第10話 君、死に給え。事勿れ
がちゃ、と再びドアが開く。振り向くよりも早く、その声は耳の中に飛び込んできた。「君、何を飲んでいるんだね」
そして両肩を背後からがっしと掴まれる。恵比寿の体はがくん、と前後に強く揺さぶられた。
「お」
「どこから持って来たんだね、そのハイボールは」次に頭の真上からその声が降ってきた。
「――あそこ」恵比寿は肩を掴まれたまま、右腕を伸ばし部屋の片隅にある小型冷蔵庫を指差した。
「む」肩から手が離れる。「ここか」次にその声が聞こえたのは冷蔵庫の前からだった。次の瞬間、がちゃがちゃと庫内の瓶缶類のぶつかり合う音がし、そして「これか」という声が続く。
「あ、俺にも一本、お願いっす」恵比寿は冷蔵庫を差した指をそのまま上向きに立て直して依頼した。
「ん」そう答える声の主は既に、缶チューハイの一口目を飲んだところだった。「おんなじやつ?」
「いや、チューハイのいちごのやつあるでしょ」
「いちご?」闖入者は驚愕の声を挙げた。「甘いの?」
「いや、飲んだことないからわかんないけど」恵比寿はさきほど掴まれた肩を竦める。
「まじか。これか」闖入者は顔の右半分をしかめつつ請われた飲料を恵比寿の元へ持って来た。
「あざっす」恵比寿は受け取り、それからやっと「お疲れっす、社長」と挨拶した。
「君、社長をこき使ったね」大山は顎をぐいと持ち上げて恵比寿を上から見下ろした。「私はこの会社の長であるぞ」
「咲ちゃんから報告来たの」恵比寿はぷしゅ、と缶を開けつつ訊く。
「なんか怒ってたぞ。まあいつもの事だけど」
「そんで、注意して来るとか言ってサボりに来たわけね」
「――」大山は特に答えもせず、チューハイをぐびぐびと飲む。「俺って、偉いんだって」ふうー、と長い吐息を天井に向けてつく。
「そりゃあそうでしょ、社長だし」恵比寿は笑い、いちごチューハイを飲んで更に苦笑する。「あめー」
「天津君が言ってたの」大山は木之花ばりに腰に手を当て更に飲んだ。
「えーえー、あたしらはこき使われる側の小間使い、鯰番ですよ」
「まあまあ」大山は恵比寿の肩を片手で掴み「日々の業務に感謝しております」頭を下げる。「鹿島さんにも言っといて」
「自分で言いなさいよ」恵比寿はまた苦笑する。「それはそうと、また新人来てるんだって?」
「ん」大山は缶から一口呑みつつ声だけ返し、少し置いて「うん」と小さく答えた。「また」
「大丈夫そう? どう?」
「うーん、俺まだ入社後面談してないから何とも言えないんだけど、天津とか咲ちゃんからの話によると」
「うん」
「――期待はするなって」
「えー」恵比寿は声を高めた。「じゃ今回もダメそうだと?」
「いや、そういう意味じゃなくて」大山はまたチューハイを飲む。「普通に、淡々と“事”を進めて行った方がいいってさ」
「ああ」恵比寿は小さく頷き、追ってチューハイを飲み「淡々とね」溜息まじりに繰り返す。
「まあ、まだ机上研修の段階だからね」大山は笑う。「実際に現場に入ってみないとわかんないよ」
「ま、そうね」恵比寿は肩を竦める。「けど今回、俺は会わないよ」
「ん」
「新人に」
「なんで?」
「――なんでも」
「――そうか」大山は何か思い当たる節でもあるように、それ以上は問わず、男神二柱は揃って酒を呷りつづけた。
◇◆◇
最初に三人には、それぞれの唱えるべき「呪文」が配布された。それはやはりA4サイズのコピー用紙に印刷された、現代風に素朴なものだった。
「はい、ではそれぞれまず目を通していただいて、それから一人ずつ、それぞれの呪文を読み上げていっていただきます。順番は、時中さん、本原さん、最後に結城さんとなります。では、お願いします」天津は一通り説明を下し、それから時中に手を差し出して促した。
