エピローグ4
何十年ぶりにここまで眠っただろう。まるで何もしなくてもいい穏やかな朝のような。
そんな柔らかなベッドの中で【ネネル】は目が覚めた。
だが、目の前にいたのは王子でも侍女でもなかった。「しーっ」と、口に指をあてている、イーグの影だけ。
その姿を見て、彼女はああ、なるほどなとすぐに思いかえすことができた。
そうだ、自分はエセリアに身体を任せて長い間寝ていたんだっけ。次に目が覚めるときは、もう彼女はこの世にはいない。それを覚悟して。
「……終わったのか?」と彼女はイーグに問うと、影はそっと無言でうなづいた。
「あいつは……ラッシュの方は大丈夫か?」
そっちの方も心配だ。なんせ自分と性格から立ち居振る舞いからまるで正反対のおしとやかなお姫様だ、そんなエセリアの精神が突然「わたし、ラッシュ様と結婚がしたいんです」といきなりしゃしゃり出てきた時には、自身もいったいどうしていいか返答に困ったのだから。
そう、二日足らずの逢瀬。あの男には最近ほとんど会ってないとはいえ……エセリアの心にどれくらい応えることができたのか。
「かなり落ち込んでた。しょうがないよな……目の前で姫さんが冷たくなっちまったんだし」
イーグの言葉が重い。分かる……エセリアはもうここには存在していないんだ。
そっと自分の胸に手を当ててみる。そこには自分の鼓動しか伝わってこない。
……もう、この中には自分しかいないんだなという寂しさが、背中からどっと襲い掛かってすらきそうだ。
「ラッシュが言ってた。姫がいなくなってもネネルのことは嫌いにならないでって。いい仲間であってくれって」
「仲間……ふふ、私はまだ彼女にすらなれぬのか。これでまた一から出直しじゃな」
エセリアと出会った頃の思い出が脳裏によみがえる。まるで小さな枯れ木のような、指一本動かすのもやっとなほどの彼女が、初対面の自分に、マシャンヴァルから逃げ出した……そう、リオネングにとって新たな仇敵であるネネルという自分に「私と友達になってくれる?」って一言だけ。弱々しい笑顔で精いっぱい言ってくれたあの夜のことを。
「お前の肉体を私がもらい、そして私の身体をお前に預けよう」と禁忌の誓いをしたあの時……。
戸惑いながらも、はいと応えてくれたから、自分はここで、新しいエセリアとして生きることができたのだ。
その瞬間から自分は二つの心を持つエセリアとして、慣れない姫としての立ち居振る舞いや仕事への参加も、二人で頑張ることができたんだ。
でも、これからは一人。
もう話し相手も姫としての心構えを教えてくれる彼女はもう、この世にはいないということを。
そしてイーグが去り、部屋には冷たく、しんとした空気だけが残されていた。
それは今日から始まる、一人だけの自分を生きる試練の時。
その時、押しとどめていた涙が、ネネルの目からどっとあふれ出した。
「そうか……お前はもう行ってしまったのか……私に一言も言わずに……」
東の空から登ってきた太陽が、徐々に部屋を白く明るく照らし始めてきた。だけど流れ出る涙を止めることはできないまま。
「分かっていたのに……なぜこれほどまでに寂しく辛いんだ……これから、いったいどうすれば……」
『ほら、ネネル泣かないで、私だって悲しくなっちゃうでしょ』
突然、響いたその声に、ネネルははっと顔を上げた。
彼女の隣に、ほのかに水色に光るもう一人の自分の姿……それはエセリアの声、エセリアの魂だった。
「エセリア、お前……」
『大丈夫、あなたは独りじゃないから。思い出して、私がいつも見護っていることを』
その光に包まれた手をそっと握ろうとはするが握れない、そうだ、もう天に還る魂なのだから。
『辛いときには泣いたってかまわないよ、寂しがり屋のネネル姫。これからのリオネングは貴女の手にかかってる。だから毅然として生きて……私が教えた通りに。そうすればみんなはおのずと貴女を慕ってついてくるから、ね』
涙でもう光までにじんで見えなくなってきた。
けどエセリアはここにいる。自分のすぐそばに。ずっと。
「エセリア……ありがとう、わたしの……あなたでいてくれて……」
言葉にならないネネルの声に、にこっと光がほほ笑んだ気がした。
『これからも頼むわね。リオネングを、父上と兄上を、そして……ラッシュ様と、けものびとの未来を』