第29話 石橋を叩いて渡った所割れて川に落ちて損害賠償も請求されたのですが
一夜明けた翌朝は、どんよりと曇った、肌寒い天候だった。
「おはようす!」結城は天候や気温や気圧に一切関係なく、事務室に入るなりフルボリュームで挨拶した。「昨夜はお疲れ様っした! ありがとうございました!」終劇後の舞台挨拶のように、腰から深々とお辞儀する。
「おはようございます。お疲れ様でした」木之花がにっこりと目を細める。「二日酔いなどはないですか?」
「はいっ、すこぶる元気です」結城は大きく頷く。「会社の諸先輩方とお話できて、大変勉強になり励みにもなりました!」もう一度大きく頷く。
「元気そうっすね」天津が眠そうな目ながら微笑む。「酒強いんですね」
「いやあー、普通ですよ、ってあれ、天津さんは二日酔いっすか?」
「はは……」天津はいつにも増して弱々しげに笑う。「あの後、明け方近くまでつき合わされちゃいまして」
「おお」結城は目を見開く。「神様たちに?」
「ははは、ええ」また弱々しげに笑いながら、天津は木之花をちらりと見る。
木之花は何も言わず、ただ微笑んでいる。
「豪傑が多いですからね、うちは」天津は眠たげな目を伏せ、肩をすくめる。
「ははは、じゃあ今日の研修は、天津さんにあんまり負担かけないよう、気をつけてやりましょうね。では後ほど!」結城は元気良く事務所のドアを閉め、研修室へと向かって行った。
ふう、と天津は溜息をつき、ファイルを取り上げて席を立った。
「呑み込まれないようにね」木之花が言葉を送る。
「――」天津は唇をすぼめ、ドアの前で肩越しに振り向く。「昨夜……」
「もちろんすぐ帰ったわよ」木之花は眉を持ち上げペンをくるくると右手で回しながら、訊かれる前に答えた。「宗像さんと一緒に」
「――」天津は唇の端を下げた。「夫を差し置いて?」
「――」木之花はそっぽを向く。「元、ね」
「――」天津は目を閉じ、前を向く。「やっぱまだ、怒ってる?」
「さあ」木之花は首を傾げる。「昔のことだしね」
「――」天津はふう、と溜息をついた。「ごめん」ドアを開ける。
木之花は、何も返さなかった。
三人の研修社員と一人の研修担当の神は、昨日と同じように練習用の洞窟へとエレベータで降りて行った。
「今日は、昨日の“対話”に加えて、開いた岩の中でいくつかの“作業”をしてもらいます」エレベータの中で天津は簡単に説明した。
「作業」時中が復唱し、
「なんか切ったり、掘ったりするんすか?」結城が質問し、
「さきほど頂いた、この機械を使うのですか」本原がウエストベルトから、黒いリモコンのような物体を取り出しながら訊いた。
それは縦十五センチ、横五センチ、厚さ一センチほどの、表面がつるりとした直方体だった。特にボタンや何かの挿し込み口がついているわけでもない。ランプ類が点灯している所も見られないが、今は電源が入っていないためかも知れない。
「そうそう、これって何するもんなんすか」結城も本原の持つ物体を覗き込んで訊く。
「これは地球内部の揺れを予測するものです」天津は説明した。
「揺れ」時中が復唱し、
「地震波探知機っすか?」結城が質問し、
「揺れたら何か反応するのですか」本原がその物体の表面を指で撫でた。
「一般的な、地震波と呼ばれる振動とはまた違うものです」天津は説明を続けた。「皆さんが昨日対話した、地球の“声”を探るものです」
「地球の、声」時中が復唱し、
「あの甲高い声っすか?」結城が質問し、
「けれどあの声は、鯰(なまず)さまの声なのではないのですか」本原が物体を両手で握り締めた。
「はい」天津は頷いた。「あの声は鯰のものです。これが予測するのは声というか“意志”ですね、地球の」
「意志」時中が復唱し、
「意志っすか?」結城が質問し、
「これに意志が表示されるのですか」本原が物体を裏返し再度指で撫でた。
「具体的に言うと、地球内部で意志が発動される際、その伝導経路における圧力や密度、非圧縮率、剛性率、それから組成物質などに関連してどのような現象が起きるのかを都度予測するものです。それによってイベントスタッフの作業や動作も違うものになります」
「なるほど」時中が納得し、
「え?」結城が質問し、
「――」本原は黙って物体を再度握り締めた。
そしてエレベータは昨日と同じように、洞窟入り口へと辿り着いた。
昨日の“出現物”たち――土偶、剣、燃える岩、石川啄木――は、今日はまったく姿を現さなかった。というよりも、今日はそういう“出現物”が、まったく姿を現さずにいた。
「なんか今日は、平和っすねえ」結城が歩きながら両手を頭の後ろに組んで、間延びした声を出す。「平和っちゅうか、暇っちゅうか」
「はは」天津は静かに苦笑する。
他の二人は黙ったまま、洞窟内の湿った岩の上を歩き続けた。結局何とも遭遇せぬまま、小川まで一行は辿り着いた。
