5.契約
どのくらい走ったのか定かではないが馬車が止まり、どこかの屋敷の玄関についたことを気配で感じた。
一刻も早くマレに解毒薬が欲しい。気持ちは焦っていたが、アシュラフが階段を上がったため、あとをついていくと、二階の部屋のドアを開け、アリーナとマレを中に招き入れた。
アシュラフはアリーナが入ったことを確認し、ドアを閉じると、
「さて、ようこそ我が家へ」
「早く、解毒薬をください!」
「それは必要ないですよ」
アシュラフはくくっと笑い
「ただ、眠っているだけなのだから」
「えっ?」
「あなたをこの屋敷に来させるための嘘ですよ。時間がくれば目を覚まします」
「どうして…?」
「最初に言ったでしょう?我が家専属にするために手段は選ばないと」
アシュラフは目を細め愉しそうに笑っている。
「騙したということですか?」
「騙されるほうがいけないのです」
「ひどい…!」
「そうだ、この部屋からは逃げ出すことはできませんよ?ドアの前、窓側にも見張りがいますからね」
「そんな…!」
「あきらめてください」
アリーナは全身から力が抜けていくのを感じた。
アシュラフは部屋を出て、先ほどまで行動を共にしていた侍従のサーディクを呼び、近くの部屋に入った。
「サーディク、アリーナをルアール国王城で見たことがある。今どうなっているか、現状を調べてくれ。ただ、エリアスには何も伝えるな」
「御意」
サーディクは音もなく部屋を出て行った。
「見間違えでなければ、エリアスの思い人であろう。だけどすぐに教えるのもいやだな……どのようにするか、少し考えるか」
アシュラフはいたずらな笑みを浮かべてつぶやいた。
アリーナはマレを窓際の近くにあるベッドに静かに横たえると、早く目が覚めるように願いながら体を撫でていた。
「マレ…」
いままでの思い出が頭をよぎる。
初めて、城下町に行った時、市場で食べ物の名前を教えてくれたこと。
カバンを買ってくれたこと。
厳しかった占いの講義。
何があってもいつでもそばにいてくれたマレと6年間を過ごし、たくさんの初めてを経験させてくれた。
「マレ…」
涙がとめどなく流れてくるが、泣き疲れたのか、そのまま眠ってしまった。
「いつまでも泣いてんじゃねぇよ」
ふいにマレの声が聞こえ、頭にこつん、という音が響いた。
はっとして、顔を上げるといつの間にか夜になっていたらしく、暗い部屋の中にマレのシルエットが浮かび、ベッドの上に座っているのが見えた。
「マレ!目が覚めたの?気分はどう?」
「矢継ぎ早に聞くな」
いつものマレの声にまた涙があふれてくる。
「よかった……」
「心配をかけたな……それと、迷惑をかけてしまったようで……ごめんなさい」
伏し目がちに頭を下げるマレ。
「いいの、もう。目が覚めてくれたらそれで十分だわ」
しゃくりあげながらトゥイーリはマレと話す。
「えーと、状況を確認したいのだが?」
トゥイーリは頷き、マレが突然倒れた後のことを手短に話す。
「そうか……」
考え込むマレ。
その時、ドアをノックする音が聞こえた。
「失礼します、アリーナさま」
中年の女性がドアを開け、部屋の灯りをつけながら部屋に入ってきた。
アリーナの近くにくると、
「アシュラフさまより、アリーナさまと猫の面倒をみるよう言付けされました」
髪はやや明るめの茶色で穏やかな優しい雰囲気の女性がアリーナの近くにきた。
「わたくしは、ルゥルアと申します。これから身の回りのことなどお世話をさせて頂きます」
ルゥルアは深くお辞儀をした。
「お世話?」
アリーナは意味がわからず、きょとんとしてしまった。
「お世話というのは、湯あみの準備ですとか、お食事のご用意、お着替えの準備、お手伝いなどでございます」
ルゥルアはかみ砕くように説明した。
「あっ、わかりました……」
「それでは、さっそくですが、湯あみのご準備を始めさせて頂きます」
ルゥルアはてきぱきと、浴室に向かい、準備を始めた。
アリーナはふと、部屋に自分達の荷物が置かれていることに気づいた。
慌てて中を確認すると、何一つなくなっているものはなかった。
再びドアをノックする音が聞こえ、いつものようにドアに向かい開けようとしたが、ドアが勝手に開いた。
「おや、目覚めたようですね」
アシュラフはマレを見てつぶやいた。
マレはその声で耳を横にしている。
「落ち着いてもらうために、お茶を用意した」
その声でアシュラフの後ろからお茶をのせたワゴンを運びこんでくる使用人の姿が見えた。
「ああ、大丈夫ですよ。こちらには睡眠薬はいれておりませんから」
アリーナの顔色が変わったのを見たアシュラフが話す。
「細かな条件などは明日にして、今日はゆっくりとしてもらいましょう」
「条件?」
「そうです。我が家専属になってもらいますので、お互いに納得できる条件で契約しましょう」
アリーナは回避する手段について何も思いつかなかった。
その日の夜、ルゥルアはアシュラフに呼ばれ1階の部屋にいた。
「ルゥルア、アリーナの身体検査の結果を」
