第26話 目標は、地球滅亡までにこの仕事を終わらせる事だ!
「お疲れ」言いながら戸を引く。
「お疲れぃーす」
「お疲れぃーす」厨房の男たちが、妙な発音ではあるが威勢よく返してくる。うち一人は、昼間一緒に仕込みをやった板長だ。
「お疲れっす」座敷から下りてきたホール係のバイト学生もすぐに酒林に気づき、笑顔でぺこりと頭を下げる。「店長、新人の子、隣に木之花さんしっかりついちゃってますよ」背後を親指で差しつつ、苦笑しながら報せる。
「まじか」酒林は笑いながら顔をしかめる。「てか俺、今咲ちゃんと顔合わせたくねえのよ」
「また何かやっちゃいましたか」バイト学生は少し身を遠ざけながら目を細めて訊く。
「やっちゃいましたよ」酒林は学生バイトの頭にぽんと手を置く。「蛇の習性には抗えないからねえ」
「ああ、そっちすか」バイト学生は、今時の子らしく物分りの良い面を見せながら「いらっしゃいませー。ご予約でしょうか」と、玄関から入って来た客に素早く対応する。「あーすみません今日は貸切になってましてー。申し訳ありません、またお願いします! ありがとうございます!」
酒林はにこにことそんなバイトの仕事振りを見守りながら、靴を脱ぎ縁に上がる。
座敷内では乾杯の後しばらく談笑が続いていたのだが、頃合を見計らって大山が再度立ち上がり「えーではここいら辺で、ほろ酔い加減のいい気分のもと、全員自己紹介をしていただきたいと思います」と述べた。「酒の勢いによる愉快痛快なコメントで場内大爆笑の渦に包まれ、盛り上がってゆける事と期待しております」
「じゃあ最初は社長からお願いします」直ちに声がかかる。
「いいぞ」
「場内大爆笑で」
「期待してますよ」
「えー?」大山は胸を撃ち抜かれたように苦痛の表情を浮かべたが「相わかりました」と襟元を正して一つ咳払いをした。
全員が口を閉ざし、大山に注目する。
「えーわたくしは新日本地質調査株式会社の代表取締役、大山和志と申します。元々は京都、三嶋神社で鰻(うなぎ)を使って子宝祈願を受けてましたが、生命誕生に関わる面、つまり新人採用と教育という面での担当を、天津君と木之花さんとの三人体制でやっておりまして、えーまた個人的には海と山両方を見るという性質上、会社全体を管理する立場を仰せつかっております」大山は立て板に水を流すかのようにすらすらと自己紹介した。
少しの間、沈黙が広がる。
「で?」誰かが言う。「そこからの?」
「え?」大山がぽかんと訊き返す。
「爆笑ネタ」別の者が答える。
「ええええ」大山は唇の端を引き下げた表情になるが、すぐに「ああそれはこの後、天津君がぶちかましてくれるそうなんで、私はひとまずここまでと致します」と締め括り、さっさと腰を下ろした。「さ、天津君、次」天津に手を差し伸べ、促す。
「ええええ」天津が同じく唇の端を引き下げながらも渋々立ち上がる。「ええと、えー、私は研修教育担当の、天津高彦と申します。えええと、大山社長と同じく三嶋神社に座してましたが、今はその、あれです、こういう、あの立場になっております」
「あまつん、それ爆笑ていうか、むしろ苦笑ネタだけど」誰かが言う。
「ものすごいふわっとした自己紹介なんだけど」別の者も言う。
「あ、すいません、えええと」天津は顔を赤らめながら必死に言葉を探した。「爆笑ネタは、そのう、あの」
「咲ちゃんは口説き落とせたの?」また誰かが問う。「生命誕生を司れたの?」
「あえ」天津は後頭部に手を置きながら、しんなりとした表情で酒を呑んでいる木之花の方を見る。「いや、それはその」
「駄目だったのか」
「あまつんー」
「駄目だなあ」一斉に駄目出しの声が挙がる。
「す、すいません」天津は重ねて謝る。「じゃ、じゃあ僕はこの辺で、退散しま……」
「あたしを口説くって?」木之花が唐突に発言する。手には猪口を持っている。「十億年早いわ」
場内に、爆笑が起こる。
「十億年後ならいいのか」
「十億年後って、地球どうなってんの」
「存在してるの?」
「ええと太陽は、あと五十億年ぐらいの寿命だっけ」
「じゃあまだ、あれだな、いけるな」
「あたしは木之花咲耶」木之花が構わず自己紹介を始め、それからくいっと手許の猪口を干した。「まあご存知の通り、総務を担当してるわ」指で唇を一文字に拭い、妖艶に笑う。「自分が死んだ時遺族に幾ら入るか、知りたければいつでも聞いて」
三人の新入社員は言葉もなく、硬直していた。
「まあまあ、それはそれ」誰かが強制的に場を和ませる。
「そうそう、そんな時てのはまずもってして訪れないからね」別の者が声に熱を込めて続く。
「咲ちゃん、しょっぱなから飛ばし過ぎでは」更に別の者がそっと囁く。
