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第一章

近未来の地球――
 人類は「ヒュージ」と呼ばれる謎の生命体の出現で破滅の危機に瀕していた。
 
 全世界が対ヒュージという一大事に各国は利益の為に争い尽くし、地球から男性が八割消えた頃、凄惨な戦いのその果てに科学とマギの力を結集した「CHARM(チャーム)」と呼ばれる決戦兵器の開発に成功する。
  CHARMは10 代の女性に高いシンクロを示すことが多く、CHARMを扱う女性は「リリィ」と呼ばれ英雄視されていく。
 ヒュージに対抗するためリリィ養成機関「ガーデン」が世界各地に設立され拠点として人々を守り、導く存在となっていった。マギを持たない一般人は通常兵器によるヒュージの遅滞戦闘を試みる防衛隊になるか、壁の中に立て篭もりいつ壁が壊されるか怯えながら暮らすかの二択を迫られた。
 ユーラシア大陸は既に陥落し、ヒュージの巣ともいえる巨大ネストが多数建造されてしまった。
 世界の人口約10億人。日本人口7400人万人。
 人類は依然、滅亡の淵にあり、絶望的な消耗戦を続けていた。
 これはそんな人類存亡の最前線である「ガーデン」での、立派なリリィを目指して戦う少女たちの物語である。

“手の上ならば 尊敬のキス
額の上ならば 友情のキス
頬の上ならば 厚意のキス
唇の上ならば 愛情のキス
瞼の上ならば 憧憬のキス
掌の上ならば 懇願のキス
腕と首ならば 欲望のキス
さてその他は 狂気の沙汰”
『フランツ・グリルパルツァー「接吻」』
 カツカツカツと、温かみある木板の廊下を小さな足が進んでいる。時折、桃色のサイドテールを揺らして辺りを見回すと、その少女は講義室の前を通り過ぎて更に歩みを進めていった。
 時刻は夕方に差し掛かろうかといったところ。講義を終えた女生徒たちも、足の速い者は既にあらかた立ち去った後。そんな中、桃色髪の少女―― 一柳梨璃(ひとつやなぎりり)はお目当ての人物を視界に捉えた。
 甘えたがりの彼女にしては、珍しく一人。今が好機。
 ところが梨璃は立ち止まる。その人物とは顔を合わせれば挨拶するし、談笑することもある。しかしながら、これから打ち明けようとする話の中身を思えば、そこまで親密かというと疑問符が浮かぶ。
 それでも、自分とは正反対の性格ながら何故か親近感を覚えていた彼女に対し、梨璃は意を決して口を開く。
 
「あのっ、樟美(くすみ)さん!」
 
 大きめの声に、教本その他を両腕で胸の前に抱えていた小柄な体がビクリと震えた。それも一瞬のことで、見知った者と気づいた江川樟美(えがわくすみ)はホッとした様子で梨璃に顔を向ける。
 
「梨璃さん、ごきげんよう」
「ごきげんよう、樟美さん。あのっ、もしこれから御用がなければ、ちょっとお話したいことがあるんだけど」
「お話?」
「お話というか相談というか……。うーんっと、えーっと、ここだと話しづらいので、場所を変えてもいいですか?」
 
 歯切れの悪い言い様に樟美はキョトンとしながらも、細い首と柔らかな灰の髪を縦に振って同意する。彼女を連れて、梨璃は人のまばらとなった廊下を後にした。
 
 
 
 
 
 ここ百合ヶ丘女学院は選ばれた者のみが入学を許されている。それはリリィ。超常の力、マギを操り人類の敵たるヒュージを討つ少女たち。人類防衛の最後の要。百合ヶ丘はリリィに戦う術を教える軍事育成機関なのだ。
 性質上、訓練場や工廠などの物々しい施設が存在する百合ヶ丘だが、もちろん一般的な学園と変わらぬ光景も多く見られる。梨璃と樟美が到着したのはその一つである食堂だった。
 
「よかった。流石にこの時間は人、少ないですね」
「うん」
 
 梨璃の言葉通り、生徒の姿は少なく声も小さい。テーブルの上に居並ぶ重々しい燭台、やたらと高い天井が、今では物寂しさを強調しているようだった。
 朝、昼、晩の食事時にはこんなことなどあり得ない。完全寮生活の彼女たちリリィにとって、食事は二大娯楽の一つなのだから。
 
「テラスの方もやっぱり少ない。樟美さん、あっちに行きましょう」
 
 正確には一人居た。白の丸テーブルに頭から突っ伏している梨璃よりも小柄な体。薄紫の長髪を左右に結った、梨璃の友人であり戦友である少女。
 寝ているのだろうか。彼女のような工廠科は自分たち普通科とは暮らしのリズムも違う。その程度に捉え、梨璃は同席させてもらおうと近付いていく。今回の相談事は、この小さな戦友にも関係があるから丁度良いと言って。
 