「閃け、我が雷(いかずち)よ」時中は手許の紙に視線を落として読み上げた。
「迸れ、我が涙よ」天津の手が自分の方に向けられたのを見て、本原も読み上げた。
天津は最後に、結城にその手を向け促した。
「開け、我がゴマよ」結城も読み上げた。
「はい、ありがとうご」
「ゴマ」結城は天津の言葉を遮って目を剥き叫んだ。「ゴマっすか。いや俺ゴマとか持ってないっすけど。我がゴマって」
「ま、私も雷を持っていないと言えば持っていないが」時中が言った。
「でも、脳などで発生する電気信号を、雷と例えても良いのではないでしょうか」本原も意見を述べた。
「じゃゴマは? 臍のゴマ?」結城は二人を交互に見た。
「いやだ、汚い」本原が眉をひそめた。
「――」時中は小鼻に皺を寄せ目を細めた。
「いや、何言ってんのよあんた達。臍のゴマってあれ、服の繊維なんだから全然汚くなんかないわよ」結城は興奮した時の癖で女言葉になった。
「ええと」天津は気弱げながら話を先に進めることを目指した。「結城さん、あなたにはそれを唱えながら、特定の箇所にローターを挿し込んでいただきます」
「え」結城はとたんに声を比較的落とし、天津に注視した。「ローターを、挿し込む? 本原さんに?」
「君、死にたまえ」時中が間髪を入れず結城に告げた。「死なないのなら私が殺してやる」
「いえ、えーとあの、岩の壁に穿たれた、規定の穴の中にです」天津はまたしても場の空気を両手で押えなければならなかった。「まあ、今はまず、呪文、ワードの方だけ憶えていただければ」
「これで何が起こるんですか」本原が顔色一つ変えず質問をした。
「はい、まずこれで、鉱物粒子の間隙を広げます」天津がマジックを取り、ホワイトボードに楕円と、その中に小さな丸をいくつか描いた。「時中さんのワードで粒子間の有機物が消され、本原さんのワードでその空間に水が流れ込みます。その結果粒子間の距離が開き、最後に結城さんのワードと、ローターによる振動によって、岩が開きます」説明しながらホワイトボードの盤面には、有機物、水、といった名をつけられた丸が描かれそしてバツ印で消されていく。
「まじすか」結城が叫ぶ。「すごいっすね、ワード」
「しかし言葉で説明すると簡単に聞こえますが、これは相当難しい仕事になります」天津は数々の丸の描かれたホワイトボードを指でコン、と叩き注意を促した。「まあ当然といえば当然ですが、岩はそう簡単には開いてくれません」
「私もそう思います」時中が平常と変わらぬ声で返した。「というか、どんなに頑張ってワードを唱えたところで、一ミリたりとも開く気がしません」
「そこです」天津はマジックを握り込み、指揮棒のように一振りした。「そういった気持ちが脳内にある限りは、恐らく永久に開いてくれないでしょう」
「ではどういった気持ちになればよいのですか」本原が訊ねる。「信じる気持ちですか」
「というよりも、知識と、意識です」天津は答えた。
「知識と」時中が呟き、
「意識?」結城が叫び、
「まあ、素敵」本原が溜息混じりに囁いた。
「はい」天津は頷く。「まず岩石、地殻、さらには地球というものに関する知識を、脳で覚えるというよりも、血肉として身につけてください。その上でそれら、我々が対峙する岩石、地球というものの存在を、鉱物粒子のレベルで動かすことを、明確に意識してください。そこに我々の神力がほんの少し加われば」天津はそこで言葉を切り、三人を見回し、「岩は、開きます」と言った。