「あれだ、サカさんに頭に来てんだよ」更に別の者が尚そっと囁く。
「よし、では次に儂が参ろう」立ち上がり高らかに宣言したのは、宗像であった。
場内が再び、しんと静まり返る。ほ、と溜息の漏れる音がする。皆がつい振り向く先には、頬を赤らめうるんだ眸で宗像を見上げる木之花の、しな垂れた姿があった。
「儂は宗像道貴、福岡支社長を務めておる。本社には滅多に顔を出さんが、今回は新入
社員の諸君を激励する為参った。常日頃は福岡の海の傍にて、海上をゆく者たちの見張り、守護をしておる。戦となった際には軍事を司る」
「戦?」結城が声を挟む。「戦って、戦争っすか?」
「さよう」宗像は一筋の迷いもなく即答する。「軍事、外交を司る者は他にもおるぞ」
ざっ、と一斉に立ち上がる者が、四名あった。
「伊勢照護す」結城の隣に座っていた男が名乗る。「大王の守護神をやってます」
「鹿島健だ」宗像の隣に座っていた鹿島が名乗る。「剣と雷を見ている。あと鯰(なまず)も」にやり、と笑う。
「住吉渉です」木之花の隣に座っていた男が名乗る。「軍船に乗って、航海守護をしてます」
「石上史人」下座、天津の隣に座していた男が名乗る。「剣の神」
「うわあ」結城が感嘆の叫びを挙げる。「まじっすか。皆さんで戦争起こすんすか」
「起こしはせん」宗像は少し吹き出す。「戦になった際は、という話じゃ」
「戦を起こすのは神じゃない」木之花が、緩やかに首を振る。「いつの世でも、人間よ」
新入社員たちは、相変わらず硬直するのみだった。
「俺も、自己紹介とかしないといけない感じかな」酒林が、唇を指でつまみながら呟く。
「ファイトっす」ホール係のバイト学生が、握り拳を小さく振る。
「はは」酒林は僅かに苦笑した後、和室入り口の襖を開けようと手を伸ばした。
「あなた達は、本当に神なのですか」その時、時中がそう問う声が聞こえた。
時中の不意討ちのような質問に、すぐに答える者はいなかった。
だが「いかにも」と宗像が深く頷くと、社員全員が共に頷いた。
「ですよね。確かに皆さん、普通ではないというか、常人にはない雰囲気を醸し出していらっしゃいますもんね」結城が室内を見回しながら、持ち前の大声でフォローを入れる。
先輩社員、上司たちは微笑みさえ湛え、再度頷く。
「じゃ、試しになんかこう、神ならでは! っていうの、見せてもらうことできますかね?」結城は次に、同僚のフォローに移る。「例えばこう、パーッと鳩出すとか」
「鳩?」住吉が目を見開く。
「ちょっとちょっと」伊勢が目をぎゅっと瞑る。
「なんで鳩?」恵比寿が茫然と訊く。
「神のイメージって、それ?」大山が瞬きもせず宙を見つめる。
「大山」不意に宗像が社長を呼ぶ。「かの者が、スサノオノミコトか」
「あ、ええと」大山は背筋を伸ばし、返答の言葉を捜す。「それはですね」
「スサノオ、つまり儂らの」宗像がそこまで言った直後「あたし達の、お父さんなの?」突然声のトーンが変わり、叫んだ。「彼がそうなの?」
座敷内にいる全員が言葉を失ったが、特に表情を変えたり宗像を振り向いたりする者は、神の中にはいなかった。神に限っては全員、実情を知っているのだ。つまり宗像の中には、三柱の“女神”が坐していることを。それはタゴリヒメ、タギツヒメそしてイチキシマヒメであり、彼女らはスサノオノミコトの剣、十握剣(とつかのつるぎ)から生まれ出た神々である事を。
だが人間の新入社員たちにはそこまでの事情はすぐに飲み込めずにいた。三人は驚愕の表情で初老の男神を凝視し、結城に到ってはその神を指差していた。
「お姉様、落ち着いてはいかがでしょうか」宗像の声のトーンは更に変わり、打って変わって低く沈んだ、冷静な囁き声になった。「まだはっきりと断定されたわけではないのですよね、大山さん」
「あ、はい、まだ」大山は頭を掻いた。
「それよりもそろそろ、席替えを致しませんか」宗像はそう言って、木之花の方に顔を向けそっと微笑んだ。
「タゴリヒメ様」木之花は酒のせいなのか他の要因のせいなのかわからないが顔を真っ赤にして、上ずった声でその名を呼んだ。
「私はイチキシマヒメです」宗像が眉を寄せ、哀しそうに身をよじる。「ひどいわ、咲耶姉さん」
「え、何、どうなってるの」結城は顔をあっちに向けこっちに向け、だが眸をらんらんと輝かせ、この複雑な状況の解説を求めた。「宗像支社長って、あの」
「よせ」時中が結城を睨む。
「オネエけ」結城は睨まれて言葉を断ったが、何を言わんとしていたのかは総員に丸分かりだった。
「すっげえよなあ、宗像さん」密かに憧憬の呟きを洩らすのは、和室入り口の襖の外でそっと中を伺う酒林だった。「あの咲ちゃんをあそこまでくったくたに堕とすなんて……あー俺もあんな親父になりてえ」