(1)
禅一が起き出す前に、珠雨は出掛けることにした。心配するといけないのでテーブルにメモを置いた。
昨日の今日でどんな顔を合わせたらいいかわからなかった。
ずっとあざみちゃんのことを好きだったのを、珠雨は覚えている。子供心に彼もしくは彼女に心を奪われ、ずっと一緒にいたいと思っていた。
何気ない日常の会話に「大好き」と繰り返したのは、優しくしてくれる相手への単なる好意ではなく、恋だった。
「――禅一さんは、普段は結構、あるがままを受け入れる感じですよね」
「抗わないのは楽だからね。目の前にある事実は、大体そのまま受け入れるようにしてる」
「楽って……それは」
それは諦めではないのか、と珠雨は感じた。
「何?」
「抗わないのが楽だって言うなら、俺が言うことも、受け入れてくれませんか?」
「受け入れた上での回答だよ」
禅一は電子タバコを消して、珠雨と向き合う。表情に翳りが見て取れた。
「あざみちゃん……禅一さんは、俺が小さい時からすべて肯定してくれましたよね。こんな『俺女』のあるがままを。それが諦めだろうがなんだろうが、俺にとって生きる糧になったのは事実なんです。そんな人を好きにならない方が、難しい……から」
己を否定されず、いつだって優しくしてくれた禅一は貴重な存在だった。何から伝えたらいいかわからなかったが、とりあえず再び沈黙が訪れるのが怖くて、言い募る。
「諦めじゃないよ珠雨。そうじゃない」
禅一は一度立ち上がると、コーヒーをサーバーからカップに注いで自分と珠雨の前に置いた。話が長引くと判断したらしい。
「僕は僕なりに自由に生きている。諦めているわけじゃない。珠雨と暮らすようになってとても楽しかったし、珠雨が女だろうが男だろうが僕にとっては大切な存在だ。それは多分、僕にとって性別というものがとても曖昧だからなんだよ」
「曖昧……?」
「氷彩さんには前に言ったけど、僕は性分化疾患で……IS、インターセックスとか言った方が通りがいいかもしれない。これから話すことはあまり触れたくないから、二度は言わないけどなんとなく理解して」
「え、なんか聞いたこと……あるけど」
禅一は一呼吸置いてから、語りたくないであろうことを語り始めた。
「僕が中学生の時だったかな、女の子みたいに……胸がね、少しずつ大きくなってきちゃったことがあって。同級生に悟られるのが嫌で、しばらく不登校になった。僕はこのとおりひょろい体型で、肥満で胸に贅肉が付いたというわけでもなかったからさ、戸惑うよね。で、いつまでも不登校してても問題あるんで、母に病院連れてかれて発覚」
禅一が何を話しているのか、何故この話になったのか、どうやって結論を出そうとしているのか先が読めない。
「それまでもあとで思い返せば色々と症状はあったんだろう。僕は元々学習能力に難があったりして、結構な努力をしないといけなかったんだけど、それも症状の一つ」
「俺からしたら頭の回る人だなっていう印象だけど……」
「それは努力した結果であってね。努力すれば、ある程度には仕上がるよ。珠雨の感じているそれは、鍍金された上での印象だ」
どことなく自虐的だ。否定しようとしたが、禅一が言葉を繋げる方が早かった。
「少し長くなったけど、結論としてはクラインフェルター症候群ていう、染色体異常なんだ。僕の体は子供の元を作る……まあぶっちゃけ精巣がね、機能出来てない」
「……男性ホルモン少ないって、それ」
ただの見た目かと思っていたが、そうではなかった。ちゃんと原因があってのことだったのだ。
「氷彩さんにそれを黙って結婚した僕が悪いんだろう。でも自分の遺伝子を残せない僕にとって、珠雨は本当の子供も同然だったんだ。……だけど結婚生活を続けることは出来ても、子供が欲しかった氷彩さんとは、どうしても無理があった。だから別れた」
「そんなの……ひどくないですか?」
珠雨の感想に一瞬逡巡したのか、少しの間禅一の口が止まった。
「……血が繋がってなくても、氷彩さんと別れても、珠雨は僕の子供であることに変わりはないんだ。だから、パートナーという意味では愛せない。ごめんね。でも、ありがとう」
これで話は終わりだった。とても誠実な断り方だが、それは食い下がることを許さないのと一緒だった。なんだか残酷だと思った。
出されたコーヒーには口を付けず、珠雨はそのまま二階の自室に戻った。禅一はそのあともしばらく仕事をしていたらしく、二階に上がってくる気配はなかった。
それが、昨日の夜のこと。