きらめく星に眠る
おばあちゃん、何でみんな火星へ行くの?
台風明けの、不自然なくらい暑い初秋、わたしはおばあちゃんに尋ねたことがある。お母さんとお父さんが被災地へ派遣されて、次に家に帰るのはもう少し先だと言われた、どことなく物悲しい気持ちになった日だった。
「人間が生まれすぎたからだよ。地球は狭いんだ。あんな蟻んこみたいに増えたらそりゃあ何割かは死ぬだろうさ。火星移住計画が出るのも無理はない」
おばあちゃんは汗をだらだら流しながら、わたしの手をぎゅっと握って、火星が安全だっていう証拠なんざどこにもないだろうよと、ぶつぶつ悪態をついていた。
「もうずいぶん前の話だけど、最初に火星へ旅立ったやつらはすさまじい数死んだだろうねえ。今じゃテラフォーミングも人類全体が快適に暮らせるまで発展したらしい。これで転送装置が何の事故も起こさないレベルまで強度な造りになったら、私だって火星行くよ。命の保障があるならね」
「地球がもうすぐ終わるって、本当なの?」
「若者が出て行ってるから、そりゃあいつかは終わるだろう。年寄りだけで国を動かせるわけがない。みんなこぞって火星に新しい国を作ろうとかなんとか言って、実際、国が出来てるんだから、今後の流行りは火星だろうね。若い人間が火星に集まれば、火星の方が発展するに決まってる。限界集落とか見てればわかるさ」
「わたしは、何ができるのかな」
するとおばあちゃんは、愚問だというように大口を開いて腹の底から笑い声を出した。ガハハハハと、しわがれた声が、湿気の満ちる台風一過の空気に響いて、余計気温が高くなった気がした。
「ばーか。自分のことだけ考えてればいいんだよ。お前はお前の人生の主役なんだから、主役にスポットライトが当たって当然。自分を輝かせる未来だけ考えろ」
おばあちゃんはそう言うと、私の娘もお前も頭が悪いねえと小馬鹿にしたように眉を上げて笑み、汗でじっとりと濡れているお互いの手をさらにきつく結んだ。
**
タバコは中毒性が強い。そんな当たり前のことをわたしは感じながら、ニコチン臭い息を吐きだす。
「おばあちゃん。わたしが災害救助隊に入ったこと、まだ怒ってるんでしょ?」
年季の入った四畳半の畳は枯れた匂いがする。おばあちゃんはもうそんなに出歩けない。まだ自力で起き上がれるけど、わたしの補助がないと買い物に行くのも難しい。
ただでさえ悪い目つきをさらに眇めて、おばあちゃんはこっちをきつくにらむ。
「若い娘がタバコなんて」
「それ、女性差別ですから。未成年が吸ってるんじゃないんだから別にいいでしょ」
「誰に似たんだか」
「絶対あんただって」
ふんっと鼻を鳴らして、おばあちゃんは動かすのがつらそうな体を横に向ける。
状況は刻一刻と悪くなっていた。地球はもうもたない。みんなが感づいていることだ。海水の温度の上がり方が尋常じゃない。南の島は多くが水没してしまった。暑い。タバコに逃げないとやってられない。
「政府からお達しがあったの」
おばあちゃんの肩がぴくりと動いた。
「うちのところに『列車』が来るのは十二月だって」
しばらく沈黙が続いた。
「……ふうん。年内に到着するとは思わなかった」
「そうだね」
『列車』は鉄道の形をしていることからそう呼ばれる。ロケットだった時は火星へ行くまで片道二年の長旅だった。そのため閉鎖空間で異文化間のトラブルが起きやすく、それぞれ国ごとで違うロケットを飛ばすようになった。いつの間にかワープが開発されて格段に便利になった今では、一瞬でたどり着けるわけではないけれど、ずいぶん短縮された期間で行けるようになったのだ。
「救助隊の連絡網で拾ってきた情報」
吐きだされた煙は畳の部屋の真上に広がり、特に上昇もせず、ふっと消えた。
「わたしが社会活動してるのは、こういうためだよ」
おばあちゃんはゆっくりとわたしに向き直った。くっと口の端を上げ、いつもの強気で皮肉屋な顔を見せた。
「それでこそ私の孫だ」