「本当に、どんなお話なの……」
 
 僅かに不安が顔を覗かせてきた樟美と、気配を感じて眠たげな顔を持ち上げたもう一人に対し、席に着いた梨璃が声を落として口を開く。
 
「実はね――、そういうわけで――、だけど樟美さんなら――」
「え、えぇっ! お姉様とキス!?」
「しーっ! しーーーっ!」
 
 最後まで話を聞く間もなく、垂れ気味の瞳を大きくした樟美が驚きの声を上げた。釣られるように梨璃も焦る。
 一方で、もう一人は対照的に落ち着き払っていた。
 
「ふむふむ。つまり、梨璃はお姉様に接吻して欲しいのじゃが、どういったシチュエーションで、どのようなタイミングでしてもらえば良いのか、わしらに助言を請いたいわけじゃな?」
「はい、そうです……」
 
 腕組みし、椅子の上で器用に胡坐をかく。この珍妙で年齢不相応な口調の少女の名はミリアム・ヒルデガルド・V(フォン)・グロピウス。樟美同様にミリアムがこの話に関係しているというのは、お姉様を持つという点にあった。
 ここでいうお(・)姉(・)様(・)とは実の姉妹を指しているのではない。守護天使(シュッツエンゲル)制度という百合ヶ丘女学院独自の擬似姉妹のことである。
 
「それで、その、樟美さんのところはどんな感じなの?」
「私の場合は、私がしたいなって思った時に、何も言わなくても天葉(そらは)姉様からしてくれるから……」
「うわぁ、凄い。いいなあ」
 
 思い返してみれば、樟美と彼女のお姉様が腕を組んだりじゃれ合っているのを、梨璃は普段から何度も見かけていた。彼女が引っ込み思案な性格だからといって、どうして自分と同じ土俵に立っていると勘違いしてしまったのか。今更ながら己の浅はかさを自覚した。
 それでもすぐに落ち込むのを止めて、梨璃が質問の対象を転換する。
 
「じゃあミリアムさんと百由(もゆ)様はどうなの? シュッツエンゲルの契りを結んだの、結構最近だよね?」
「百由様かぁ。うーむ、ふざけたり寝ぼけた時によくしてくるが、はたしてあれはカウントしてよいのかどうか」
「あわわ、レベルが違い過ぎるっ」
 
 余計に手詰まりになっただけだった。周回遅れをまざまざと見せつけられるはめとなった。
 こうなってはもう仕方がないと、梨璃は形振り構わず更に突っ込んだ意見を求める。
 
「どうしよう、どうしよう。やっぱりこういうのは下級生(シルト)からお願いするのって、あまり良いことじゃないよね?」
「ど、どうなんだろう。人によるとしか。何か、役に立てなくてごめんなさい梨璃さん」
「ううん、そんなことないよ。私こそこんな話聞いてもらっちゃって」
 
 二人してあたふたとした様子。それを見かねたのか、顎の下に手を当てたミリアムが口を挟む。
 
「しかし梨璃。かつては意気揚々とシュッツエンゲルを申し込み、あまつさえ抱擁など要求したお主が、ここまで悩むとはのう。少々意外じゃなあ」
「意気揚々としてません! あれでも思い切って勇気出したんだから!」
「はははっ、そいつはすまんな。それはさておき、あまり他人のことばかり参考にしてもしょうがないぞ」
「えっ、どうして?」
「例えば、想像できるか? 百由様や天葉様みたいに夢結(ゆゆ)様がじゃれついてくる姿を」
 
 それは梨璃にとって、ある種の爆弾であった。押し黙った後、ややあって背中を丸めテーブルの上に顔から寄り掛かる。ブツブツと何やら呟きながら。
 
「えへ、えへへへへ」
「梨璃さん。梨璃さん?」
「しまった、わしとしたことがやってしもうた。梨璃十八番の白昼夢じゃ。これはちょっとやそっとじゃ戻ってこんぞ」
 
 どっぷりと想像の世界に浸り込んだ梨璃の頭に、外からの言葉は半ば意味を成さない。少なくとも、今この場の面子ではどうにもならないのは確か。
 やがて、それでも構わぬと開き直った風に、ミリアムは椅子へ深く座り直して自論を展開し始める。
 
「まあそもそも、シュッツエンゲル制度自体が後輩の育成と人間関係の構築を御題目に謳っておるが、あれは半分建前じゃな。育成などはレギオン制度の方が適しているはず。ならば、そっちの意図があるのは明白。学園側にそういう趣向の持ち主がおったのじゃろう。故に深く考えず、時と場合だけは弁えて、キスでも接吻でも口吸いでも積極的に挑戦していけば良いではないか」
「口吸いって、何なの……」
 
 困惑気味の樟美。梨璃は未だ戻ってこない。
 そんな状況を打破するかのように、テラスへ新たな顔触れが現れる。
 
「あらぁ? 何やら聞き捨てならない単語が聞こえてきたのですけど」
「随分面白そうな話してるじゃないか。梅(まい)たちもちょっと混ぜてくれよ」
 
 わざとらしく芝居がかった言動をする茶髪の同級生と、陽気な調子の緑髪の上級生が肩を並べていた。そして二人からやや下がった所に、梨璃を悩ませ、かつ、妄想の世界へと誘った原因が立っている。
 
