雨降って…… ②
「――わたし、ちょっとお手洗いに行ってくるわ。貴方も、ちょっとロビーに出て外の空気に当たってきたら?」
そんな空気に耐えかねて、わたしは一度席を外すことにした。
よく見れば、お酒に弱い彼も気分が悪そうだった。本人曰く、その場に漂うお酒の匂いだけでもう酔ってしまうらしいのだ。
「……お言葉に甘えてそうします」
わたしは彼と一緒にバンケットルームを出て、彼がロビーのソファーに腰を下ろしたのを見届けてから女性用化粧室へ向かった。
ほんの少しの間だけれど彼と離れ、自分の言動を
その半年ほど前に来社された悠さんのお話によれば、「弟は昔から、過度な期待や重圧に弱い」とのこと。わたしがことあるごとに〝結婚〟や〝篠沢家の一員になること〟を仄めかしていたので、彼はもうウンザリしていたのではないだろうか?
結婚そのものはともかく、伝統ある名家に婿入りすることが、「住む世界の違う」彼にとっての重大なプレッシャーになっていたことは間違いない。
わたしは彼の優しさに甘えて、自分の願望を彼に押し付けてしまっていたのかもしれない。そんなわたしは何て欲張りだったのだろう。
「そりゃ、イヤにもなるよね……」
大きなため息とともにそんな言葉を吐き出し、わたしは化粧室を出た。
パーティー会場へ戻る途中、彼が座り込んでいたロビーを通りかかると、信じられない光景がわたしの目に飛び込んできた。
「…………えっ!?」
彼の座っていたソファーの側には真っ赤なスーツを着た一人の若い男性が立っていて、その男性を見つめている彼は、それまでわたしが見たことのないくらい険しい表情をしていた。そして、相手に掴みかからんばかりに固く両手の拳を握りしめていた。
その男性には、わたしも見覚えがあった。そして、名刺まで押し付けられていた。名前は
彼があんなに怒ったのは、有崎さんに挑発されたか何か気に障ることを言われたからだ。――わたしはそう直感で分かった。でなければ、温厚な彼がここまで眉間にシワを寄せることはなかったはず。
「――あの、わたしの秘書に何のご用でしょうか?」
わたしは二人の元へツカツカと歩み寄り、ありったけの威厳を込めて有崎さんに詰め寄った。
「……キミの秘書? この男が?」
彼は明らかに、貢のことを小馬鹿にするような口調でそう吐き捨てた。
その見下すような態度に、わたしはムッとした。
「会長、クールに」と目で訴えてくる彼にそっと頷き、わたしは必死に怒りを抑え、大人の対応を試みた。ここで声を荒らげれば、わたしも有崎さんと同レベルに成り下がってしまうと分かっていたから。
「……ええ。彼はわたしの秘書で、今日の同伴者ですが。それが何か?」
「ふぅん、コイツがねぇ……」
それでもなお、この男は彼に対して
「あの、彼が貴方に対して何か失礼でも? でしたら、わたしが彼に代わってお詫びしますが」
口ぶりはあくまでもわたしの方が
「いや別に。……あ、ちょうどいいや。キミもセレブなら、男は選んだ方がいいぜ。こんな地味で冴えない男より、オレの方がキミにはふさわしいと思うけど。だって二人、全然釣り合ってねぇもん。――じゃあな」
「余計なお世話です。失礼します」
最後まで鼻につく言い方で、ここ一番の捨て台詞を吐いて会場へ戻っていくイヤミな彼に、わたしも負けじと捨て台詞で返した。
「――桐島さん、気分はどう? 顔色は……だいぶよさそうだけど」
「…………ええ、まあ。何とか大丈夫です。ご心配をおかけしてすみません」
「そう……」
あの出来事で、彼は別の意味で気分を害したはずなのだけれど。わたし相手に、そんなにやせ我慢しなくてもいいのに、彼は精一杯虚勢を張っていた。
「じゃあ、戻りましょうか」
わたしたちも会場に戻り、パーティーの続きを楽しもうとしたけれど。彼が心から楽しんでいないことは、火を見るよりも明らかだった。
有崎さんは一体、彼に何を吹き込んだのだろう? どうして彼は、あの男に一言も反論しなかったのだろう?
