向日葵が赤い
「お姉ちゃんよわ〜!」
弟がケタケタ笑いながら言った。
ゲーム用の小さな画面には左側に赤い文字でwin、右側に青い文字でloseと書いてあった。
「途中ずるしてたからお姉ちゃんは負けてないよ」
と、後ろから幼い女の子の声が聞こえた。
妹はニコニコしながらベッドから足を投げ出し私達を見ていた。
とても天気の良い日だった。二階の窓からは雲一つない青空が広がり、心地の好い風が吹き込んでいる。吹き込んだ風は、図鑑やビーズアート、まだ手が付けられていないであろうテキストブックたちが乱雑に置かれている机の上の向日葵を揺らした。上向きの元気の良い向日葵の葉が仲良く踊っているようだった。
隣りを見ると、妹と弟はまだ先程のゲームの話を楽しげに話していた。
「ずるしたからもうゲームは終わりかな。」
少しからかうような調子で弟に言った。
「ええ、まだしたいよ。ずるしないから。」
「ねえ、お姉ちゃんとミサンガ作るんだからもう終わりだよ。」
「そうだね、ミサンガ作るんだった。」
弟は不服そうにゲームを片付け始めた。あからさまに落ち込んだ様子でいそいそとコントローラーのコードを結び始めるので、その素直さがいじらしく、なんだか可笑しかった。
「ねえ、お姉ちゃん。おばあちゃんに新しく買ってもらった赤とピンクの糸使おう。」
「お、いいね。素敵なミサンガ作ろうか。ねえ、三人で作ろうよ。」
ゲーム機をテレビ台に仕舞っている弟に声をかけた。
口を尖らせ不服そうな弟の顔がこちらを向き、私と妹を交互に見た。
「いいけど。」
不服そうな顔のままではあるが了承する弟と、返事を聞き、ぱあっと明るくなる妹の表情を見て心があたたかくなった。
張り切った様子の妹が別の部屋からローテーブルを持ち出してきて、三人で仲良くミサンガを作っていた。
ドド ズズ ドド ズド
ドドド ドドドド
突然外から、巨大ななにかが引きずられるような音がきこえた。筍が地面から体を出すように、なにかが地中から盛り上がるような音にもきこえた。先刻まで風鈴と蝉の声だけののどかな空間に、異質な音がしばらく鳴り響いていた。私達は黙っていた。黙っていると、その音は時間と共に徐々に小さくなっていき、やがて止んだ。
ずしん ずしん ずしん
ずしん ずしん ずしん
ずしん ずしん ずしん
地響きが鳴り止むと足音のような音が聞こえてきた。あきらかに人ではない、重機が進む音でもない、意思を持った大きな生き物がどこかに向かっているような音だった。私達はまた黙っていた。しかし、その足音のような音はしばらくしても止むことはなかった。
不思議に思いながら弟と妹を見るとやはり困惑しているようだった。しかしお互い顔を見合わせるだけで、誰も声は発さなかった。
大きな音に混じり、階段を登る音がきこえた。その人間の足音は私たちのいる部屋前で止まり、戸が開いた。
先に口を開いたのは弟だった。
「おばあちゃん、音が、音がきこえるよ。大きな音がきこえる。でも、三人で静かにして座っていたの。」
祖母は私達三人を見て、神妙な声で諭すように言った。
「そのまま動いてはいけないよ。三人でお利口さんにして座っていなさい。目を瞑りながら、座っていなさい。一言も声を出してもいけない。おばあちゃんがまたここに来るまで、目を瞑りながら話さず、座っていなさい。」
そう言って、祖母は部屋から出ていった。妹と弟を見るともう既に目を瞑っていた。現実味を帯びた恐怖が目の前に迫っていることを知った。私も、倣って目を瞑った。汗が顬から頬を伝い、顎まで下ったあと、ぽた、と腿に落ちた。
沈黙と異音が恐怖を増長する。異音は私達の居る部屋を包んだように一定の間隔で部屋の中に鳴り響いている。そして、その音は徐々に大きさを増し、音の正体が近づいているようだった。
ずしん ずしん ずしん
また近づいた。
ずしん ずしん ずしん
ずしん ずしん ずしん
ずしん ずしん ずしん
最初に聞いた時からは比べものにならないほど音量は増していた。
ずしん ずしん ずしん
ずしん ずしん ずしん
ずしん ずしん ずしん
すぐ傍まで来ていた。
音が止んだ。
私達の家の前で。
階段を登る音が聞こえた。音は一つだけだった。
重厚な足音が階段を軋ませ、近づいてきている。気が付けば足音は私達の居る部屋の前で止まり、戸が開く音がした。
部屋の湿度が一気に上がった気がした。もうとうに夏の音は死んでいた。この部屋だけ世界から隔離されたような、私が知らない場所にある四角い箱に、私達三人となにかが閉じ込められたような感覚だった。たしかに、そこには生き物の気配がした。ハア、ハア、と低い声の息遣いが聞こえる。なにかがゆっくりと近づいてくる気配がした。また、湿度が上がった。足音はしない。いや、鳴っているのかすら、激しく響く自分の鼓動で確かではなかった。速さを増す鼓動の音に恐怖を感じていると、急に体が浮いた。もはや恐怖でなにかの存在すら忘れていた私は、腕を掴まれ持ち上げられたことで現実へと引き戻された。腕には湿っぽい感触があった。潰され跡形も無くなった豆腐を、無理やり繋ぎ合わせたような感触だった。ハア、ハアと呼吸がきこえる。生臭い。なにかの汗が私の額に落ちた。ザラザラとした感触。酷い臭いがした。なにかの舌が私の顔をなぞった。あまりの恐怖に私は泣いてしまっていた。先刻まで弟と妹と遊んでいたはずなのに。突如不可解な空間に放り込まれた私は、抑えきれないほど巨大な恐怖と無統制に体内を飛びまわる感情に耐えきれなくなってしまっていた。すると、私の涙に気が付いたなにかは川を流れる濁流のような怒号を発し、私を床に叩き付け、叫びながらまた私の腕をがしっと掴み持ち上げた。急に金属と金属が擦れた高い音が私の傍で鳴った。あまりの恐怖に目を開けてしまい、その音に目を向けると、チェーンソウが私の前で勢い良く回転し、無数の火花を散らしていた。もうなにがなんだか分からなくなっていた。ただ、部屋に反響するチェーンソウの音で真に身の危険を感じた私はチェーンソウへと手を伸ばし、それを奪い取った。そこからは無我夢中で振り続けた。なにかが痛みからか叫び声を上げた。刃が肉にくい込んでいく生々しい感触と、自分より大きな生き物を殺している実感とを反芻し、それにまた恐怖し、恐怖と怒りと困惑とを振り払うために必死に刃を振り続けた。
やがて、先程の囂しい音音は消え、しじまが部屋を包んだ。
恐ろしくて途中から目を瞑っていた私は再び目を開いた。なにかはいなかった。
そこには、綺麗な斑模様の畳の上に、肉片とずたずたになったピンクと水色の衣服が落ちていた。
先刻まで私と座っていた人はもう動かなかった。
その動かなくなった肉塊は赤と一緒に部屋に飛び散っていた。
あれ、この家は誰の家だろうか。
あれ、この人たちは誰だろうか。
自分の名前は、思い出せなかった。