黒幕
その日の夜、御湯殿で湯に浸かる人の姿があった。その人物が鼻歌交じりで風呂を堪能していると、その背後に黒い影が立ち、背中に手を伸ばそうとした。
「女風呂に堂々と入ってくるとは、随分と大胆不敵な奴だな~?」
「⁉」
影は驚いた。そこにいるのは葵ではなく、男だったからである。
「覚悟!」
湯殿に小霧と女装した黄葉原兄弟が木刀を手に飛び込んできた。影に向かって斬りかかるが、三人の攻撃はいとも簡単にかわされてしまった。影は湯殿から姿を消した。
「逃がしちまった!」
「後ろ姿は辛うじて目に追えました! 南の方に向かった模様!」
南武が端末を手に叫ぶ。獅源がゆっくりと湯殿に入ってきて呟く。
「う~ん、女装したアタシらで見事捕えるって手筈だったんだけどね~」
「獅源ちゃん、捕える気あったの?」
「アタシは荒っぽいことは苦手でね、皆さんの化粧でお役御免さ……」
「別に囮役は俺様じゃなくても良かったんじゃねえか……?」
弾七は風呂に浸かりながら呆れる。
「来ました! 大毛利君!」
湯殿を出て、廊下を南に走る影の姿を確認し、光太が叫び、それを合図に景元が矢を放つ。もっとも、矢じりの先端は丸くしてあり、しかも影の足元を狙って放った。あくまで足止めを目的としたものである。矢の勢いは鋭かったものの、影にはあっさりとかわされてしまった。
「外したか!」
「いや、あれで良いのです……」
光太は眼鏡を直しながら呟いた。
「……!」
矢を避けた影は自らが偶然ではあるが葵の寝室に飛び込んだことに気付き、荒れた呼吸を即座に落ち着かせた。部屋は暗かったが、ベッドの上に毛布にくるまっている人の姿を確認し、静かに近づいた。しかし、影が毛布をめくるよりも早く、寝ているものが自ら毛布を蹴り飛ばした。
「女性の 寝込み襲うは 不埒なり」
「‼」
その瞬間、部屋の明かりが点いた。驚いた影は自らの顔を隠しながら振り返る。
「『今夜は御庭番も御小姓も皆不在、御殿には世話役の女性しかいない』という情報にまんまと引っかかってくれましたね」
部屋の明かりを点けた爽がにっこりと微笑む。
「! 貴方は……?」
「!」
影はすぐさま秀吾郎の作った隠し扉を利用し、屋根裏に逃れた。
「油断して 賊捕り逃がし 口惜しき」
「いえ、ここまでは狙い通りです。しかし、お顔を半分隠しておられましたが、まさか本当にあの方が……」
影は天守の屋根の上へと移動していた。雲がかかっている月を眺めながら少しだけ考えて、今夜は退却しようと判断したその時、
「逃がさんぞ、賊徒め!」
「!」
影の前に大和が竹刀を構えて立っていた。
「何者かは知らんが、もはや逃げ場はないぞ! 大人しくお縄につけ!」
「……」
「沈黙は拒否と受け取った! 少々手荒だが、武力を行使させてもらう!」
大和が一瞬で距離を詰め、影に斬りかかる。影はバック転をしてその攻撃をかわす。
「! やるな!」
「っ!」
戦闘では分が悪いと判断した影は大和に対して背を向けて逃げようとする。
「‼」
「こちらも通行止めだ……」
そこには秀吾郎が立っていた。影がややたじろぐ。
「正直気が進まんが、少し大人しくしてもらおう!」
「!」
「うおっ⁉」
秀吾郎が影を捕まえようとしたが、影はその場につむじ風のようなものを起こした。
「この術は……しまった!」
秀吾郎の隙を突いて、影が下の階へと飛び降りようとした。しかし、そこに……
「下には逃がさねえよ!」
「⁉」
進之助が下の階から上がってきたのである。これには影も面食らった様子であった。
「はははっ! さしずめ“前門の虎後門の狼、横の猿”と言ったところかな!」
「オイラは猿かよ!」
大和の言葉に進之助が文句を言う。そのわずかな隙を突いて、影が飛んた。
「赤宿!」
「逃がすかってんだ! ……って、うおっ!」
影は進之助の顔を踏んで、その反動で天守の一番上へと一気に上っていった。
「ふむ! 賊ながら、実に天晴な跳躍!」
