汽車
こんな初心者用のハイキングコースで迷うとは思ってもみなかった。
木々の密度からして深い森ではないようだが、元いたコースに戻ることができない。
下手に動けばかえって悪い状況に陥るだろうと思ったが、人の姿も声もなく、なぜか鳥のさえずりさえも聞こえない森が不安でたまらず、じっとしてはいられなかった。
だが、どこをどう歩いても同じ景色ばかりでどうすればいいのかわからない。
非常にヤバいのではないか。
そう思い始めたころ、かすかに声のようなものが聞こえて足を止めた。
だが耳を澄まして辺りを見回しても誰もいないし、それ以上声も聞こえない。ただの葉擦れがそのように聞こえたのかとがっかりした。
再び歩き出した時、近くの熊笹の茂みががさっと揺れた。
やっと人と会えると期待し「すみませーん」と声をかけたが、いっこうに姿を見せず、風もないのに熊笹だけが激しく揺れている。
危険動物かもしれない。怖くなって急いでその場を離れた。
だが、相変わらず景色は同じで、元のコースを見つけるどころかますます深く森に入り込んでいく。
これはもうだめだ。でもどうすれば――
立ち止まって焦りに乱れた息を整えているとまたかすかに声のようなものが聞こえた。いや、今度はちゃんと聞こえる。途切れ途切れだが確かに人の声だ。
耳を集中させ、声のするほうへと足を向けた。
「しゅっしゅっしゅっしゅっ」
近づくにつれ声がはっきり聞こえてきたが、いったい何と言っているのか。しゅっしゅっとしか聞こえないが――とにかく人がいるには違いない。
足を速めて進んでいくと木立の間から人の姿が見え隠れした。
よかった。助かった。
そう思ったものの違和感に気付いて思わず木陰に隠れた。
十数人の人々が自分の前にいる人の肩をつかみ一列に繋がって汽車ごっこをしている。しゅっしゅっという声はその人たちが発しているものだった。
密集する木立や低木の茂みに囲まれ、地面ではでこぼこ飛び出した木の根や腐った倒木が邪魔しているにもかかわらず、まるで平地の広場で遊んでいるかのように軽やかな足取りで前進している。
「しゅっしゅっしゅっしゅっ」
先頭を含め全員がうつむいて真下しか見ていないのに、ぶつかることなく、つまずくことなく、ぐんぐんぐんぐん進んでいる。
「しゅっしゅっしゅっしゅっ」
しかも、木立に見え隠れするたびに人数が増減した。
「しゅっしゅっしゅっしゅっ」
これは見てはいけないものだ。逃げなければ。
「しゅっしゅっしゅっしゅっ」
膝の震えを抑えながら踵を返そうとしたその瞬間、枯枝を踏んでしまった。
ぱきっという乾いた音は木立の間によく響いた。
「しゅっしゅっ、」
ぴたりと止んだ声に恐る恐る視線を戻すと――
汽車がゆっくりとこっちに向かって方向転換し、全員が頭を上げた。
みな輪郭が曖昧で滲んだような顔をしている。
「ぽっぽおおおおおおおおお」
先頭が大きな声で汽笛を上げた。
「しゅしゅしゅしゅしゅしゅしゅ」
汽車がものすごいスピードで突進してくる。
目の前まで来たが、彼らの顔は濡れた薄紙を張り付けたように滲んだままだった。
「しゅっ、しゅっ、しゅっ」
そう言いながら足踏みをする。
目の前は緑一色にぼやけていた。はっきり見えているのは前に立つ青年の肩とそれをつかむ自分の手だけ。
「ぽっぽおおおおおおおおお」
「しゅっ、しゅっ、しゅっしゅっしゅっしゅっ」
先頭の汽笛を合図に汽車が動き出した。