「はい。アリーナさまは庶民ではないですね。ある程度大事に育てられてきているようです」
「その根拠は?」
「はい。髪も肌も手入れがよくされているようで、髪は痛みが少なく、白くきめの細かい肌でした。それに侍女がお世話をすることが普通のような感じも見受けられ、中流以上の家庭で育ったと思われます」
アシュラフはやはり、と呟き、
「なるほど。わかった。引き続きどのような理由でこちらの国にきたか探ってほしい」
「お役に立てるように努力します」
ルゥルアは頭を下げ、部屋を出て行った。
翌日、朝食が終わった後にアシュラフが部屋を訪ねてきた。
「おはようございます。よく眠れましたか?」
アシュラフは昨日とは違い、紳士な態度で問いかけてくる。
「はい、大丈夫です」
けれどアリーナの声はどうしても身構えかたい声になってしまう。
「昨日の件については、先に謝罪をしておきます。ただ、それだけあなたが欲しかったと思ってください」
何も言わずにアリーナは目の前にいる男性を見ている。
アシュラフはそのまま、部屋の中央に置いてある、ソファに腰掛けて、アリーナにも座るように促す。
アリーナが目の前に座ったのを確認し、
「では、契約についてなのですが、今まで通りあの店で占いをしていただいて結構です」
「えっ?」
「宿に泊まるのもお金がかかるでしょう。こちらの家をアリーナの家として使ってください」
「どういうことですか?」
「そのままの意味です。今日、いや、昨日からここがアリーナの家です。ここから町中のあの店までは馬車でお送りしましょう」
「あの、そこまで必要ありません。近ければ歩いて行きますから」
「残念ながら、ここはルクンの中心より少し離れているところなのです」
「そうですか……」
「話をもどして、占いについては、1週間に1度、わたしの相談にのっていただきたいのです」
アリーナはわずかに首をかしげる。
「そうですね、相談というよりは商売についてどうすればいいのか、指針を決める時の判断材料にしたいというところです」
「わかりました」
「契約条件を再度伝えると、今までどおり、町中で占いをする、1週間に1度わたしの仕事について手伝ってもらう、ということです」
アリーナは頷いた。
「理解して頂けたようで安心しました。それではこちらの書類にサインをお願い致します」
アシュラフは2枚の羊皮紙をアリーナの前に置く。2枚ともアシュラフの署名が入っている。
「書いてあることは2枚とも同じです。よく確認して同意できたら2枚とも署名をしてください。そして、わたしとアリーナで1枚ずつ保管します」
アシュラフは説明し、羽ペンを渡してきた。
アリーナはザラール国の言葉で書かれた書類を読み返し、アシュラフの条件に間違いがないことを確認して2枚とも署名をした。
アシュラフは2枚とも受け取り、アリーナの署名を確認した時に違和感を覚えたが、そのままにして紙を丸め、持っていた紐で結ぶと1枚をアリーナに渡した。
「それと、これを」
と机の上に金属音を響かせて袋を置いた。
「契約金です」
「えっ?」
「当然です。契約したのですから」
戸惑うアリーナを見て、
「この国は初めてですか?」
アシュラフが問いかける。
「はい、初めてです」
とアリーナは返答した。
「そうか。それなら、ルゥルアや護衛と一緒にあちこち観光するといい。この国もいろいろみどころがあるから」
昨日の高飛車な態度ではなく穏やかに話すアシュラフの意図がつかめず、ただ戸惑うばかりだった。
「今日はお休みでしたね?ゆっくりと体を休めてください。ああ、それと、昨日の相談者の件ですが、こちらから事情を話して別の日にきてもらうようにしてあります」
「あ、ありがとうございます」
「では」
アシュラフを見送り、アリーナはまたソファにドスンと座る。
「はぁ、疲れた」
「トゥイーリ大丈夫か?」
「ああ、マレ。うん、大丈夫。慣れない作業で少し疲れたわ」
「そうか。疲れたなら少し眠るか?」
「う~ん。そうね、そうする」
と部屋着から寝間着に着替えようと何も考えずにクローゼットに向かい、ドアを開けて固まった。
「どういうこと?」
「どうした?着替えはそこにないだろ?」
「そうなんだけど、いつの間にか持ってきた洋服が収納されているんだけど、見覚えのない洋服と一緒に収納されているの」
その一言でマレもクローゼットに向かう。
「本当だ」
旅行なので、5着ほどしか持ってきていないのだが、その倍以上の洋服があり、持ってきたワンピースと寝間着以外にドレスや部屋着が種類別に整理され一緒になって並んでいる。
マレの洋服は片隅にまとめてかかっている。
よくよく見てみると、カバンの中に入れていたワンピースはすべて洗濯されていた。
「なぜこんなことをするのだろう?」
意図が分からず、首をひねるばかりだが、着慣れている寝間着を手に取り、そのままクローゼットの中で着替える。
「よくわからないけど、ひと眠りするわ」
とマレに告げ、そのまま毛布にくるまり眠りについた。