**
暑くても死にはしない。真の敵は寒さだ。大昔の地球人は夏よりも冬の方を恐れていたらしい。さっきの言葉は何世紀も前の地球人が残した格言。時代も人もこんなに変わるんだね。誰にも聞かせないひとりごとを、心の中でつぶやいた。
「ひかり」
おばあちゃんが久しぶりにわたしの名前を呼んだ。柄にもなく、寂しくなった時にわたしを呼ぶのだ。いつもは「お前」とか「ねえ」「おーい」なのに。
「何で今日に限ってバカ晴れてるんだと思う?」
「私に聞かないでよ。青空なんて、本当に久しぶりだけど」
温暖化が進むと曇りや雨が多くなるし、世界中で湿気が広がり、むわっとした何ともいえない臭いが鼻を刺激する。今日は乾燥しているのか、日がまぶしい。天気が崩れると、太陽はむしろ厚い雲に隠れ、わたしたちから見えなくなる。
「リュック、さすがに重かったか。持つよ」
「あんたも限界だろ」
「わたし、若いから。何ならおばあちゃん背負えるけど?」
「調子にのるんじゃない」
おばあちゃんはぜえはあ言って、二か月分の食費を詰め込んだリュックを頑なに手放そうとせずに、歩き続ける。老体にここまでの距離を行かせたのは無謀だとわかっていた。でも時間がない。できる限りの旅費は調達した。おばあちゃんと生きていくには、何としてでも倒れずに進み続けなければいけないのだ。
容赦のない日射しがわたしたちを焼く。
憎らしい四十度の空。冬の気配なんかどこかへ消えた、異様なほどの空気の乾燥。
でも、綺麗だなと思った。
子どもが乱暴に青の絵の具をぶちまけたみたいな、強烈な青空だった。わたしたちが見上げる先には何もない。未来も過去も、形を成さない。誰と仲良くて、誰と喧嘩したのかさえ、わたしは何ひとつ覚えていなかった。友だちは入れ替わって、また新しい人と知り合って、別れたりした。みんなどこかへ行こうと夢を見て、実際にどこかへ行った人もいれば、どこへも行けなかった人もいた。それがわたしたち地球人だ。遠野ひかりと遠野早苗。二十一歳の公務員と九十歳の老人。
上を向くと、真っ青な空だけがある。ぎらつく太陽のきらめきがわたしをあぶりだそうとしている。ずっと歩いて、果てしなく歩き続けて、それなのに自分がこの世に生まれてから二十一年しか経ってない。あとどこまで歩くというのだろう。なぜ一歩ずつ踏み出す足が、こんなにも重いのだろう。そんな心の状態で、なぜわたしは、頭上できらめく日射しと抜けるように広い空を、綺麗だと感じているのか。こんな、「自然が美しいだけ」のどうしようもない事実を、感傷的に受け止めているのか。自分がバカらしくて、でも隣におばあちゃんがいて、笑いたいのか泣きたいのかも判断できず、どうにかなりそうだった。
「あんたらも東京行き?」
後ろから声をかけられた。
振り向くと、痩せた男だった。薄汚れた服を着ている、年齢不詳の男。
わたしはとっさにおばあちゃんの手を引き、「そちらも?」と先を促した。
「電車がまだ動いてた時代を知ってるか?」
「ええ、まあ」
男はわたしたちと話したいようで、疲れた表情を浮かべながらもどこか嬉しそうに、距離を縮めてきた。
「あんたら、AI世代だろ? 特に若いの。人が機械を動かしてた頃をもう知らないだろ?」
「……そうですね」
わたしは慎重に話を合わせる。
「生まれてからロボットがいたんで」
「やっぱそうか。俺を見ても怖がらないわけだ」
「ああ、人じゃないんですね」
「アンドロイドだ。旧式だけどな」
男は名前を永遠《トワ》といった。言葉は流暢だけど、確かに体の動きがカクカクしていて、滑らかでない。
「東京に、『列車』が来てくれると思うか?」
「……そういう連絡でしたけど」
訝りながらも、わたしは男に合わせた。
彼は乾いた自嘲的な笑いを浮かべる。
「俺は嘘だと思うね。来るとしても、オンボロ列車だ。最新のじゃない。命の保障なんかあるかよ。くそ、日本なんかに生まれなきゃよかった」