「まったく。まだ日も沈み切らない内から、こんなパブリックスペースで。皆様貞淑さが足りてないのではなくて?」
「そうは言うが楓(かえで)よ。これは梨璃から持ち掛けてきた話でな」
「どうして私(わたくし)を呼んでくださらなかったの!?」
「ええい、七面倒な奴じゃ!」
 
 ミリアムの腐れ縁兼好敵手が悔しさに吠える。だがこのお嬢様、熱するのも早ければ立ち直るのも早い。自慢のロングヘア―を掻き上げつつ、再び芝居がかった様子に戻って続ける。
 
「ベーゼだなんて、そんなことまだ考えなくて良いんですのよ梨璃さん。子供ができたらどうしますの」
「阿呆かっ!」
 
 梨璃に代わって楓の軽口に応じるのはミリアムと、そしてもう一人――
 
「待って楓さん。女性同士で子供を成すには専用の医療施設が必要よ。日本にあるのは東京と横浜と名古屋、大阪ぐらいでしょう」
「んまーっ! 夢結様ったらちゃっかり下調べなさって! 抜け目ないお方ですのね!」
「いえ、これは別に……」
 
 慣れぬ軽口に羞恥を覚えたのか、最後の方は言葉を詰まらせる。そんな彼女こそ、先程まで話の渦中にあった梨璃のシュッツエンゲル。
 一方その頃、梨璃は妄想からこちら側へと戻っていた。現実で本物のお姉様の声が聞こえたので、さもありなん。
 しかし戻ったは良いが、俯いてもじもじとするだけ。話の内容が内容なだけに、当人に知られて一体どんな顔で向き合えるというのか。何とも気まずい状況だった。
 
「あ~、そろそろお開きにした方が良いんじゃないか? 皆やることあるだろ。梅には無いけど」
 
 第一声とは裏腹に、それまで会話に混ざらず様子を窺うだけだった梅が口を開いた。
 
「私、天葉姉様の所に行きますね。皆さんごきげんよう」
「わしも工廠科に戻るぞ。ごきげんよう、じゃ」
 
 まるで梅のその台詞を待っていたかのように、最初に集まっていた二人がテラス席を立つ。二人ということは、当然食い下がる者がいる。
 
「まあ梨璃さんがどうしてもと仰るのなら、私をベーゼの練習台にしてくれてもよくってよ」
「楓も帰るゾー」
「ではこうしましょう。まず梨璃さんが私として、それから私が夢結様とすれば、ウィンウィンウィンで一挙解決ですわ!」
「よーし、楓には梅がチューしてやるから、向こうに行こうか」
「あぁーん! 梨璃さーん!」
 
 
 
 
 
 二人きりになり、空に赤い夕日が輝き始めても、梨璃の気まずさは変わらぬままだった。
 
「お姉様、ごきげんよう」
「ごきげんよう、梨璃」
 
 椅子から立ち上がって遅すぎる挨拶を交わして。そこで言葉が途切れる。視線こそどうにか合わせられているが、今の梨璃にはそれで限界だった。
 不意に、お姉様――白井夢結(しらいゆゆ)がフッと口角を上げてから穏やかな声を発する。
 
「梨璃、ごめんなさいね」
「えっ、どうして。どうしてお姉様が謝るんですか?」
 
 どちらかと言えば、謝るのはこんな話を聞かせてしまった自分の方だと梨璃は思う。
 
「本来なら上級生が、シュッツエンゲルの私がリードすべきだったのに。シルトに気を遣わせてしまって」
「でも、私の我儘じゃないかって、そう思っちゃって」
「こんな我儘なら大歓迎よ」
 
 そう言って歩き出した夢結が丸テーブルの横をぐるりと回り、梨璃のすぐ前へとやって来た。
 夕焼けの橙色をバックにして、夢結の青みがかった黒髪が美しく映える。腰まで伸びた長い黒髪が、横からの風で僅かに流れる。
 綺麗、と見とれている間に梨璃の腰が引き寄せられて。見上げたところに薄桃色の唇が映り込んだ。
 梨璃はほとんど反射的に瞼を閉ざす。心臓の鼓動に、自身の中を幾度となく叩かれた。やがて口元を柔らかく押さえ付けられたことで、身に帯びる熱が最高潮に到達する。
 そんな時間も束の間。唇の感触と、腰に添えられていた指先の感触が無くなってから、梨璃は赤みの差した夢結の顔に見入る。そしてすぐに足元へと視線を逃がす。
 
「えっと、おでこやほっぺのつもりだったんですけど……」
 
 そうは言うものの、真っ赤な顔は潰れた大福餅みたいにふにゃりと緩んでいた。
 だが反対に、夢結の顔は赤に染まったまま硬く強張る。
 
「せっ、責任は取るからっ!」
「責任だなんて、そんな、お姉様ぁ」

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