サクラさんとの出会い
朝目覚めると、潤子はベットに座りながら歯を磨いていた。笑いながら私を見つめていた。
「潤子おはよう」彼女は歯ブラシをもっていない右手で手を振って答えた。さあ、今日はサクラさんと会うことになっている。スマホを見ると、六時五分だった。潤子は洗面台でうがいをしてからシャワーを浴びにいった。彼女が着替えを済ませて、私の前に現れた。なんと、さくらんぼや桃やリンゴや様々なフルーツをあしらったとても美味しそうなワンピースを着ていた。
「潤子、とってもフレッシュな洋服だね」
「でしょ。この為に買ったの。サクラさんも誉めてくれるかな?」
「きっと、そこに映っている全てのフルーツ、サクラさん気に入ってくれるわよ」私も全て大好物だ。
テーブルで昨日買った、バターロールにピーナッツバターをつけて食べた。飲み物は北海道牛乳。味はたいした変わらないはずなのに、北海道で飲む牛乳は美味しく感じた。
「さあっ、そろそろ出発しようか。準備はいいかな?」
「おうっ!姫様にお会いできるとは、なんたる光栄。いざ、出陣だ。って、私、何様なのかな?」潤子はベッドに座って両手を頬にあてた。
「今日は快晴よ。サクラさんの土産物も持ったし、あとはどれだけお互いを知ることができるのか。きっと、絶好調で上手くいくと思うけど」私はジャケットのポケットからアパートの鍵を取り出した。私たちは部屋を出て、施錠してから、小樽駅を目指して歩いた。とても爽やかだ。毎日がこんな日和だったら良いのにな。そう思って潤子を見ると、彼女は弾むような足取りで歩いている。特徴的な歩き方だ。空も飛べそうな勢いだ。そうとう嬉しいのだろう。それもそうだ。とても気に入った絵画を買うことができて、その作者に会うんだから。私ですらワクワクしている。
小樽駅から電車に乗って桑園駅で下車して、そこからはタクシーでサクラさんの家に向かう。彼女の家は円山公園の近くの宮の森。お金持ちが住む地域だ。私たちは流れゆく車窓をじっくりと見つめて、だんだんとサクラさんの家に近づくにつれて興奮を押さえられなくなってきた。タクシーが止まった。
「お客さん、ここが言われた住所だよ」
「ありがとうございます」私は料金を払ってタクシーを降りた。潤子は歩道から、真正面に見える家を見つめている。
「ヒュー!凄く立派な家だね。超お金持ちじゃん」潤子はインターフォンに近づいてボタンを押した。
「はい、潤子さんに高瀬さんですね。ちょっと待って、門の鍵を開けるから」そう言うと、ガチャッと扉が解除された。
「さあ、入って」私たちは門の扉を開けて中に入り、正面の玄関の扉を開けたサクラさんを初めて見た。とても色白で、美しい人だ。モデル向きな美しさといえばいいのだろうか。髪はピンク色に染めていた。しかし、とても似合っていて、とても自然でナチュラルでまるで体の一部分っていう感じだった。
「初めまして、私がサクラです。お二人とも、とっても可愛いわね。なんか期待したとおり。私の絵を買ってくれてありがとう。とても気に入ってくれたって聞いたわ。立ち話もなんだから、さあ、どうぞ入って」私たちはサクラさんに案内されて家に入った。家の中は檜の木の芳しい匂いがした。とても落ち着く。階段を上って二階に行くと、ひとつの部屋のドアを開けた。すると、雪崩れ込むように、油絵の具の匂いが鼻をついた。
「入って」サクラさんは私の肩に手をおいて案内した。部屋の壁にはたくさんの絵画が飾ってあった。
「凄い。これ全てサクラさんが描いた絵なの?」
「ええ、そうよ。初めて油絵をキャンバスに描いたのは小学生の低学年のとき。たしか三年生だったかな。父親の影響で絵を描くようになったの。最初は真似みたいなものだったけど。でも面白くってね。飽きもせず一日中描いていた。私の生命そのものって感じかな」
「サクラさん。じっくりと絵を見てもいいですか」潤子は壁に掛かっている絵画から目を離すことができないでいた。
「ええ、いいわよ。好きにご覧になって。もしよかったら、好きな絵を一枚差し上げるわ」