「ちっくしょう! 油断した! 追うか、シューベルト⁉」
「秀吾郎だ……追わなくても良い……」
秀吾郎は上を見つめながら呟いた。
「っ! はあはあ……」
天守の一番上に着地した影は息を整えた。
「探しているのは私?」
「⁉」
影が驚いて振り向いた。そこには葵が立っていた。
「上手く逃げたつもりだろうけど、全部こちらの計算の内だよ……そろそろ降参してくれるかな?」
薙刀を構えながら、葵は呟く。
「……」
影は無言で構えを取る。
「抵抗するってことだね。いいよ、決着をつけよう」
両者の間に一瞬の静寂が流れる。
「っ! 脛!」
「!」
先に動いたのは葵だった。しかし、脛を狙う振りをして、影の足元の瓦を思い切り叩いた。瓦が割れて、体勢を崩しかけた影はそれでも踏み止まり、葵の懐に飛び込もうとした。その手にはスタンガンが握られていた。
「小手!」
葵はすぐさま影の右手を叩いた。その痛烈な一撃に影は思わずスタンガンを手放してしまい、右手を抑えてしゃがみ込んだ。その時、風が吹くとともに、雲に隠れていた月が顔を出して、マスクが外れた影の素顔が月の光に照らされた。
「やっぱり貴女だったんだね……有備憂さん」
「……気付いていたの?」
憂はこれまで葵には聞かせていない低い声色で呟いた。
「気付いたというか、皆で色々考えて貴女が怪しいという結論に達したの。今日の夕方、つまりさっき、ようやくだけどね」
「……」
「秀吾郎からの報告や、この間の体育会との対決での動きを見て、只者ではないという見当はついた。今日、くす玉の縄を切ったのも貴女でしょ? いつぞやのバイクの車輪に旗竿を投げ込んで暴走させたのも貴女の仕業……」
「……」
「しかし、どんなに考えても調べても分からなかったのが、何故そんなことをするのか? ということ」
「……アンタが邪魔だからよ」
沈黙を続けていた憂が口を開いた。
「私が邪魔? どうして?」
「……私が百二番目だからよ!」
「ええっ⁉ っていうことは……」
「そうよ! 継承順位百一番目のアンタが退位すれば、百二番目の私が征夷大将軍になれる! これまで散々苦汁を舐めさせられてきた有備家数百年の悲願が叶う! だから、様々な嫌がらせや諸々の妨害工作を行って、アンタを将軍の座から引きずり降ろそうとしたのよ!」
「そんなことしたって……氷戸さんや五橋さんもいるでしょ?」
「氷戸光ノ丸に関しては、奴の家の系列会社が行った不正を掴んでいる! 奴は直接絡んではいないけど、関与の証拠をでっち上げて失脚させる準備は出来ていた! 日比野飛虎は、ベタなハニートラップでも仕掛けてスキャンダルに巻き込めば、世間は勝手に見放す! 五橋八千代……あの女のことは子供の頃から嫌というほど知っている! 所詮は世間知らずのお嬢様! 私の手にかかればどうとでもなる! ただ……そんな時に現れたのがアンタよ! 若下野葵!」
「……」
「アンタさえいなければ、私が将軍になれたのに! アンタさえいなければ!」
葵はゆっくりと口を開く。
「つまり、私を色々な手段で脅かして、将軍を退位させようとしたってこと……?」
「そうよ!」
「だからって、嫌がらせの度が過ぎていたんじゃないの⁉」
葵の突然の大声に憂が体をこわばらせる。
「今日の垂れ幕落下もそうだし、カフェの火災なんて、下手したら私も五橋さんも、そして進之助も取り返しのつかないことになっていたんだよ⁉」
「い、いざとなれば、助けるつもりだったわよ……」
「そういう問題じゃない‼」
「ひっ!」
「貴女はやって良いことと悪いことの区別が全くついていない! そんな危なっかしい人にこの座は絶対に譲れないし、譲らない!」
「!」
「大江戸学園の平和も、大江戸の町の平穏も、大切に守る! 大事にする! それが、この位にいるものの務めであり責任! それが将軍!」
「‼」
「私が征夷大将軍‼」
「! ははあっ!」
葵の迫力に気圧されて、憂はその場で平伏した。