(5)
二人が帰ったあと、すっかり冷めてしまっているであろう飲みかけのコーヒーを珠雨は思い出した。
折角禅一が淹れてくれたのだから飲んでしまおうと手に取ったが、カップに触れた途端に手が止まる。コーヒーが適度に温かい。
「あれっ、淹れ直してくれました?」
「冷めてたからね。座ったら? お客さんもいないし」
また静けさを取り戻した店内で、禅一が読みかけの本をまた開く。本屋のカバーがかかっていて表紙は見えないが、禅一の傍の椅子に腰を下ろし、ちらりと中身を見ると日本語で書かれた物ではない。
「え、洋書……面白いんですか?」
「これの翻訳をするから、とりあえず一度読み通してからと思って」
まったりとした空間で何気なく言われたが、珠雨は少しびっくりする。
「それって……趣味とかじゃなくて、仕事?」
「そうそう。兼業してんの。まあどっちも趣味を兼ねた本業だけど……言ったことなかったっけ」
うろ覚えな感じで言われても、珠雨には記憶がなかった。
「でもさ、ほら今って人工知能に仕事奪われる世の中じゃない? 奴ら膨大なデータ蓄積してるから、翻訳とか、将来的にどうなんだろとか考えることあって」
しみじみと可能性を考えている姿に、あって当たり前の便利なツールとしか受け取っていなかった珠雨は、そういう危惧があるのかと初めて気づく。知りたいことは検索すればすぐに出てくるし、読めない英文も一瞬で翻訳してくれる。今に人工知能だけで小説なんかも書き始めるのではないだろうか。
「だから、僕にしか出来ないような表現をしようと思って、やってるんだよ。物語を逸脱しない程度に」
「えー、どんなジャンルを翻訳してるんですか」
「主に恋愛物かなあ……色恋っていいよね。読む分には」
コーヒーカップに口をつけながらぼんやりと呟くと、禅一は本を閉じ、少しだけ眼鏡を外して目頭を軽く揉んだ。
「僕は現実の色恋沙汰はどうも不得手でね。神経を摩耗するから。色々大変だよ、相手があるというのは」
「ふぅん……禅一さんモテそうだけど。何か嫌な思い出でもあります?」
あまりぴんと来ないのは、珠雨自身に恋愛経験が乏しいからだ。大した意味もない質問だったが、禅一は数秒黙り込んだ。
「珠雨よりは長く生きてるから、それなりにね。……だけど最近、誰とも肌を合わせていないから、他人の体温を忘れそうになる。たまに寂しい」
その声音が本当に寂しそうに感じられて、なんだかどきりとした。
禅一の物言いには色気を感じる。直接的な単語を避けるのは珠雨への配慮なのか、何の意味もないのか。もしこれが禅一でない男だったなら、もっと違う表現になるだろう。
珠雨はカップの中の琥珀色に映り込んだ自分を眺めていたが、ふと気になった。
「禅一さんは、結婚とか考えたことないんですか?」
「僕はバツイチです。……ていうか、覚えてない?」
「え」
「だいぶ前になるけど、僕と珠雨は一緒に暮らしていたことがあるんだよ。氷彩さんと結婚してたからね。まあ、あまり長い結婚生活とは言えないけど」
思いがけない言葉に、珠雨は目をぱちぱちさせた。
初めて聞いた。
氷彩は禅一について、どういう関係か仔細には説明しなかったし、ただ大学の傍に住んでいる知人なのだと簡単に考えていた。それなのに、結婚していたなんて言われたら動揺する。
しかし記憶を引っくり返してみても一向に思い出せない。禅一はしばらくして「忘れてるなら、そのままで」と苦笑した。
居候するのが決まった時にでも聞いていたら、また違ったかもしれない。しばし言葉を失っていたが、よくよく考えてみたら氷彩なら仕方ないとも思えた。たまに言葉が足りなくて、行き違いになる。
「今でも……母のこと好きだったりしますか……?」
「さあ、もうとっくに別れたからね。考えないようにしてるけど。やめようか、この話」
不躾なことを聞いてしまったのかもしれない。自分から振った話題なのに、なんとも気まずくなった。禅一の気を逸らす為に、話題をすり替える。
「そういやお客さんが来る直前、禅一さん何か言い掛けてましたよね?」
「……あー。珠雨、明日は他にバイトとか別件の用事とかあったりする?」
「明日は、まあ別に。授業があるだけで。時間があればやりたいこともあったけど、……なんですか?」
明日はヒトエでのバイトは入れていない日だ。なんだろうか。
「氷彩さんが、様子を見に来るそうだよ。だからなるべく直帰して欲しいと、伝言を頼まれた」
どうしてもう少し余裕を持って行動しないのだろうか。
そうも思ったが、予告をしてきただけましなのかも知れなかった。そして話を逸らそうと思ったのに、再び氷彩のことを蒸し返す形になり、微妙な沈黙が流れた。
静けさは好きだが、気まずい沈黙に耐え切れなくなった珠雨は、色々考えた末、さっきまでいた子たちの話題を持ち出した。
「さ……さっきの女の子の片方、禅一さんのこと禅さんて呼んでましたね。もしかして仲良いんですか?」
「あぁ、環奈さんの方ね。この前、珠雨がいない時に、少し」
気になる言い方をして、禅一は軽く笑った。
今度こそ話を逸らすのに成功したが、まさか体温恋しさに女子高生に手を出していやしないだろうかと、よからぬ考えが珠雨の頭を掠める。
「僕は未成年に手を出したりしません。いかがわしいこと考えたろ」
「えっいや、だって禅一さん変なふうに言うから!」
禅一は尚も笑いながら、ポケットからごそごそと小さなケースを探ると、電子タバコを取り出した。
タール0の水蒸気が上がり、なんだか不思議な匂いがコーヒーと混じり合った。禅一が立ち上がって窓を少し開けると、弱い雨音が少し大きくなる。
「勝手な想像でものを言うなら、環奈さんはね、嫌なことを違うことで上書きしに、ここに来たんだよ。……まあ、違うかもしれないけど、なんとなく」
いきなりそんなことを言われても、珠雨にはよくわからなかった。
しかし上書きの意味がわからないまま、禅一との会話はまた途切れた。仕事帰りと思われる女性三人がやってきて、しばらく会話に花を咲かせていたからだ。ここは女性客の比率が多い。