「ええっ、いいんですか?」潤子は大好きな人に告白されたみたいに興奮した。
「私の絵を買ってくれてありがとう。あの絵私のお気に入りで、素敵な人に買ってもらえることをとっても楽しみにしていたんだ。潤子さんみたいな可愛らしくて、感性の鋭い人に出会えて、私嬉しくってね」
「ありがとう。私もサクラさんのような純真な心を失わない、この世の人々の心に訴えかれるような作品を描く、情熱の溢れる人に出会えて幸せです。どこからそんな熱い想いが湧き出てるんですか?」
「お父さんの影響が強いことは確かだわ。社会に対して迎合しない姿勢っていうのかな、いつまでも子供の心を失わない姿勢はきっと受け継がれていると思う。でもお父さんから教わったことって全くないの。私が描いた絵を見せるとにっこり笑って嬉しがる。それだけ。でもそれが楽しみで、父と母の喜ぶ姿が見たくてひたすら絵を描いていたんだと思う」サクラさんはイーゼルにのせられたまだ真っ白なキャンバスを見つめた。
「潤子さん。よかったらモデルになってくれない?」
「私が?」
「ええ、あなたって、とても人を惹き付ける雰囲気を宿している。素晴らしいポートレートができそうな気がするの。その椅子に座って」
潤子は言われたままに椅子に座った。視線は窓の外の空に向けた。とっても爽やかな青空だ。
「そのまま、動かないでね。三十分くらいかな。今までに経験した嬉しかったこと、感動したことをイメージして」サクラさんはイーゼルの前に立ってじっくりと、その白いキャンバスを見つめ続けている。それからおもむろに木炭でできているチョークのようなものでデッサンを始めた。
サクラさんと潤子の距離はだんだんと縮まっているような感じがした。サクラさんの表情は真剣そのものだ。話しかけられる雰囲気ではない。私はその彼女の表情をとても美しいと思った。ぜひともその姿を留めておきたかった。それでスマホを取り出して、サクラさんを写した。まるで絵画のように心に響くポートレートだ。なんて美しいのだろう。
時間が過ぎた。およそ三十分。「潤子さん、オッケイよ。楽にして。とても描きやすかった。まるで木炭がキャンバスを踊るような感じだった。こんな経験をしたことは初めて。さっ、休憩にしましょう。紅茶とコーヒーどちらにする?」
「私はコーヒーで」
「私も同じコーヒーで」潤子が言った。
「それじゃ、リビングに移動しましょう。お母さんの手作りクッキーとアイスクリームがあるの。自分で言うのも可笑しいけど、とっても美味しいのよ。つくずくお店で売っているクッキーやアイスクリームって、ほんとお客さんを軽んじている。そう思うわ」
私たちはサクラさんの案内でリビングに移動した。
「サクラさん、サクラさんは描いている絵から推測すると、今の経済至上主義のこの社会を嫌悪している。そう感じたんですけど」私はサクラさんのキラキラ輝く瞳を見て言った。
「そうなの、だって今の世の中、お金がすべて、って感じでしょ。お金持ち連中が高価な車に乗って、それから高級なワインを飲んだり、数百億円もする絵画を買ったりね。私からすれば、そんなにいかに贅沢をしようとも、貧乏な人とやっていることってたいした変わらないのよね。同じ一日24時間が与えられて、寿命を延ばすこともできずに、同じように死んでいく。私だっていつの日か自分が死んでいくことを、理解して、例えばあと一日しか生きられないとしたら私は何をするのだろう、どういう行動を起こすだろうって考えることがあるの。私は川の側の草原に寝そべって、じっと目を閉じて、今まで生きてきたこと、その行いをひとつひとつ思い返すの。あー、あんなことあったなあ、懐かしいなあ。とかね。それから起き上がって、人がたくさん群がるなかを歩いてみんな私の寿命が今日だなんて知らないだろうなあ。と少し寂しくなるけど、公園のベンチに座ってあらかじめ袋の中に入れたパン屑を鳩にあげて、ひょっとしたら、私のことを理解してくれる人なんて、ほとんどいないということに、寂しさよりも、極めたみたいに、この孤独感を満たす、純真な鳩になっていつの日か飛び立とうと決意するの。そう、目を閉じて、自分が空を飛んでる姿を黙想してね。それだけで十分なんだ。そして私の作品を見てくれる人が、私の血と肉を備えた、心からの叫びをその絵画から受け取ってもらえれば言うことはない。子供の心を失わない、そんな人たちが多く、量産されることを望んでいる。だから、みつきさんと潤子さんに出会えたこと、本当に私は幸せだと思う。一生の友達を得た気分って言うのかな」