「ん?」
「あれ」
「まあ」だがそこで三人は声を上げた。
川の中、その流れをせき止めるかのように、その岩は存在していた。高さ一メートル強、幅一・二メートル程の楕円体で、表面はざらざらしており滑らかではない。川の水はその岩の両脇を、まるで蹴散らされるように分かれて流れ、再び合流して先へと流れ進んでいる。
「なんだろ、この岩」結城がいつものように先立ってその岩に近づいた。
「結城さん」天津が呼び止める。「慎重に、まずはよく観察して下さい」
「あ、はい」結城は立ち止まって振り向き、また前方を見てしばらく様子を見た。
ちょろちょろちょろ
小川の水が岩の左右を流れてゆく音だけが、しばらく続いた。
「うーん」やがて結城は腕組みをした。「特に、なんてこともなさそうですねえ」言うと同時に組んだ腕を解き、軽くその岩を叩く。
「結城さ」天津が呼び止めようとした声は、間に合わなかった。
ぐぐ
微かな音が、その岩の中から聞こえてきた。
「え?」結城は一瞬天津を振り向き見ようとした。
ぐぐぐぐ
音が大きくなり、その楕円体の頂点に細い光の線が走った。
ぐぐぐぐぐ
「離れてください」天津が岩へと走り、「急いで」珍しく、焦った声で叫ぶ。
「え」三人はきょとんとして天津を目で追った。
「閉じます」そう言うと同時に天津は掌をその岩にかざした。
ぐぐ
岩が最後のきしみを挙げ、細い光の線は少しずつ短くなり、やがて消えた。後は元通り、ちょろちょろと川の水が岩の横を流れ行く音だけが聞こえた。
「――危なかった」天津は手をおろし、震える溜息をついた。
「何だというんですか」時中が問う。
「――」天津は尚も警戒の視線を岩に向け「開いて十秒経つと、魔物が出て来る岩です」と告げた。
「十秒経つと」時中が復唱し、
「魔物が出て来る?」結城が質問し、
「まあ、素敵」本原が溜息混じりに囁いた。
「いや、素敵じゃないよ本原さん」結城が慌てて振り向き再び叫ぶ。
「うるさい」本原は眉をひそめる。
「まじっすか。今のほっといたら、魔物が出て来てたんすか」結城は天津の方に向き直り、尚も叫ぶ。
「――」天津はその声の響きに顔をしかめながら「はい」と頷いた。
「うわやっべえ」結城の興奮はさらに続いた。「え、俺のせい? 俺がぺんって叩いたから?」
「――可能性は、高いです」天津はそう言ってから、結城に視線を移した。「結城さん」
「は」結城は、天津の真剣な表情に背筋を伸ばさざるを得なかった。「はいっ」
「ここで見る物、遭遇する物は、確かに現実離れしていて、好奇心をくすぐるものも多いと思います」天津は静かな口調で話した。「ですが中には、結果的に皆さんにとって危険な効果をもたらすものもあります。それをある程度予測する助けになるのが、今日これから使っていただく、あの黒い機器となります」
「は」結城は真剣に頷いた。「はいっ」
「ですがそれの助けがあるからといって、万全の備えができている、百パーセント安全だということは、まったく言えないんです」天津は首を振った。「これは、しっかりと肝に銘じておいて下さい」
「はいっ」
「今日と明日で、ここでの研修は終わります」天津は他の二人にも目を向けた。「その後は実際に発注を受けた先で、OJTとしてイベント遂行をしていただくようになります。最初の一週間は僕がついて行きますが、その後は皆さんだけでやっていただかないといけなくなります」
三人は、言葉もなく天津を見つめた。
「もう、僕が護ってあげられなくなっちゃうんです」天津は目を閉じ、自分の胸の前で拳を握り締めた。
「天津さん」結城が一歩、天津に近づく。「すいませんでした、俺うかつに岩叩いたりして。すいませんでした!」深く頭を下げる。「以後気をつけます!」
「結城さん」天津は表情を緩め、結城の肩に手を置いた。「僕もすぐに言えばよかったんですよね。試すような事してすいませんでした」
「天津さん」結城は顔を上げる。「けど俺、今日は天津さんに負担かけないようにつってたのに、しょっぱなからこんなことになっちゃって……すいません」もう一度うな垂れる。
「大丈夫です」天津はもう片方の手で結城の腕を掴む。「これからこういった出現物の性質の予測方法を伝授して行きますから。今はまだ、僕が――我々が、護らせてもらいます」結城に向かい、頷きかける。
「天津さん」結城が呼び、二人は正面から視線を合わせた。
本原が左右の人差し指と親指で枠を作り、二人をその中に捕らえて眺める。
「何をしているんだ」時中が訊く。
「BL漫画の一コマみたいだなと思って」本原が真顔で答える。
「それでは、先に進みましょう」天津が一同を促した。「繰り返しますが、出現物に対しては、まずは慎重に観察する姿勢で臨んでください」
「はいっ」結城が元気良く答え、他の二人と天津はぎゅっと目を瞑り衝撃に耐えた。