男はこの世を恨んでいるらしかった。言葉の端々に、人間や社会に対する厭世的な視点がうかがえる。
「あなたは、何で東京を目指しているんですか。『列車』に乗りたいんですよね?」
わたしはおばあちゃんを隠しながら、男に聞く。ほかにもぽつぽつと、東京に向かっているらしい人影が増えている。
「ここにいて何もしなかったら死ぬ。ここから出て東京へ行けば死ぬかもしれないが、助かるかもしれない。賭けにもなってない、最低の選択だ。しょうがないんだよ。東京に行くしか。アンドロイドにだって人権はあるんだ」
「あなたをアップデートしてくれる人は、もういないの?」
「俺は第二型のモデルだ。古すぎて修理士すらいねえ。これ、まだ動くのかって何度言われたか。はは、人間みんなくたばれってんだ」
男はすねたような声を出した。わたしは何も言う気になれなくて、おばあちゃんの手を引いて、ひたすら前を見ていた。
しばらく無言が続く。
「おい、姉ちゃん。話し相手になってくれよ。一人で生きてきた年月が長すぎて、誰かとしゃべりたいんだ。寂しいんだよ、おじちゃんは」
どうしようか悩む。彼は悪いアンドロイドではなさそうだし、旧式だからそれほどの機能は持ってないだろう。警戒心を抱くほど、強そうでもない。会話は続けることにした。
「あなたはどこで製造されたの?」
「永遠って呼んでくれよお。これでも最初は美形アンドロイドって売り文句で販売されてたんだからさ。そんで姉ちゃんの名前は?」
ちっ、と舌打ちが聞こえた。おばあちゃんだ。
「若い娘にしつこくするんじゃないよ。ババアにも話を振ってやる礼儀は見せないのかい?」
「ええ……? おばあさん、名前は?」
永遠は少し嫌そうに尋ねた。
「早苗だよ、早苗。こっちはひかりだ。わかったら無駄口たたくな。体力が削られる」
確かにそうだ。晴れているせいでいつも以上に暑い。気温なんてもう知りたくない。とにかく進む。足だけを動かす。それだけに集中する。
周りの空気が変わったのは、わたしたちが会話をやめてすぐのことだった。
こんな感覚は初めてだった。
空気が振動するような、奇妙な音といえばいいのか。景色に割れ目が入るような、一瞬の違和感が走った。
それは瞬く間に異変を知らせた。
周囲の逃亡者たちが動揺する声。何かが起きた。何かを感じる。正体不明の焦り。
「『列車』だ!」
突然、永遠が叫んだ。
「『列車』が来たんだ! 予定よりずっと早いぞ!」
永遠の叫び声は一気にみんなの耳を震わせた。雰囲気が一変する。びりびりした緊張感が辺りの意識を電流のように痺れさせる。
「見ろ! あれだ!!」
永遠が指さす方を見た。
窓ガラスに亀裂が走る時の音に似た、耳障りな轟音とともに、空が割れた。
割れた、としか言い表せられなかった。使い古された表現がこんなにも的確に状況を説明できるなんて、今まで知らなかった。空が割れた。本当に。ガラスのように。モニターの液晶画面が内部から破裂して、破片が飛び散った事故を連想させた。あれが空間ワープか。一体どうなってるのだ。頭で処理できない、超常現象のような現実だった。自分の見ているものが信じられなかった。
それは、とても大きな乗り物だった。
歴史の授業で習った、汽車という名前の、真っ黒な車体に似ていた。
黒い煙は吐かれていない。レールもない。いや、レールは目に見えないだけで、きっと車輪の下にあるのだろう。ワープ専用の空間移動の装置でもついているんだろうか。
ところどころ擦り切れた手垢の残る、使用感がぬぐい切れない古さがあった。大きな煙突は遠目から見ても錆びついた汚れが目立っていて、劣化していた。そもそも見た感じが洗練されてない。まるで田舎から来た娘が化粧のやり方を知らずに都会の服だけ着てしまったような、隠しきれない違和感があった。
これが、『列車』。
わたしは妙に冷静な自分の心を感じ取った。
とにかく、迎えは来た。『列車』は日本の東京駅に着こうとしている。
突如、誰かが息せき切って走り出した。