「私もサクラさんの絵からとても啓発を受けたの。それは潤子も同じだわ。潤子の初めて、少年と少女、と言う題名の絵を見たとき、ほんと彼女はそれこそ心を揺さぶられたんじゃないかと思う」
「そうなの。私はきっと描かれている少年と少女のその大人に対しても揺るぎない姿に感銘を受けた。この二人が大人になっても変わらず子供の頃の自分を忘れずに生きて欲しいと願ったわ。きっとこの絵は、私だけのものではないと思う。だから自分の部屋に飾るのではなくて、父と母が経営する喫茶店の、目立つ場所に据えようと思う。きっとお客さんも喜んでくれる。なんだかその日が待ち遠しいわ」
「喫茶店を経営しているの。素敵ね。私も行ってみたいな」
「そこのアップルパイが、超有名なの。とっても地味豊かな味で最高なんです。ぜひ、来て欲しいわ」
「サクラさん、歓迎するわ。遊びに来てね」潤子は嬉しそうに言った。
「そうだ、サクラさんにプレゼントがあるの。小樽のアクセサリーを売っている店で見つけたんだけど」私は鞄から梱包されたものを取り出してサクラさんに渡した。
「ありがとう。開けてみてもいい?」
「ええ、どうぞ」
「わー、これ、少年と少女が手を繋いでる。絵がら飛び出してきたみたい。とても素敵だわ。ありがとう」そう言うとサクラさんはそのアクセサリーを首にかけた。
「サクラさん、とってもお似合いです」私と潤子はサクラさんが喜んでくれたことに、私たちも嬉しくなった。
「こんな素敵なアクセサリーが売っているお店があるんだね。あとからそのお店のある場所教えてね」
「わかりました。ほかにもたくさん目立つ品物があったんです。とても繊細な素敵なものがあって、どれにしようかと悩んだんです。そこにその品が目に入ってきた。一瞬でこれだ!って思って」私はサクラさんの絵がじっくりと脳裏に浮かんでいて、深く刻まれていることにとても安らかな気持ちになっていることに気づいた。
「サクラさん、お願いがあるんですけど。ぜひともサクラさんを題材にした小説を書きたいと思っていて、いろいろ聞きたいなあって。いいですか?」
「そうなの、それは光栄だわ。まだ20年位しか生きてないけど、私の人生を写した小説なんて、なんだか身の引き締まる思いだわ」
「もちろん、全てサクラさんの姿を反映されているわけじゃないんです。そこには私の想像で描く範囲が多分にある。骨格を教えてもらって、筋肉や内蔵は私自身の経験や感性で塗り固めていくんです。ほんと、楽しみ、なんて幸福なんだろう。人と人との出会いって重要だと思う。それなのに、人との結び付きって進化するたびに阻害されている。なぜだろう?」潤子は直面している問題に対して本当に悩んでいるようだ。
「潤子さんの言っていること、私にも分かるわ。これだけネットが広がってSNSとか人と人とが繋がるツールがたくさんあるのに、それが無かった時代とどこが違うんだろう。真の意味で人は幸福に、幸せになっているんだろうか。でも言えることは過去の時代より選択範囲が広がったっていうこと。これはすごく良いことだと思う。昔の人たちは目に見える現象に縛られていた。でも私たちは違う。創造力を働かせるスペースが広がったんだと思う。これはなにものにも妨げられない素晴らしいことだわ。自分がなりたいことになれる確率が増えたっていうことかな。そして多くの人に自分の考え出した構造物を見せることができる。潤子さんがやっていることよね。たくさんの人に自分の小説を読んでもらうことができる。これはほんと過去にはできなかったことだよね。自分と見ず知らない人たちを結び合わせることができる。その人の心の内に入っていくことができる。それって素敵なことよね」
