。
私たちは着替えると、お部屋の中に戻った。早乙女さんも山田さんも着替え終わっていた。山田さんがすっかり元気そうだ。
早乙女さんが言った。
「いかがでしたか、山田様。当店の癒しは?」
山田さんが言った。自信に満ちた声だった。
「すばらしい癒しをいただきました。見ているだけではだめでした。飛び込むことの大切さがよくわかりました。おかげですっかり癒されました」
そう言うと、山田さんは何度もお礼を言いながら、お店を出て行った。
私たちは何となく黙っていた。人助けをしたという充実感がお店の中に漂っていた。すると、早乙女さんの携帯が鳴った。
「はい、癒し処 爽風です・・あ、私が早乙女です・・え・・え・・」
早乙女さんが私たちを見た。眼が白黒している。
「あ・・はい・・そうですか・・はい、わかりました」
電話を終えて、早乙女さんが茫然として私たちを見ている。やっと口を開いた。
「この店は今日から開店なんだけど・・今、バイトの子から電話があって、急にバイトができなくなったって言うんだ・・・・で、君たちは一体誰なの?」
安祐美がいきさつを話す。早乙女さんがびっくりして話を聞いていたが、やがてこう言った。
「じゃあ、安祐美君に花楓君。このまま、ここでバイトをやってよ。うちもバイトの子がいないと困るんだよ」
勝手に決めないでください。
私はそう言おうとした。そのとき、入り口から、誰か入ってきた。
「あの、こちらに癒しを予約したものなんですが」
上品そうなおばあさんだった。
おばあさんは、私と安祐美が着ぐるみを着ているので驚いたようすだった。おばあさんが、私たちを見て言った。
「まあ、かわいいネコさんとタヌキさんねえ。ホントに二人ともかわいいわ」
私たちはかわいいという言葉に弱い。私と安祐美の口から同時に声が出た。
「いらっしゃいませ。どのような癒しをご希望ですか?」
つづく