それが合図であるかのように、前の人も後ろの人も順番を無視して急に動き出した。
みんなが『列車』に殺到しだした。
誰かが誰かを押しのけて、誰かが地面に転がって、別の誰かが踏み上げた。
「押さないで! あわてないでよ、落ち着いて行動して!」
わたしはたまらず声を張り上げた。けれど聞く人などいない。みんな一目散に駆け出して、悲鳴と悲鳴がぶつかり合った。
わたしたちは肩を寄せ合って、人の波から少しずれた。何とかおばあちゃんを転ばせないために、ぶつかられても歯を食いしばって、地面に足を縫いつかせるように踏ん張った。
信じられないことに、『列車』は少し距離のある場所で停車したと思った次の瞬間、再びエンジン音をかけ始めた。
「まだみんな揃ってないのに発車しちゃうの!?」
「『列車』はAIが動かしている無人転送装置だ! やっぱり古い型番だ。火星からワープする時に時間の計算がずれたんだろう。そんなことはお見通しさ! 何のためにずっとアンドロイドやってきたと思ってる!? 生き残るためだよ! 人間よりずっと丈夫な俺が助かるべきなんだ!」
豹変した永遠は、わたしたちとしゃべっていたことも忘れてしまったみたいに、猛スピードで大きな車体に向かって突進した。
まるでイノシシのような激しさと足の速さだった。
確かに彼はアンドロイドだ。人間には真似できない身軽さで、周りの人たちを軽々と飛び越えていく。
「乗せろー!!」
絶叫に近い永遠の声に触発されたみたいに、みんなが暴れ始めた。暴力的な気の高ぶりがわたしたちを追い詰めている。
暑い。自分の汗で景色がゆがむ。タバコを吸いたい。状況と関係のない思考だけが頭を回る。
「あっ……」
おばあちゃんが小さく声を上げた。
わたしも声が漏れた。
永遠が男の人に足を引っ張られたからだ。
人々の塊の中に、永遠の体が飲みこまれた。
その後はもう見たくなかった。何も考えたくなかった。わたしたちは目をつむった。
何かが急に収まって、静まった。暴動のように興奮したその場の空気の高まりは、突如ぴたりと止んだ。
不気味なほどの静寂。
気が遠くなるような空気の重さだった。
恐る恐る目を開ける。
そこには倒れ伏して動かなくなった人たちがいた。
永遠を見つけた。
長い髪の、痩せっぽっちのひょろいアンドロイド。
わずかに体が動いていた。
まだ生きてる。わたしたちは思わず駆け寄った。
「永遠……!」
うつ伏せに倒れている永遠を抱き起こそうとして、わたしは動きを止めた。
彼が泣いていた。あきらめたように笑いながら、泣いていた。壊れているんだ。さっきの衝撃で、頭を強く打ったのだろう。人工の脳の部分がショートしてしまったのか。たった数秒にも満たないあの時間、永遠の命は散った。
「ひかり、早苗」
永遠の声がした。焦点の合わない目で、永遠がしゃべっていた。
「ひかり……。早苗……。ひかり……と、早苗……。ひかりと、早苗……。へへ…………」
永遠はわたしたちの名をしばらく呼び続けていた。
そして、ふっと電池が消えたみたいに、動かなくなった。
これはわたしの幻聴か。自分もおかしくなったのだろうか。さっき知り合ったばかりのアンドロイドが壊れただけなのに、友だちを亡くしたかのような激しい喪失感が襲いかかってきた。誰かの声が聞こえるけれど、もう自分の鼓膜が正常に動いている自信すらない。
重機が稼働しているみたいに、鼓膜をつんざくようなエンジン音が『列車』から聞こえる。
もう動くの? もうここから離れるの? これは事故? 誰が悪かったのだろう。永遠だろうか。彼を憎むことなどできないのに。
さっきから足が震えて仕方ないのは、わたしが弱いからか。
自分の意識が遠のいていくのを感じた。
「ひかり!!」
途端、頬に鋭い痛みが走った。
「行け!!」
おばあちゃんがわたしを殴った音だった。
「『列車』に飛び乗れ! お前しかいない!」
「何で!? 先におばあちゃんが入って後でわたしが……」