わたしが彼の内に潜む苦悩や、ずっとわたしに打ち明けられなかった本心を知ったのは、この日の帰りのことだった。
****
「――貢、さっきは災難だったねー」
帰りの車の中で、わたしはあの事件について努めて明るくコメントした。
「…………」
運転席の彼は、いつもなら何かと助手席のわたしに話しかけてくれるのに、この時は不気味なくらい口数が少なかった。
わたしはこの雰囲気がどうにも息苦しくて、落ち着かなくて。彼に何か言ってほしくて、ひたすらに言葉を重ねた。
「あんな人の言ったことなんて、気にすることないわ。貴方のこと、何も知らないんだもの」
「…………はい」
「あの人、すっごく感じ悪かったよね。自分がお坊っちゃま育ちなのを鼻にかけてるのよ。今日乗ってきた車、見たでしょ? 真っ赤なランボルギーニよ。あれ絶対、親のスネかじって買ってもらったのよ」
「…………」
それでもまだ、彼はほとんど無言を貫いていた。まるで、わたしとの会話を拒否しているかのように……。
「わたし、あんな人がお婿さんになるのはイヤだな。だいたい、『釣り合う』『釣り合わない』って何なのよ。そんなこと、周りの人が決めることじゃないでしょ!? 本人同士が決めることじゃない! わたしは誰に何を言われたって、貴方以外の人とは結婚しないんだから!」
「……ムリだと思います」
「…………え? なにが?」
「いえ、何でも」
彼はやっと口を開いてくれたけれど、彼の言った「ムリ」の意味が、わたしには分からなかった。その意味を訊ねても、彼はお茶を濁しただけでその後はわたしの家の前に着くまで、また口を
「――まだ降ってる……」
わたしはフロントガラスの向こうに目を移し、独りごちた。行きから降り続いていた雨は勢いを増していて、ワイパーがひっきりなしに雨水を拭っていた。
その光景は、わたしをますます
****
――わたしの家の前に着くと、彼はいつもどおりに助手席のドアを開けて、わたしを降ろしてくれた。雨の中だったので、傘を差していない彼の服はずぶ濡れになっていたけれど、彼は他のことで頭がいっぱいだったのだろう。それに構っていなかった。
「今日はお休み日なのに、雨の中ご苦労さま。風邪引かないようにね。じゃあまた――」
「待って下さい、絢乃さん」
「……ん?」
「車内での、絢乃さんのお話なんですが。――絢乃さんのお婿さんのお話ですけど、僕ではムリだと思います」
「え……? 待って、どういうこと? どうして急に、そんなこと」
彼からはっきりとそう言い切られたわたしは、ちょっとしたパニックに陥った。
「急な話じゃありません。僕には、あなたを幸せにする自信がないんです。あなたと僕とでは、元々住む世界が違うから。恋愛関係を続けるのには、何の問題もありませんけど、結婚となると話は別です。あなたには、僕よりもっとふさわしいお相手がいるはずなんです。ですから、あの――」
「ふざけないで! そんなの、貴方の考えすぎでしょう? わたしはそんなこと気にしない。住む世界が違うとか、育った環境が違いすぎるからとか、そんなのただの屁理屈よ」
確かに、これは数ヶ月前からの彼の口癖だった。でも、聞き流して構わないくらいのレベルの口癖だと思って、大して気にも留めていなかった。
それを、また急に蒸し返した原因は、やっぱりあの有崎という人だったのではないか――。
「貴方、あの人に何か言われたの? だからそんなこと言い出したんでしょう?」
「……それもあります。ですが、これは僕の本心でもありました。絢乃さんと出会い、恋に落ちたことは、僕にとってはシンデレラが王子と恋に落ちたのと同じくらいの出来事だったんです」
「え…………」
「ですから、ずっと気になっていたんです。いつかあなたが、僕というつまらない男から、もっと魅力的な男性に心変わりするんじゃないかと。それはそれで仕方ないことだと思ってたので、その時にはスッパリ身を引こうって決めてたんです」