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プロローグ『懐かしき景色とありえない光景』

 ぼんやりとした暗闇の中で、俺は懐かしい音を聞いた。
 それは鳥の鳴き声のようで、どこか機械的な音質だった。ふと脳裏に浮かんだのは、横断歩道を渡る時に流れている明るい曲だ。他にもトラックらしき車の排気音やクラクションなど、都会の喧騒らしい音が近くで鳴っていた。
 (…………あぁ、またあっちの夢か)
 かつて日本で暮らしていた時の記憶が、夢の中で音として鳴っている。もう五年も前のことなのに、いつまで経っても望郷の思いを忘れさせてくれない。いつもは目をつぶっていれば消え去るのだが、今回はやけに現実感があった。

 息を吸うと都会特有の甘くさい匂いが鼻に入り込み、思わずゴホゴホと咳き込んだ。徐々に意識も回復していき、目を覚まそうとした瞬間のことだった。
 「あっ、あの。大丈夫……ですか?」
 誰かの声が聞こえ顔を上げると、そこには地面にへたり込む高校生の少女がいた。野暮ったい感じの大きな丸眼鏡を掛け、髪は長くも短くもなく全体的に地味な印象だ。少女は辞書のように分厚い本を抱え、俺を心配しておずおずと手を伸ばしていた。
 (……あれ、この子は確か)
 ふと脳裏に浮かび上がったのは、俺が日本を去る前の記憶だ。

 夜の横断歩道に突っ込んでくるトラックと、それに轢かれかけていた少女がいた。俺は慌てて少女に駆け寄り、ギリギリのところでその身体を突き飛ばし光に呑まれた。
 意識を失い目を覚ますと、目の前には女神と名乗る存在がいた。その女神の導きに従い、俺は異世界『アルヴァリエ』へと旅立った。
告げられた使命は、救世の勇者となり世界を脅かす魔王を倒すことだ。そして俺は子どもの頃に思い描いた剣と魔法の世界で、五年間も暮らしていた。

 しかし周囲に広がるのはコンクリートジャングルの街並みで、だだっ広い亜麻色の草原や薔薇のように赤い岩地などない。慌てて自分の姿を見ても、着なれた紺のスーツ姿だ。
 あの世界の痕跡はどこにもなく、今までの冒険が夢だったのだと思い当たった。
  「は……、ははは。そっか、夢か…………」
 何よりも大切だった人も、死線をくぐり抜けた仲間も、あの長い長い冒険すらも存在しないものだった。それを理解した瞬間に脱力して身体がぐらりと倒れたが、すんでのところで地に手をついてとどまることができた。

 未だ心配そうな目をした少女に大丈夫だと伝え、ふらつく身体を起こして立ち上がった。とりあえず自宅に帰るかと思っていると、少女が困惑した様子で俺の後ろを指差した。
 「それでその、そちらの方はお知り合いですか?」
 「え?」
 言っている意味が分からず、俺は振り返ってみて心の底から驚いた。何故ならそこに倒れていたのは、俺が異世界で出会い冒険を共にした最愛の人だったからだ。
 「…………エリシャ。なんで、ここに?」
 ここは夢の続きなのか、それとも現実なのか、俺には何も理解できなかった。


  ……エリシャという少女と出会ったのは、冒険を始めて二か月が経ったころだ。
 当時の俺は旅の資金調達のため魔物群生地として恐れられていた森の中へ入ることがあり、そこで魔物と対峙しているエリシャを見つけた。森の奥地というにも関わらず、エリシャは緑と白を基調とした長袖長スカートのドレスを着ていた。
 彼女の肩辺りまで伸びた髪は翡翠のように美しい光を放ち、風になびく毛先は黄金に輝いている。小柄だがスラっと整っており、王族や貴族的な高貴さが感じられた。
 俺は二十数年生きて初めて、誰かの美貌に目を奪われるという経験をした。

 二人で共闘して魔物を撃退し、安全な場所に移動して互いに自己紹介をした。すると彼女は、自分を精霊人という種族だと教えてくれた。
 精霊人というのは神に近しい存在である精霊と人間による混血で、美しい二色の髪色と千年ほどの寿命を有しているという特徴的な種族だ。俺も女神からその存在を聞いてはいたが、実際に見るのは初めてだった。
 「……ではレンタ様は、女神様に選ばれた救世の勇者だったのですね」
 「あまりにも弱すぎて、魔王討伐なんて夢のまた夢だけどな」
 「いえ、そんなことはありません。あなた様が来てくれなければ、私はあの魔物に間違いなく殺されていました。改めて感謝を申し上げます」
 なぜこんな場所にいたのか聞いてみると、エリシャは行方不明の弟を探していると教えてくれた。利害の一致もあり、俺たちは二人で旅をすることになった。
 「これからよろしくお願いします。レンタ様」
 「あぁ、こちらこそ。……それでだけど、様付けなのはどうにかならないかな」
 「ふふっ、性分なので難しいです。でも、努力はしてみますね」
 それは忘れもしない出会いだ。俺は彼女がいたから、本当の意味で勇者となれた。
 旅を続ける中で仲間は増えていき、俺たちはついに魔王と対峙した。そして接戦の末に魔王を追い詰めるが、奴の自爆攻撃に巻き込まれた。……そのはずだ。


 記憶を思い返しても、何故自分が日本にいるのか理解できなかった。
 (これは、まだ夢の中なのか? でもそれにしては…………ん?)
 よく見てみるとエリシャのかたわらには、五・六歳ぐらいの女の子がいた。女の子はエリシャに寄り添うように、スゥスゥと穏やかな寝息を立てていた。
 顔立ちは角度的によく見えないが、透き通った白銀の長い髪のふわっとした毛質の子だ。頭の両脇からは小さな巻き角が生えており、異世界で敵対していた魔族だと分かった。

 横たわる二人の身体に恐るおそる手を触れてみると、確かなぬくもりを感じた。それから自分の頬をぎゅっとつねってみたが、ただ痛いだけで夢からは覚めなかった。
 「………これからどうすっかな」
 さすがに交差点の真ん中に、いつまでも座り込んでいるのはまずい。魔王戦の直後だったこともあり、エリシャのドレスはボロボロの状態だ。
 近くにいたはずの高校生の少女にも手を貸してもらおうとしたが、どこにも姿が見えなかった。深夜にこんな意味不明な状況に遭遇したら逃げてもしょうがない。その場で叫びを上げられて警察を呼ばれなかっただけ御の字というものだ。
 俺は目を覚まさぬエリシャと魔族の女の子を抱え、一旦アパートへの帰路を急いだ。

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