「でも、それを喜ばない人たちもいるの。人と人との結び付きを危険な行為だと思う人たちもいる。たしかに、ネットの掲示板で人を中傷したり、事件に巻き込まれたりする事例が多くなっているから。でも最終的には強力なブラックホールに物体が吸い込まれるように、ひとつの点に全ては集約されるように思うの。きっと、それは劇的な演出を伴うものとなるはずだわ。救い主が来るまでの間、私たちはひっそりと息を潜めて、目を瞑りながら、そして安心感に浸りながら私たちの救出を待つ。救世主伝説って知ってる?」サクラさんは雑誌に出てくるモデルのような笑顔で言った。
「北斗の拳っていうアニメなら見てたけど」私は幼い頃、そんなハードボイルドなアニメを見たことを思い出した。
「そう、ある人が世界を救う為に来るっていう話。私信じているの。この地球からそんな集団が現れて私たちを救ってくれるってことね。それまでの間、私たちは一生懸命になって、残酷な奴等に対して断固として徹底抗戦を挑む。ねえ、カッコよくない?」
「救世主か、世界の中には、そんな人がきっといるはずよね。人々に対して慈しみ深くて愛情に溢れている人。私たちが会う、ごく日常に混じり会う人たちの中にもそんな人たちがたくさんいると思う。きっと救い主は、私たちの隣人なんだと感じる。テレビに映っている有名人なんかじゃなく、そう、身近な人。私たちが未だ気づかない質素で素朴で霞のような人。そんな人がきっと私たちを導き幸福へと誘う人なんじゃないかな」私の脳裏には様々な人の姿が走馬灯のように翻った。そう、私に何らかの影響を与えた人たちのことを。
「私たち、これからも手と手を繋ぎ合わせて協力しなければならないわね。その為にはなにか、象徴となるものが必要だわ。そうだ、サクラさんに描いてもらいたいことがあるの。私、たまに疑問をもっていたんだ。この地上に降る雨と、世界中の人たちが悲しみの涙で頬を濡らすこと、このことって何か関連性があるのかってね。それで私は名付けたの。雨と涙の境界線はきっと君の心次第、ってね。これを象徴的なシンボルマークにしよう。それで頼みがあるの。この言葉を題材とした絵を描いて欲しいの。お願いできる?」潤子は言った。
「私が?とっても嬉しい。やりがいのある言葉だわ。今までに描いてきた作品を凌駕できる主題だわ。なんか心が沸いてきた」サクラさんは視線を天井へと移して、その白い壁にイメージを描いている様子だ。私たちが存在していることさえ忘れている、そんな感じだ。ここが引き際だ。そう思った。
「それじゃ、私たち、これで暇(おいとま)するわ」
「そう、今日はとっても楽しかった。私は早速、絵を描くことにする。頭の中に様々な風景が怒濤の如く沸き上がってくるの。きっと完成させた絵は私にとって記念碑的なものになると思う」
「楽しみにしている。また会いましょう。暇があったら私たちの家にも来てちょうだい。歓迎するわ」
「サクラさんさようなら。またね!」私たち二人はサクラさんに見送られながら、玄関を出た。タクシーを拾って、車内でも興奮して体が火照っていた。ススキノで降りると、ジンギスカンが有名なお店に入った。燻(いぶ)された煙が店内を漂っていた。なんとも悲しいというか、旅情を誘う感じが心をくすぐる。席に着くと、ジンギスカンを注文した。
「サクラさん、思っていたとおりの人だったね」潤子は嬉しそうに言った。
「うん、でもまだ彼女の百分の一も、その正体を暴いていないのかもしれない」
「それは言える。とてもチャーミングでありながら、ストイックでクールで、様々な表情を見せるところ、まるでスクリーンに映る女優みたい。ほんと魅力的」
「とにかく、今日の出会いはとっても得ることが多かった。今までに出会った人の中でも最上級の人だった。さあ、ジンギスカンを食べましょう。あーお腹空いた」