「バカかお前は! そんな時間がどこにある!? 今がチャンスなんだよ!」
「でも」
言いかけて、もう一度頬を打たれた。クソバカ女が! と狂ったように怒鳴られる。さらに二言、三言暴言を吐かれた。ほとんど鬼みたいになったおばあちゃんの怖い顔が、血走った目が、わたしにそれ以上の文句を言わせなかった。
「ちっぽけな正義感振りかざすんじゃねえ!! お前の細い体でわたしを背負えるかよ! ババアに気を遣うな! 逃げるんだ!」
「わたしは……。わたし、は……」
言葉がうまく出てこない。言いたいことはたくさんあるのに、目の前のおばあちゃんがあまりに勝手で、勝手なことばかり言って。それでも、わたしはおばあちゃんに逆らえない。この人がそばにいなかったら今までのわたしはなかった。
「ほらっ、行け!!」
まるで憎んでいるかのように、おばあちゃんはわたしの背中を突き飛ばした。前につんのめるわたしを、後ろから大きな怒声が叩いた。
「逃げないと殺すからな!」
老衰して小さくなった今のおばあちゃんじゃなかった。子どもの頃、不安で眠れないわたしを、がさつな言葉づかいで安心させてくれた、あの時のおばあちゃんだった。それはお母さんの声にも、お父さんの声にも聞こえた。罵声が聞こえる。みんなが怒っている。わたしに激昂している。
「逃げろコラァ!! 殺しちまうぞ!!」
走った。
振り返らなかった。
『列車』のエンジン音がほとんど轟音のようにわたしの耳を刺激する。
すさまじい光が周りの空気をどんどん薄くする。空間と空間が、大きく切り離されて捻じ曲がる気配がした。
『列車』が発進する。
直感だった。
わたしたちはもう二度と巡り会わない。
「跳べ!!」
おばあちゃんの絶叫がした。
こんなにうるさい音の中で、おばあちゃんの声だけが、はっきりと聞こえた。
ありったけの力で、わたしは地面を蹴り上げた。
手すりを掴む。
腕が千切れるほどに痛い。
それでも離すわけにいかなかった。
今まで出したこともない大声を上げて、わたしは、閉まりかけるホームドアに滑りこんだ。
体当たりのような勢いで地面にぶつかる。肩から背中に走る鈍痛。転がり続けるわたしの肉体。受け身を取って頭を守りながら、衝撃を吸収するのに必死だった。
向かい側のドアに叩きつけられるようにして、止まった。
ホームドアが完全に閉まっていた。
一瞬、静寂がよぎった。
『列車』が動く。
ズズズズ……と、地鳴りのようなおどろおどろしい音を立てて。
あっという間に時速を上げて、車体が走り出した。速い。乗客がほかにいるのかどうかもわからない。時間だけが動いていた。
喉の奥から熱いかたまりが唸り声を上げて昇ってきた。
溶岩が噴出するかのように、目の前が真っ赤になる。
獣のような咆哮が腹の底から沸き上がり、わたしは吠えた。
自分のことも、地球のことも、何も考えなかった。おばあちゃんのことも。
わたしは逃げた。
助かった。
助かったんだ。
怒りなのか喜びなのかわからない激情が襲ってきた。
すさまじい勢いで空気を切り裂く『列車』。猛スピードで宙を走り、ワープという名のレールに乗って地球を過ぎ去る『列車』。あまりに速いスピードに、わたしは床にへばりついて、飛ばされないように全身を振り絞ってしがみつくしかなかった。
振り落とされるもんか。
わたしは、笑ってた。いつの間にか口角を上げてニタリと微笑んでいた。んふふふふ、と不気味に気味悪く発する声を、抑えることができなかった。
火星は、どんなところだろう。
突然そう思った。
若い人が多いって言ってた。みんな熱い気持ちを持って元気に暮らしているんだろうか。楽しそうに生きているんだろうか。優しい人はいるだろうか。
未来が、あるだろうか。
わからなかった。ただ、わたしは助かった。転送装置に飛び乗った。どうにかなる。根拠のない自信があった。
顔から汗が吹き出て、床に水たまりができていた。それが涙であることに、しばらくわたしは気づかなかった。
了